Thanks God, It's Friday!
Thanks God, It's Friday!
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8987132
仕事人間・桜内とその部下・曜ちゃんが晩ご飯を一緒に食べることになる話。
いいことばかりじゃない日々も、おいしいご飯と君がいればしあわせ。
その後の話①:Sorry Honey, It's Thursday!(novel/10207582)
その後の話②:Holy Shit, It's Wednesday!(novel/10556406)
その後の話③:Just Kidding, It's only Tuesday!(novel/13496959)
01.「必殺仕事人」
花の金曜日。一体誰がそんな言葉を作り出したのか。
長いようで短い一週間の仕事を終え、駅へと向かうその道は、あちこちで酔っぱらいの騒々しい声が響く。本人たちは楽しいのだろうけど、働きづめでお昼ご飯すらまともに食べていない自分には耳障りでしかない。
膨大な量の仕事と戦ってくたくたになった後にバカ騒ぎする気力がよくあるわね。
冷めた目で居酒屋の前を通り過ぎ、すっかり黄色く色づいた街路樹の下を足早に抜ける。
明日は、少しだけ朝寝坊をして、散らかった部屋に掃除機をかけて、溜め込んだ洗濯物を干して、それから残った仕事を片付けて……。
何度週末を迎えても、予定は代わり映えのしない作業だけ。
どれだけ働いたって、どれだけお給料をもらったって、日々は空虚で、何一つとして満たされなかった。
何のために働いてるんだろ。
働く理由とか、生きる意味とか、
忙殺される日々の中で見失ってしまったもの。
大事に大事に両手で抱えていたはずなのに、
気付けば指の隙間から砂のように零れ落ちていた大切な何か。
社会に踏み出したばかりのあの頃、
確かにこの手の中にあったものは、
まだ見つからない。
「小林さん、次の企画書作ってもらっていい? まずは来週までに方針固めて報告して。それと明後日の会議の資料チェックしたから修正しておいて。データが少し古いみたいだから最新のやつに差し替えておいてね。誤字、脱字も多かったから次からは気を付けて。あと、この案件の見積依頼もやっておいてくれる? この間見積もり取った三社で相見積してくれたらいいわ」
はい、これ、と確認した会議資料を部下に手渡し、モニターに向き直る。
あとは明日までが確認期限の書類に目を通して、他部署からの問い合わせに返信して、週末の会議資料を作って……また今日も深夜帰宅コースになりそうだ。
こうしてる間に次々と増えていく未読のメール、ひっきりなしにかかる電話、積み重なる確認資料。
あー、部長がまた面倒事押し付けてきた。「桜内君にしか頼めないから」じゃないわよ。隣のチーム、超超暇そうじゃない。お菓子食べながらきのこ派かたけのこ派かで議論する暇があるならうちのチームの案件一つくらい手伝ってよ。
ギロリと睨んだモニターに映る受信箱には、「重要度:高」で転送されてきた部長からのメール。「対応期限:本日中」と書かれた件名を見ただけでもかなりの厄介案件だと分かる。今、何時だと思ってるのよ。あと三分で終業時間ですけど。
眉間に皺を寄せながらマウスをクリック。ダラダラと長文で書かれた本文は、メールの主旨が分からなくて余計にイライラを増長させる。あぁ、無駄な文章が多くて依頼内容を読み取るだけで時間を食う。頭の中で本文を添削しながら、赤だらけの内容を見返した。
「あ、あの、」
声を向けられているのが自分だと気付くのに数秒かかった。首だけで振り返れば、先ほど指示を出した部下が気まずそうに立っている。
「何? 質問?」
「あ、いえ、……」
「じゃあ何?」
相手はもじもじとしながら歯切れが悪い。言いたいことがあるなら早く言って。こっちは一分一秒も惜しいんだから。
「明日からレビュー予定の資料なんですけど、他の案件もかぶってまだできてなくて。でも、今日は息子のお迎えがあるので残業もできなくて、」
しどろもどろになりながら告げる彼女の意図がようやく見えてくる。「代わりにやってください」でいいじゃない。私だって子どもが待っている中、残業していけなんて鬼みたいなこと言わないわよ。
「いいわ、残りは私がやるから。ファイル、送っといてもらえる?」
「すみません……」
シュンと萎れながらも、終業のチャイムが鳴ると同時に彼女は足早にオフィスを後にした。
母親って大変ね、とは思いつつもまた増えてしまった仕事にげんなりする。部下のワークライフバランスを保つために自分のライフを削るなんて、いくら命があっても足りないわ。
入社から七年。部長曰く、「異例の早さ」で昇進が決まり、気付けば六年目でリーダー職に就いていた。うちの会社ではリーダー職になるには平均十年はかかるらしいので、比較的早い方なのだろう。自分としてはただ与えられた業務をこなしていただけなのでそのす
ごさはよく分からないけど。
黙々と仕事をするせいか、はたまたこの常に不機嫌そうな顔のせいか、裏では「必殺仕事人」だの「鉄の女」だのと呼ばれ、恐れられていることは知っている。
唯一の相談相手である経理の津島善子に「私は殺し屋じゃない」と不満を漏らせば、「人を殺めかねない殺気で業務を捌くからでしょ」と事もなげに返された。
だって仕事は捌くものでしょ。目の前に立ちはだかる案件は全て、ばっさばっさと切り倒していくわよ。
不服そうにぼやく私に、彼女は呆れながら「的確な命名だと思うわ」と言い放った。
納得いかない。
先ほど部下から送られてきたメールを開けば、今日中に片付けないといけない資料のファイルと参照フォルダのリンクが張り付けられていた。添付ファイルをクリックすると、なんとまぁ、穴だらけの資料とご対面。よくこれで人に頼もうと思ったわね。
「終電間に合うかしら」
所要時間をはじき出し、他の作業との兼ね合いを考える。あぁ、今日もまともなご飯は食べられそうにない。
「桜内さん、今から終電の心配してるんですか?」
項垂れる私に、まだ六時前ですよ、と青い瞳が笑いかけた。
三年目の渡辺曜さん。今年、他部署から私のチームに異動になった子だ。
何でも卒なくこなすし、教えたことはすぐに吸収する。粗削りなところもあるけど、それは若さゆえだし、きっといいプレイヤーになるだろうと彼女には密かに期待していた。
生まれもったルックスの良さと愛嬌のある性格のせいか、社内では男女問わず人気が高い。よく飲み会に誘われているのを目にするし、彼女にアプローチして玉砕した男性社員の話なんてものも女子トイレで耳にする。
それに、周囲の人間は怯えて私に声をかけるのも最低限だけど、彼女は違った。今みたいに不機嫌極まりない私の独り言にも反応して笑いかけてくる。モテる女子ってこんな感じなんだろうな。彼女を見てるといつもそう思う。
「お陰様で仕事が山積みなのよ」
こんなかわいくない返しをする自分とは正反対だ。カタカタと問い合わせの返事をタイプする音が強くなる。
「商売繁盛で何よりじゃないですか。あ、これ、よかったら残業のお供にどうぞ」
そう言って差し出されたのは小ぶりなビターのチョコレート。
「甘いの苦手って聞いたので」
そんなことを言った覚えはなかったけれど、彼女の笑顔を崩すことも憚られたのでそのままありがたく頂戴した。
結局この日は部長から押し付けられた仕事と今日中の資料を仕上げていたら終電を逃して、タクシーで帰宅したのは深夜一時を過ぎた頃。お昼ご飯のサンドイッチを食べて以降、口にしたのはコーヒーと渡辺さんにもらったチョコレートだけ。何か食べなきゃなぁと思いながらも、こんな時間に食欲も湧かず、シャワーだけ済ませてベッドに沈んだ。
金曜日。今日を乗り切れば三連休が待っているせいか、どことなくオフィスの空気も浮かれていた。
「桜内君、ちょっといい?」
午後イチでその声を耳にした瞬間、別に浮かれていたわけでもない気分は地の底まで落ち込んでいく。
「なんでしょう、部長」
できるだけ顔が引きつらないように気を付けながら振り向けば、部長は私の耳元に顔を近づけ、「この間の案件、ちょっとマズいことになってるみたいなんだ」と声を潜めてきた。
鼻につくタバコの臭いと加齢臭。
近いから。あと三歩離れて。
口に出せない言葉を飲み込み、「会議室に行きましょうか」と席を立った。
「いやぁ、どうもこちらがクライアントに提示した資料にちょっとした不備があったみたいで。それだけならまだ説明次第でどうにかなったんだけど、その問い合わせの対応がねぇ……とんちんかんなこと言っちゃったらしくて、相手さん、カンカンみたいなんだ」
部長の話によると、先日うちのチームで対応した案件のミスのせいでクライアントが大変ご立腹らしく、週明けに謝罪のために向こうの会社を訪問するらしい。資料作成は確か斉藤さんに頼んだはずだけど、どうやら自分の最終チェックの際に見落としてしまったようだ。
「問い合わせ対応したのって……」
「渡辺君だって。彼女、結構できる子だと思ってたんだけどねぇ」
薄くなった頭を掻きながら部長がぼやく。まさか彼女が相手を怒らせるような対応を取るとは思えないけど、とりあえずは事実確認が必要そうだ。
「本人に確認してみます。週明けの訪問は私も同席してよろしいでしょうか」
「うん、頼むよ。あと悪いんだけど、先方から追加で資料頼まれちゃったから作っといてもらえる? 次はミスのないように確認しっかりしておいて」
「分かりました」
本日も残業確定であることに頭痛を覚えながら、デスクに戻った。
「渡辺さん、ちょっと手伝ってもらっていい?」
「はい!」
周りの目を気にかけつつ、彼女を会議室に呼び出して事の次第を尋ねてみれば、対応したのは彼女自身で間違いないようだけど、どうも部長から聞いた話と所々食い違う。問い合わせ内容自体はそれほど難しいものではなく、それに対する彼女の回答も問題はなかった。どこで誤解が生じたのか、これ以上は直接相手に訊かなければ分からないだろう。
「ひょっとして私、何かやらかしました?」
「ううん、ちょっと資料に不備があって、その問い合わせ対応を誰がしてくれたのか確認したかっただけ。もう戻っていいわよ」
心配そうに私を見つめる瞳は納得した風ではなかったけれど、私がさっさと会議室を出たので彼女もそれ以上は何も訊いてこなかった。
終業のチャイムが鳴ると同時に次々と「お疲れ様でーす」と席が空になっていく。六人編成のうちのチームも、七時過ぎには私と渡辺さんの二人だけになっていた。
「桜内さん、まだ帰らないんですか?」
「ええ、やることあるから。気にせず帰ってくれていいわよ」
「……」
クライアントに頼まれた追加資料を作りながらコーヒーを一口。インスタントの安っぽい苦みが口内から胃にまで染み渡る。
あとはグラフを挿入して体裁を整えたら終わりかなぁ。あー、ダブルチェックしないとまずいわよね。もう人もいないし、週明けに派遣さんにやってもらえばいっか。
クルクルとマウスのホイールを回しながら資料全体を眺めていると、
「それ、この間の案件のですよね」
背後に人の気配。振り返れば神妙な面持ちでモニターを覗き込む渡辺さんが立っていた。
「やっぱり何かあったんですね。すみません、私も手伝います」
「いいの。私の確認ミスだから私が責任持ってやるわ」
「でも、……」
「もう九割型できてるし、あとはチェックしたら終わりだから」
「じゃあ、私、ダブルチェックします」
なかなか引き下がってくれない彼女に、どうしたものかと考える。
融通の利くタイプかと思っていたけど、案外頑固なのね。
真剣な目で訴えてくる彼女を見ながら、こんなことで議論する面倒くささに負けて今回は折れることにした。
「分かった。あと十分で終わらせるから」
連休前の金曜日に長々と居残りをさせるのも可哀想なので、残りの部分を大急ぎで仕上げるため、作業する手を速めた。
その後、二人で資料を確認して、不備があった箇所の修正を完了した頃には、時間は九時を過ぎていた。
スーパー、ぎりぎり開いてるかな。閉店間際の滑り込みを覚悟し、手早く荷物をまとめて帰り支度をする。
「じゃ、お疲れ様」
会社の前で彼女と別れ、駅に向かおうと少し急いでいると、「あの、」と呼び止められた。
「何?」
ちょっと急いでるんだけど。疲れのせいか気持ちが露骨に声に出た。不愛想な声に少し怯んだ様子の視線とぶつかる。
「ご飯、食べて帰りませんか?」
パンプスを脱いで上がったシンプルモダン調の店内は床全面がカーペット敷きになっていて、まるで人の家にお邪魔しているような気分になる。控え目だけど暖かみのあるオレンジの照明に、高い天井から下りるストリングカーテン。カジュアルダイニングと謳うわりには、店内はラグジュアリーな雰囲気を醸し出していて、少しかしこまってしまう。
パーテーションで仕切られたソファ席に案内され、腰を下ろせば、そのふかふかさに身も心も癒されて危うく瞼が落ちそうになった。
「ここのローストビーフがおいしいんですよ。あ、苦手なものとかあります?」
SNS映えしそうな彩度で撮られた料理たちが並ぶオシャレなメニュー。色とりどりの料理はどれも美味しそうに見えたけど、最近はろくな物を食べていないせいか、食に対する欲求が著しいほど低く、なかなか食指が動かない。
「特にないから好きなやつ頼んでいいわよ」
一杯目の生ビールだけ決めて、フードメニューのチョイスは彼女に任せた。シーザーサラダ、バーニャカウダ、アヒージョにトマトクリームグラタン、彼女のオススメのローストビーフ。彼女の口から次々と繰り出されるオーダーはカタカナばかりで、あぁやっぱり女子だなぁと感心する。部長や他のリーダー職の人との強制参加の飲み会はザ・居酒屋という雰囲気のお店で、枝豆、焼き鳥、唐揚げ、ほっけの塩焼きなど、おじさん臭満載だったことを思い出して苦笑い。あっちの世界に行くにはまだ早いと信じたい。
注文してからほどなくして、ファーストドリンクが運ばれてきた。
「えと、今日は私のせいで残業させちゃってすみませんでした」
硬い表情でそう言われた後、続く「お疲れ様です」の言葉にビールジョッキをカチンと鳴らして乾杯。こんもりと盛られたきめ細やかな泡が揺れる。
「だからあなたのせいじゃないから。そもそも資料に不備がなければ問い合わせが来ることもなかったし、今回は完全に私の確認ミスよ」
「でも、問い合わせの対応がまずかったから炎上しちゃったんですよね……」
「話を聞く限りあなたの対応に問題があったとは思わないし、向こうが勘違いしてる可能性もあるから、これ以上は議論しても仕方ないでしょ。お酒が不味くなるからその話はもう禁止」
業務命令よ、と釘を指し、その話を終わらせた。
シュンとなる彼女を目に入れないようにビールを口に含めば、喉でシュワッと炭酸が弾ける音がする。
「よく来るの? ここ」
自分から話を終わらせた手前、何か話題を振らないと、と思い、とりあえず無難な問いを投げかけてみる。
「いえ、今日で二回目です。前は同期に誘われた飲み会で来たんですけど、料理がおいしかったので」
桜内さんのお口に合うといいんですけど、とはにかむ笑顔はとても可愛らしかった。
こんな風に自分も笑えたら。
無心で働くうちにいつの間にか忘れてしまった笑い方。最近では笑い皺ではなく眉間の皺の跡が気になりだした。
昔はこんなのじゃなかったはずなのにな。
社会人一年目の頃は私だって「愛嬌のある新人さん」だったのに、七年の歳月を経て出来上がったのは冷酷無情な「必殺仕事人」。
部長に気に入られたのが運の尽きか、自分の担当外の業務まで頼まれては残業する日々が続き、仕事の忙しさで余裕をなくした心は、笑うことすら許してくれなかった。
この子にはそうなってほしくないな。
美味しそうにビールを飲む彼女を見ながら、自分と同じ轍を踏まぬようにと心の中で祈った。
「え、桜内さんもあそこのマンションなんですか!?」
会話を進めるうちに、住むマンションが彼女と同じであることが判明した。私が十階で、彼女が九階。会社が斡旋している物件だったのでそう珍しいことではないけど、彼女が入社してからの三年間、マンションでお互いの姿を一度も見かけなかったことは驚きだ。
「じゃあ今日は一緒に帰れますね」
なんでそんなに嬉しそうなのよ。普通は嫌がるところでしょ、上司と同じマンションだなんて。
もし私が部長と同じマンションだと分かったら引越しを考えるレベルだ。それなのに、目の前の部下はと言うと、お酒で赤くなった顔をへにゃりと緩ませながら「土日も桜内さんに会えるかもしれないなんてラッキーです」なんて言うのだから、どこか頭のねじでも外れているに違いない。
調子狂うわね……。
笑う彼女に何と返すべきか言葉が見つからなくて、代わりにビールジョッキをぐいと煽った。
血中に侵入したアルコールが全身を駆け巡って熱を上げてく。ふわふわとしたこの感覚は随分と久しぶりだ。あぁ、なんだか気持ちがいい。余計なことを何も考えなくていいからかな。
空きっ腹にビールを流し込んだせいか、いつも以上に酔いの回りが早い気がした。
「らからぁ~、ぶちょぉはなんれもかんれも人にまかせすぎらのよっ」
「桜内さん、分かりましたから! お水飲みましょう! お水!」
「ちょっとぉ、わらなべさんきいてんのぉ~」
「聞いてます! さっきからそれ百回くらい聞いてます!」
さすがにひゃっかいもゆってないわよ。てきとうなことゆわないでよね。これだからさいきんのわかいこは。って、こんなのわたしがおばさんみたいじゃない。
むぅ、と口を尖らして、私に水を飲ませようとする彼女のつやつやな頬を両手で撫でる。
「ちょっ、何やってるんですか!? こぼれちゃいますから!」
ふわ~すべすべ。メイクうすそうなのにこのはだのしろさときめのこまやかさってどうなの。ずるい。わたしなんてくまをかくすのにファンデもコンシーラーもぬりたくってるのに。ずるい。ずるい。あー、なんか、いじわるしたい。
若さへの嫉妬なんて自分が惨めになるだけだけど、諸々のストッパーの外れた私にはそんなことを考える余地すらなかった。
お会計をしようと呼び出しボタンに腕を伸ばす彼女に、気付かれないようそっと手を差し出し、がら空きな腋をこしょこしょとくすぐる。
「ひゃっ!?」
かわいらしい悲鳴が上がり、顔を赤くしたまま目を大きく見開いた彼女がこちらを振り向く。
「ふふ、すきあり」
あれ、いまわたし、わらった? わーめずらしい。こんなふうにわらうのなんていつぶりだろう。
彼女の驚く顔が可笑しくて、自然と口角が上がる。長い間凍てついていた心がほんの少しだけ融かされたような、そんな気分。
おさけのちからってこわいのね。こんなのわたしじゃないみたい。
どうしてきょうにかぎってこんなきもちになるのかしら。
かんがえるほどあたまのなかがふわふわして、まわりがゆらゆらゆれて、まぶたがおもくなって。
薄れる意識の中、最後に聞いた彼女の声。
「なんでそんなにかわいいんですか……」
かわいい?
いったいだれにいってるのよ。
てんいんさん?
あなたのほうがずっとかわいいわ。
*
ぐらぐら、ずきずき、脳の中で七人の小人が暴れているような感覚。
あぁ、待って。そんなに暴れたら白雪姫だって目を開ける気を失くしてしまうわ。
もう少しだけ、このまま眠らせて。そうすれば、自然と目を開くから。たとえ運命の人が迎えに来なくても。
そう願っても、私の声が届かないのか、小人は脳内を駆け回り、一層不快感が増していく。
ああ、もう。もっと深く潜りたいのに、彼らの盛大な足音のせいでどんどん意識は浮上していき、微かに開いた目から光が射し込んだ。
今日、何曜日だっけ……もう一回寝たい……。
布団に入ったまま枕元にあるはずの携帯を手探りで探すけど、手は空を切るばかり。
「んー…」
体を起こしてもう一度確認したけど、そこに携帯の姿はなかった。
代わりに居たのは、
「おはようございます」
ドアから顔を出した部下だった。
「……は?」
なぜ彼女がここに居るのか、意味が分からず間抜けな声が出る。
え、なんで? なんでいるの? 不法侵入?
昨日、何があった? 渡辺さんと残業して、そのままご飯に行って、久々にお酒飲んで……それから?
「ひょっとして覚えてないんですか?」
固まる私を見て寂し気な瞳をする彼女。
あぁ、どうしよう。微塵たりとも覚えていない。私、何かとんでもないことをやらかしてしまったんじゃ。
最悪の事態を想定しながら小さく頷く。
「そっか……でも、気にしないでください。"かわいい桜内さん"が見れたので、私は満足です」
ちょっと待って。なんでそんなに恥じらいながらはにかむの? これ、アウトよね? パジャマは辛うじて着てるけど、やけに乱れてるし、身体もなんだか怠い。
記憶はないのに、至近距離で感じた彼女の体温や匂いが急速に甦ってきて、ぶわっと顔が熱くなる。私を見て寂しそうに笑う彼女の姿が痛々しい。
私、なんてことを。あぁ、何か、何か言わないと。
「ごめんなさいっ!! 私、全然覚えてなくて、で、でも、お酒の勢いとかじゃなくて、いや、気持ちがあったかと言われるとまだ分からないんだけど、」
「へ?」
「え?」
どちらも間抜けな顔をしたまま数秒の沈黙。
「あっはははは! ちょ、何言ってるんですか」
沈黙を破ったのは顔をくしゃくしゃにしてお腹を抱える彼女の笑い声だった。
え、何、どういうこと?
「いやー、ほんと、何も覚えてないんですね」
まだクスクスと笑う彼女に昨夜の私の一連の愚行を聞くと、酔ってお店で寝てしまい、タクシーで家まで連れて帰られ、私の部屋まで運び込まれたはいいものの、彼女に抱きついたままベッドにダイブし、小一時間ほど彼女のことを離さなかった挙句、急に起き上がったかと思えば、その場でその日に食べたものを全て戻したらしい。
パジャマが乱れていたのは、彼女が眠る私の汚れた服の着替えを試みてくれたのだけど、私が眠りながらも嫌がって抵抗したから。
身体がやけに怠かったのも、二日酔いに加えて寝てる間に暴れていたとなれば不思議ではない。
最悪だ。
赤く火照っていた顔は彼女の話が進むたびにどんどん青ざめていき、聞き終わる頃には血の気のない顔で床に正座していた。
「本っ当に、ごめんなさい」
両手を揃えて膝の前につき、頭を下げる。
自分の愚かさで彼女の顔が見られない。
酔っぱらって部下に管を巻いた挙句に、家まで送ってもらい、吐瀉物の処理までさせるって、パワハラの域を越えている。おまけに一線を越えてしまったのかと勘違いするなんて、もうこれ死んだ方がマシじゃない?
「いや、やめてくださいよっ! 頭、頭を上げてください!」
彼女も床に膝をつき、フローリングに正座で向かい合うよく分からない構図になる。
恥ずかしさと気まずさで彼女の顔を直視できず、その場で俯いていると「ほら、朝ご飯できたんで一緒に食べましょう!」と手を取られた。自分よりも高めの体温が指先を包む。
彼女に連れられるがままリビングへ行けば、小さなテーブルに二人分の朝食が用意されていた。玉子焼きにきんぴらごぼう、鮭の塩焼き、ワカメと玉ねぎのお味噌汁、ほかほかの白ご飯。ここ数カ月、いや、数年、我が家には並ぶことのなかったおかずたちが食卓を飾っている。
「……すごい。でも、うちには食材なんて、」
「失礼ながら冷蔵庫を拝見して、驚くほど何もなかったので自分の家から持ってきました」
我が家の冷蔵庫には水とゼリー飲料、あとはエナジードリンクくらいしか入っていない。大変殺風景なあの中身を見られたのかと思うと非常に決まりが悪かった。
「桜内さん、ご飯ちゃんと食べてます?」
冷蔵庫の方に視線を送った後、ジトリとした目を向けられる。
彼女が先ほどまで作業をしていたキッチンには、コンビニ弁当の空き容器やゼリー飲料のパック、エナジードリンクの空き缶などのゴミが大量に積み上げられていた。
「見れば分かるでしょ」
ここまで見られたのであれば、もはや取り繕う必要もない。椅子に腰かけながらぶっきらぼうに返事をする。
「あんなんじゃ早死にしちゃいますよ」
「いいわよ、死ぬなら死ぬで。大して未練もないし」
だらだらと意味もなく生き長らえるくらいなら、ポックリ逝ってしまった方がいい。何がなんでも生きたいと願うほど、この世に執着心もなかった。
「ダメですよっ!」
リビングに響く彼女の声。あまりの勢いにビクッと肩が跳ねる。
「あ、……いや、桜内さんが死んじゃったらうちの会社潰れちゃいますし……」
「私の代わりなんていくらでもいるわ」
「そんなこと、ないです」
寂し気な顔で否定してくれる彼女は優しい子なんだと思う。
私の代わりなんていくらでもいる。会社なんてそんなものだ。むしろ、その人なしでは潰れてしまう会社なんてどうかしている。所詮サラリーマンなんて数多と存在する傭兵の一人に過ぎないし、いなくなれば代わりを補填して終わり。
そんな冷めた気持ちになったのはいつからだったか。夢も希望もなさ過ぎて、意欲の高い目の前の部下に申し訳なさでいっぱいになる。
「いただくわね」
話題を断ち切るように、彼女の作ってくれたお味噌汁に手を伸ばす。一口すすれば、口の中に広がるだしの風味。空っぽだった胃袋にその温かさが沁み渡った。
「おいし……」
お味噌汁ってこんなに美味しかったかしら。誰かが自分のために作ってくれた料理なんて、実家で母親が作ってくれたオムライス以来だ。それももうかなり前の記憶な気がするけど。
忙しさに足を掴まれ、ずるずると嵌まっていった沼の中には無機質な味しか存在しなくて、それに慣れてしまった私にはまともな味覚すら残っていなかった。だけど、彼女が作ったお味噌汁はちゃんと「味」がした。ここしばらく味わえていなかった温かみのあるやさしい味。
自分を想って作られた料理は、こんなにもおいしいのか。
「桜内さん!?」
「え?」
突然、驚いた様子の彼女に名前を呼ばれる。「どうしたんですか!?」と慌てる彼女に、意味が分からず首を傾げる。
あなたがどうしたのよ。そんな顔して。
彼女は部屋を見渡し、何かを見つけたのか立ち上がって、また戻ってくる。その手にはティッシュの箱が握られていた。
「どうぞ。って、桜内さんの家のですけど」
そう言って差し出されてもなお、彼女の言っている意味が分からなかったのだけど、顎先から滴り落ちた水滴がテーブルを濡らしたことでようやく気付く。
私、泣いてる……?
自然と零れる涙に自分自身が混乱した。
だって、なんで、お味噌汁を飲んだだけなのに。
「久しぶりにまともな朝ご飯食べたからかしら」
適当な言い訳を探しながらティッシュで目元を拭い、ほんのりと黒く汚れたそれを見て、昨日はメイクしたまま寝たんだったと余計なことを思い出す。
それにしても、お味噌汁を飲んだだけで泣くなんて、さすがの渡辺さんもドン引きだろう。昨夜から彼女には見られたくないところばかり晒してしまっている。あぁ、ダメウーマン。
「あの、提案があるんですけど」
「提案?」
自分の失態に打ちひしがれている私に対し、おずおずと顔の横に手を挙げて、上目づかいで青い瞳がこちらを見やる。
「えと、たまにでいいのでこうしてご飯一緒に食べませんか? 私、桜内さんの分も作るんで」
彼女の口から繰り出されたのは、耳を疑うような提案。これだけの醜態を見ておいてなお、私とご飯を食べたいと言うのか、この部下は。
「よくできた部下」を通り越してもはや恐いわよ。なに、一体何が目的なの!?
まさか弱みを握られようとしてる? でももう十分見せたわよね? もしかしてこれからずっとそれをネタに脅されるとか!? いや、彼女に限ってそんなことは。
彼女の企みが分からず、頭の中で疑問がぐるぐる渦を巻く。
「やっぱり、ご迷惑ですよね……」
「いや、迷惑なんかじゃ、」
黙ったままの私を見て引き下がろうとする彼女を思わず引き留めると、水晶みたいな瞳がキラキラ光った。
あ、マズイ。
「じゃあ、いいんですか!?」
だから何でそんなに嬉しそうなのよ。
にこやかに笑う彼女が何を考えているのか私にはまったく分からなかったけど、その勢いに押されコクリと頷いた。
02.「Friday Night」
最初は週に一度。金曜日の夜に渡辺さんの家で。次第に回数が増えて、週に二、三回。
「一人分も二人分も作る手間は同じなので」
結局、そんな彼女の言葉に甘えて平日の夜はほとんど一緒に食事を取るようになった。場所も彼女の家から私の家に変わった。
「桜内さん、食べた後にそのまま寝ちゃうときあるじゃないですか。私の部屋から運ぶの結構大変なので、こっちの方が楽なんです」
使い慣れた自分の部屋の方がいいのではないかと彼女に問えば、なんとも耳が痛い言葉が返ってきた。言い返せぬまま全面降伏して合鍵を渡し、私の帰りが遅いときも帰宅すれば彼女が晩ご飯の準備をしてくれている。
「なんか新婚さんっぽくないですか?」
部長に押し付けられた仕事を片付けて家に帰れば、玄関先でエプロンをした彼女に「おかえりなさい」と出迎えられる。
確かにこのシチュエーションは新婚っぽいけど。
「お風呂にします? ご飯にします? それとも、」
「お風呂」
ふざけて新妻を装う彼女に見向きもせず、靴を脱いでスタスタと横を通り過ぎる。
「最後まで言わせてくださいよ~」
そんな茶番に付き合っていられるほどの元気、私には残ってない。
背中に彼女の楽しそうな声を聞きながら、疲れた体をお風呂場へ運んだ。
自分から提案するだけあって、渡辺さんは料理が上手かった。
味はもちろんのこと、手際もいい。和食も中華もイタリアンも、食材を買ってきてはパパっと簡単そうに作ってしまう。私はいつもそれを見ているだけ。手伝おうにも彼女が「先にお風呂入っててください」なんて甘やかすものだから、最近はそれが定番化している。これじゃ本当に新婚夫婦だ。
「あ、湯加減どうでした? 丁度ご飯も炊けましたよ」
お風呂から上がれば、「今日は炊き込みご飯です!」と意気揚々に炊飯器から湯気の上がるご飯をよそっていた。
「よく仕事から帰って来て炊き込みご飯を作る気になるわね」
「この季節って食べたくなりません?」
疲弊した身体で晩ご飯を作る気力は私にはないので、彼女とご飯を食べるようになる前までは買ってきた総菜やコンビニ弁当で済ませることが多かったのだけど、彼女の場合は仕事の疲れよりも食べたい気持ちが優先するらしい。
今日の晩ご飯は、炊き込みご飯にさんまの塩焼き、なめこと三つ葉のお味噌汁、かぶの酢の物、ピーマンの焼きびたし。秋らしいメニューが並ぶ中、一人暮らしを始めてから自分では絶対に手に取ることのなかった食材が一つ、目についた。
しばらくぶりにお目にかかる緑色のそれ。私の苦手な緑のアイツ。もういい大人だし、食べられないことはないはずだけど、その小鉢にだけなかなか箸を持つ手が伸びない。
「焼きびたし、お好きじゃなかったですか?」
いつまでも手をつけられないそれに気づかれ、捨てられた子犬のような悲し気な目を向けられる。その目はずるい。
「……今から食べようと思ってたの」
白々しい言い訳を口にして、緑色のそれを箸でつまむ。
他の食材と混ぜ合わさって出てくるならまだいい。味覚の誤魔化しもきく。でも、目の前に出されたそれは、素材の良さをそのまま感じられるありのままの姿だった。申し訳程度にかけられたかつお節ではさすがにこの舌も誤魔化せはしないだろう。
躊躇しながらも、ピーマンが苦手なんて子どもじみた味覚が彼女にバレることが嫌で、口の中にそれを放り込む。
一噛み、二噛み。
あー…やっぱり、苦手だわ。
久々に食べたそれ。大人になると味覚が子どものときより鈍感になるから、苦みだってあまり感じないかと思っていたけど、どうやらそういう問題ではないようだ。できるだけ早く口内から追い出すように、数回噛んですぐに飲み込む。舌に残る苦みはなかなか消えないし、飲み込んだ後も胃の中でずっとその匂いが残っている気がするからピーマンは好きじゃない。
一切れを食べ終えたところで、伸びてきた手に小鉢を奪われた。
奪った相手を見れば、ニヤニヤした顔でこちらを見ている。
「ふ、ふふ…、桜内さん、涙目じゃないですか」
「そんなことっ、」
言い返そうとしたところを、分かってますと言わんばかりに手で制された。
「苦手なものはピーマン、覚えました」
クスクスと笑いながら、小鉢のピーマンを口に運ぶその様がとても憎たらしくて。
「子どもっぽいと思ってるんでしょ」
「いえいえ。またかわいい桜内さんを知れて嬉しいです」
上司に「かわいい」ってどうなのよ。ニヤけ顔を隠す気のない彼女を睨みつつ、お茶でまだ残るピーマンの味を流し込み、気を取り直すようにお茶碗に手を伸ばした。
「炊き込みご飯のお味はいかがですか?」
「……おいしい」
鶏そぼろとしめじの入ったご飯は、生姜の匂いが香ばしくて食欲がそそられた。細く切られたにんじんが彩りを添える。
ほどよい感じで甘辛く味付けられたそぼろがご飯と絶妙なハーモニーを生み出し、次から次へと箸が進んでしまう。
悔しいけど、おいしい。このままだと秋の食欲も手伝っていくらでも食べてしまえそうだ。
「よかったぁ」
先ほどまでニヤついていた顔がさらにだらしなくなってふにゃりと崩れる。
だから、その顔はやめなさいって。
私が「おいしい」と言う度、彼女は今みたいにふにゃふにゃの笑顔になる。
何がそんなに嬉しいのか私にはまったく分からないけど、その顔を見る度に胸の辺りが締め付けられるような気持ちになるから、私はその顔が好きじゃない。
「ヘンな顔」
「えぇ~ヒドイなぁ」
でも、へらへらと笑う彼女とご飯を味わうこの時間は、結構好きかもしれない。
*
ピコピコ。
定時を三十分ほど過ぎ、パソコンのモニターとにらめっこをしながら会議資料を確認していると、タスクバーのアイコンが点滅した。社内用のチャットアプリが自動的に立ち上がる。
『You Watanabe:今日はどうします?』
続くビールの絵文字で今日が金曜だと気付かされる。
また一週間が疾風のように過ぎ去ってしまった。週前半の記憶がない。いや、昨日の分だって怪しい。
似たような書類、不明瞭な問い合わせ、退屈な会議。繰り返される毎日に、相変わらず意味は見出せていないけど、それでも働かなければと自分の中の何かが責め立てる。
根が真面目だと生きづらいわね。
二十何年と連れ添ってきた性格を恨めしく思いながら片手でキーボードを叩いた。
『Riko Sakurauchi:飲む』
『You Watanabe:承知です!(*> ᴗ •*)ゞ』
秒で返ってきたメッセージを目の端で捉え、アプリを即座に閉じた。他の人に見られると面倒なので形跡は残さない。
「お先に失礼します!」
先ほどまでチャットをしていた相手がバタバタと慌ただしくオフィスを出て行った。
そんなに急がなくてもいいでしょ。
駆け足でドアの方へ向かう彼女の背中を見送りながら、こけなきゃいいけど、とほんの少しだけ心配をした。
金曜日の夜。いつもなら満身創痍で家へ帰って死んだように眠るだけだったけど、最近は彼女と晩酌をするようになり、仕事を早めに切り上げて帰ることが多くなった。
決して彼女との晩酌が楽しみだからというわけではなく、金曜ぐらい溜まった鬱憤を晴らしてガス抜きをしたいし、断るとものすごーく寂しそうな顔をされるし、寝覚めが悪いので、仕方なしにだ。
晩酌が決定されると彼女は先に帰り、全力で晩ご飯を作って私の帰りを待っている。他のどの日よりも金曜日の夕飯が一番豪華だった。
五日働き抜いた後にあれほどの体力が残っているなんて、尋常じゃない。学生時代は水泳部だったと言うから、きっと私の何倍も体力はあるのだろうけど、それにしてもあれはちょっと異常よね。先週食べたイタリアンのフルコースを思い出しながら苦笑い。前日から準備していたと言うお手製のピザが出てきたときは「料理人になった方がいいんじゃない?」と真剣に彼女の将来を考えた。
「桜内さん専属コックとして雇ってもらえます?」なんて冗談交じりに言っていたけど、彼女の料理はどれも本当にお金を払ってもいいレベルだ。どこまでも器用な子だなぁと心底思う。
「今日はスペインバル風にしてみました!」
彼女から遅れること一時間半、帰宅すると待っていたのはスウェットにエプロン姿の彼女とテーブルからはみ出んばかりの料理たち。
アンチョビサラダ、カマンベールチーズのフリット、スペイン風オムレツ、イベリコ豚のロースト、パエリア。
一時間そこらでこんなに作れるものなの?
相変わらずの品数と豪華さに感心してしまう。
「毎度毎度、すごいわね」
「へへ、今日はちょっとリッチにワインです」
褒められたことが嬉しいのか、照れながら笑うその手にはワインボトルが握られていた。
彼女が用意してくれたグラスに深みのある赤紫色の液体が注がれる。
「ではでは、かんぱ~い」
彼女の音頭に合わせてグラスを掲げ、優しく重ねれば、ガラスの上品な音が響く。
「はぁ~、金曜に飲むお酒は格別ですね」
まるで温泉にでも浸かっているような顔をするものだから、「幸せそうね」と小さく笑えば、彼女はますますだらしなく顔を崩す。
ちょっと緩みすぎじゃない?
「桜内さん、最近よく笑いますよね」
「え? そう?」
自覚はなかった。仕事をしていて面白いことなんて一つもないし、部長やクライアントに見せる愛想笑いは最低限だ。「桜内が睨むと死者が出る」とまで言われた鋭い眼光を放つことはあっても、笑うことなんて滅多になかった。
「前は十割が険しい顔でしたけど、今は九割五分になった気がします」
大して減ってないじゃない。どうせ四六時中不機嫌面で仕事してるわよ。彼女の答えに少しむっとなりながら、そう言えば、と今日会社であったことを思い出す。
「同期にも丸くなったって言われたわ」
「え、そうですか? もっと太った方がいいくらいだと思いますけど」
「体型じゃなくて性格の話」
話の流れで分かりなさいよ、と呆れながらチーズのフリットに手を伸ばす。
今日の午後、たまたま女子トイレでよっちゃんと一緒になり、久々に会う彼女に「なんか、雰囲気違うわね。別人かと思ったわ」と言われたのだ。
どういう意味かと訊けば、一言「丸くなった」と。アラサー女子をつかまえて「丸い」とは何事よと、そのときは彼女に不満を漏らしたのだけど、「必殺仕事人も血の通った人間なのね」と意味深な笑みで逃げられた。
私だって血ぐらい通ってるわよ。赤血球も白血球も血小板だって血管の中を駆け巡ってるわ。定期健診で貧血気味とは言われたけど。
「桜内さん、元から優しいじゃないですか」
至って真面目な顔で返されたけど、決して優しくはない自負はあったのでその言葉に耳を疑う。
私を優しいと感じるなんて、この子は一体どんな虐げられた環境で育ってきたと言うのだ。彼女の『優しさ』の閾値の低さに、その生い立ちを勝手に想像して憐れみの目を向けてしまう。
「おだてても仕事は減らさないわよ」
「本音ですよ。そりゃ厳しいとこもありますけど、無理なことは絶対言わないし、困ってたらフォローだってしてくれるじゃないですか」
「無茶されて困るのはこっちだからよ」
無理を言って穴だらけの成果物を出されても困るし、業務の遅れで支障が出ても困る。部下のためというより、すべて自分のためにやっているに過ぎないのだから、私は優しくなんてない。
優しさっていうのは、相手のことを思いやるから生まれるものでしょう?
誰かのためを思うことなんていつの間にか忘れてしまった私は、そんなスキル持ち合わせていない。
考えを突き詰めるほど居た堪れなくなり、なんとも言えない気持ちでワインを煽る。
「桜内さんって彼氏とかいないんですか?」
「なによ、急に」
「うちの会社、桜内さん狙いの人結構いるらしいので、どうなのかなって」
「物好きがいるものね」
優しくもない冷酷非情な必殺仕事人と付き合ったっていいことなんてないでしょうに。うちの会社はマゾヒストが多いの?
くだらないことを考えながら、ワインをもう一口。ほどよい渋みが舌の上を踊る。
彼女と飲むと大抵ペースを乱されるから、いつも簡単に酔っ払ってしまう。
「で、どうなんですか?」
好奇心旺盛な瞳が笑いかける。
なんでそんなに知りたがるのよ。私のことなんて興味ないくせに。上司のプライベートなんて芸能人の恋愛沙汰よりどうでもいい話でしょ。
思いながら、一人の影が脳内をちらつく。
「……いたけど、振られた」
お酒のせいか口が滑った。無用なことを喋ってしまったとすぐに後悔する。
気まずそうに「すみません……」と謝る彼女に、埃をかぶってしまった記憶をなぞりながら「昔の話だから」と呟いた。
入社一年目の頃、仕事を教えてくれた三つ年上の先輩。仕事のできる人で、自分の業務を完璧にこなしながら新人の私の面倒を丁寧に見てくれていた。
優しくて、頭が切れて、周りからの信頼も厚い。社会に出て右も左も分からない私の憧れだった。
『桜内はきっとこの仕事向いてるよ。すぐに上に行ける力を持ってると思う。だからこんなことで落ち込むな』
初めて一人で任された仕事でやってしまったミス。それほど大した問題にはならなかったけど、当時の私にはそのときあった自信を全て捻り潰されるような気持ちになるほどに落ち込んだ。そんなときに私を励ましてくれたのが彼だった。
『失敗から学んで人は強くなる。落ち込むんじゃなくて、ラッキーだったと思おうぜ』
そう言って笑う彼に追い付きたくて、がむしゃらに仕事にのめり込んだ。勉強だってたくさんした。それだけが生き甲斐だった。
彼から告白をされ付き合えることになり、舞い上がった私はもっと仕事に励むようになった。
でも、彼が望んでいたのはあくまで自分の後輩である私だったのだ。
『梨子の存在がプレッシャーなんだ』
別れ際に言われた台詞。
彼に追い付こうとしてどんどん業績を積み上げていく私のことをどうやら本人はよく思っていなかったらしい。結局、別れた数ヵ月後に彼は転職をして、その会社で出会った人と結婚したのだと風の噂で聞いた。
「彼に追い付きたくてひたすら仕事に打ち込んでたら、そんな私が彼を追い詰めてたの。笑っちゃうでしょ?」
追いかけていたはずの背中は知らないうちに見失ってしまっていて、気付けば傍には誰もいなくなっていた。残ったのは積み上げた業績と使う暇のなかったお金だけ。失ったものに対して、手に入れたものはあまりにも陳腐で、空いてしまった心の隙間を埋めるには小さすぎた。
何をしても楽しくなくて、働く意味すら分からなくなって、毎日が空っぽだった。でも、仕事をする手を止めてしまえば彼のことを思い出してしまうから、思い出を追い出すように仕事に専念するようになり、業績は伸びていく一方。上がる職務階級に反比例して冷めてく熱意。忙しさで誤魔化して忘れてしまった何かは、本当はとても大事なものだったのかもしれない。
「仕事に一生懸命な桜内さんは、かっこいいですよ」
真っ直ぐ向けられた視線は憐れみでも励ましでもなく、ただ彼女の中にある想いを必死に伝えようとしてくれていた。
あぁ、私はいつもこの子に救われている。
「……ありがと」
私は上手に笑えているだろうか。出来の悪い笑顔じゃ彼女に気を遣わせるだけなのに。
テーブルの向こう側にいる相手を見れば、「パエリア、自信作なので食べてください」と何事もなかったように笑いかけてくる。気遣いすら感じさせないその振る舞いは、対人能力に長けている彼女らしいと思った。
「あ、…もうこんな時間ですね。そろそろお開きにしましょうか」
彼女の料理の腕前や学生時代の話を聞いていたら、いつの間にか零時を回っていて、彼女が慌ててグラスを片付け始めた。
何度ここで飲んでも、彼女は片付けを済まして自分の部屋へ戻っていく。彼女が酔い潰れたところを見たこともなければ、たまに寝落ちした私をベッドまで運んでくれていたりもする。どんなときでも彼女は律義に自分の部屋に戻るので、朝までこの部屋にいたのは、初めてここに来た日以来一度もなかった。
「ねぇ、土曜って何か予定あるの?」
毎度毎度、自分の部屋に帰っていく彼女に不満があるわけではないけど、気になったので思わず口をついた。責めるような口調になってしまったことに別に意味はない。元々の性格のせいだ。きっと。
「え? いえ、特にないですけど……」
「じゃあ、今日は朝まで付き合って」
いい具合に酔いが回っていた。自分と彼女との関係性を忘れるくらいには。
朝まで付き合えなんて、パワハラもいいとこだ。そんな酔った上司の業務命令を真摯に受け止めた彼女は怯えた目で「は、はい……」と答えながらおずおずと腰を下ろす。
これ、訴えられたら完全に負けるやつね……。
後々のことを考えるのが面倒になって、彼女のグラスに少しやけくそ気味にワインを注いだ。
「桜内さーん、桜内梨子さん! うわぁ…本当に寝ちゃったよ」
第二ラウンドに突入し、仕事の愚痴を延々と述べた後、スイッチが切れたように桜内さんはテーブルに突っ伏して眠りに落ちた。
桜内さんとお酒を飲む度に、私の中では「絶対に寝てはいけないサシ飲み」のスタートゴングが打ち鳴らされるのだけど、今日は「朝まで」なんて時間延長が言い渡されたものだから、いつも以上に気を引き締めていたのに、そうだ、この人あんまりお酒強くないんだった。
仕切り直しのゴングが聞こえてからまだ一時間半。朝と呼ぶには早すぎる深夜帯。静かな部屋には桜内さんの寝息だけが微かに聞こえる。
しばらくその姿を眺めた後、風邪を引かれてはたまらないと思い、立ち上がってすぐに桜内さんを寝室に運んだ。
抱きかかえたその人は相変わらず羽毛みたいに軽くて、折れそうな細さの腕を見る度に「死んでも構わない」と平然と言ってのけた彼女のことを思い出して胸の奥の方が苦しくなる。
もっと自分のことを大事にしてほしいのに。
自分は優しくなんてないと本人は言っていたけど、チーム全体の進捗具合を見てなるべく負荷の不均衡が起きないように細かく調整してくれているし、それでも生じてしまった遅れは桜内さんが一人で吸収してプラマイゼロにしている。リーダーなら当たり前と言われるかもしれないけど、当然のことができない上位職の人なんて腐るほどいるし、自分の主担当業務もこなしながら上手く調整しているのだから、責任感とかもあるのだろうけど、やっぱりそれは優しさなんだと思う。その優しさのせいで自分の身を削るのはどうかと思うのだけど、そうさせている一因は部下である自分にもあるわけで、彼女のお荷物になってしまっているこの状況に不甲斐なさは募るばかりだ。
「梨子、さん……」
彼女をベッドにおろし、未だに本人の前では呼べない下の名前を呟きながら、その穏やかな寝顔に触れる。いつも眉間に刻まれている皺も、今だけは休戦中のようだ。くすみのない陶器のような肌からは、おびただしい数の案件と死闘を繰り広げる戦士の面影は一つも感じられなかった。
「綺麗だなぁ……」
仕事モードのスイッチがオフになった瞬間、うちの上司は狂気的なかわいさで私の心を弄ぶ。
「桜内さんが睨むと死者が出る」と先輩たちは言っていたけど、「桜内さんに見つめられると」の間違いだ。アルコールで上気した顔を向けられ、つり気味の目をトロンと垂らして見つめられれば、誰であろうと一発ノックアウト間違いない。現に、私はもう何度もマットに沈んでいる。よくもまぁ毎回懲りずに立ち向かっているなと自分でも感心してしまう。
どれだけ金曜の晩酌が長引こうとも、私がこの部屋に残ることがないのは、こんな無防備な上司を前にして理性が正常に保てる自信がないからだ。
「こんな桜内さん、他の人には見せたくないなぁ……」
そう思いながらも、でも、もうこれ以上の彼女を知っている人はいるんだよね、と自ら踏んでしまった地雷のことを思い出し苦虫を嚙み潰す。
調子に乗って踏み込み過ぎた。きっと思い出したくはない話だったはずなのに。
昔の恋人のことを振り返る彼女の瞳は悲壮に満ちていた。そして、それだけその人を好きだったということを見せつけられた気がして、我ながらバカなことを訊いてしまったなぁと一人で大後悔時代に突入中だ。どこぞの海賊は自分の宝をすべてどこかに置いてきたと豪語していたけど、私の場合、置いてきてしまったのは宝じゃなくて知性と理性と常識だった。
「おやすみなさい」
これ以上ここに居ると夜通しで一人反省会になりそうなので、すやすやと眠る彼女にそっと布団をかけ、静かに自分の部屋へと戻った。
週が明け、月曜日の朝。心なしオフィス全体のテンションは低め。その平均値を下げているのは自分に他ならないけど。
眠気覚ましのコーヒーを飲みながら受信箱に溜まった未読のメールを片っ端から捌いていく。捌いている間にも絶え間なく増えていく問い合わせと会議案内と迷惑メール。まるでいたちごっこでもしているみたいだ。
ちょっと、爆弾みたいな重さのファイル添付しないでよ。
モニターに向かって文句を垂れながら削除ボタンを連打していると、嫌な足音が聞こえてきた。
「桜内君、ちょっといい?」
よくない。いつかそう答えてやりたいと思いながら「何でしょう?」と無理矢理に笑顔を張り付ける。
「新規プロジェクトのリーダーを桜内君にやってほしいんだ」
数カ月前に渡辺さんが問い合わせ対応をして少し揉めたクライアントからの案件だった。あの後、向こうの会社まで謝罪に行き、話しているうちに相手側の勘違いだったことが分かり、無事に和解したのだけど、そのことを渡辺さんに伝えると「よかったぁぁぁ」と膝から崩れ落ちて安心していたのが少し可笑しかった。
そのクライアントがうちを気に入ってくれたらしく、前回よりも大きめの案件を依頼してきたらしい。
「誰かサポートつけといてね。詳細は後で送るから」
部長の言葉に頭を悩ます。
サポート、ねぇ。うちのチームにそんな余裕のある人がいたかしら。
小林さんは時短勤務だし、伊波さんも斉藤さんも別件でいっぱいいっぱいだし、ここはやっぱり降幡さんかなぁ。彼女にも最近仕事を任せたばかりだけど、渡辺さんに任せるにはまだ早いし、致し方ないか。
仕事を振ろうとした当の本人は会議中なのか席を外していたので、後で声をかけようとメール処理に戻る。
モニターを見れば、受信箱の一番上には部長からのメール。人に仕事を振るときだけは動きが早い。その力をもっと別のところに注いでほしいものだけど。
ぶつぶつと脳内で不満を漏らしながら内容を確認していると、芯のある声が耳に届く。
「桜内さん、私にサポートやらせてもらえませんか」
振り向くと、渡辺さんが真剣な顔で立っていた。いつもはふわふわと笑っている彼女とは違う、懇願するような瞳に気圧される。
熱意があるのはいいことだ。きっと彼女なら真面目に取り組んでくれると思う。でも、他の案件も抱えている状況で、異動してからまだ一年も経っていない彼女に今回の業務を任せることには不安があった。
「……渡辺さんは別の案件もあるでしょ。今が大事な時期じゃない。今回は別の人に、」
「お願いしますっ!」
最後まで言い終える前に頭を下げられる。床を見つめて微動だにしない彼女の姿は必死そのもので、まるで義務感に駆られているようだった。
どうしてそこまでして。
大きめの案件ではあるけど、今回の業務にそこまでの魅力があるとも思えないし、他の案件だっていいはずだ。彼女がこの件に固執する理由が分からなかった。
「どうしてもこの案件がいいの?」
「……はい。絶対に手は抜かないのでやらせてください」
うちの会社に自ら仕事をしたいと手を挙げる子は少ない。であれば、やる気のある彼女の意思を尊重して、成長の場を与えるのも上司の役目なのかもしれない。
彼女のため、か……。
この仕事が彼女にとって何か意味のある経験になるのなら、断る理由もない、のかな。
固い決意をしたらしいその顔を眺め、ふぅと息を吐く。
「……無理だと判断したら途中でも交代させるから」
できるだけ厳しく聞こえるように、わざと声のトーンを落とした。
「はいっ!!」
フロアに響き渡る威勢のいい返事。それを発した本人は、ご飯を美味しいと褒めた時と同じくらい嬉しそうにしていた。キラキラと輝く瞳が眩しい。
仕事が増えることの何が嬉しいのか、私にはさっぱり分からないけど。
やっぱり不思議な子ね。
また増えている未読メールに溜息をつきながら、張り切っているその背中にエールを送った。
「桜内さん! 今回の見積なんですけど、」
「桜内さん、要件変更したいって問い合わせが、」
「桜内さーん、今度の会議リスケしてほしいって言われちゃいました」
プロジェクトが始動してからというもの、彼女と業務のやりとりをすることが増えた。普段は教育係の降幡さんに任せっきりだったので直接彼女を指導することが新鮮だったりする。勉強熱心だし、言ったことは一度で覚えるし、たまに危なっかしいところはあるけど、サポートとしての役割は十分にこなしてくれていた。
「なんか、渡辺さんって桜内さん家のワンコみたいですね」
手頃な大きさの会議室が埋まっているため、部屋を交換できないか他部署に交渉しに行った渡辺さんの背中を見送りながらクスクスと笑うのは、隣のチームのリーダーだ。以前まではそれほど交流もなかったのだけど、最近はよくこうして話しかけてくる。
ワンコねぇ……。
隣チームの彼女にそう呼称されても仕方がないほどに、最近の渡辺さんは忠犬のごとく私によく懐いていた。
「犬は苦手なのにね」
「よっ…津島さん、どうしてここに」
突然背後から聞こえた声に振り返ると、よっちゃんが書類を一枚、ひらひらとさせながら立っていた。
「書類不備です、桜内さん」
そう言って突き返されたのは先日の出張の清算書。不備のあった箇所を見れば、単なるチェック漏れ。我ながら自分らしくないミスに驚く。
「ふふ、どうやらようやく人間の姿を取り戻してきたようね」
「何の話よ」
元から人間だってば。声を潜めて彼女を睨めば、
「人間らしいミスしてくれて安心してるのよ。前までは機械みたいだったから」
そう言うと、彼女はくるりと身を翻して自分の部署へと戻って行った。
「大きなお世話よ」
周りに聞こえないように呟き、清算書にこれでもかというほど大きくチェックをつける。
『桜内さんって機械みたい』
そんな陰口を偶然耳にしたこともあったわね、とよっちゃんに言われたセリフを反芻しながら昔のことを思い出す。
ミスを指摘すれば反感を買い、会議で具体案を問えば煙たがられた。
当たり前のことを当たり前のようにできない人間にどうして自分が合わせなければならないのか。他人に期待しなくなり、すべて自分一人でこなすようになったのはもう随分と前のことだ。
そんな自分がよっちゃんに「丸くなった」と言われて以降、隣のチームリーダーやチームメンバーと仕事中に些細な雑談をするくらいには、失われていた社交性というものを取り戻しつつあった。それが誰のお陰なのかは分からないけど、自然と思い浮かぶのは犬のように私に懐く部下の顔。
アニマルセラピーってやつかしら。犬が苦手な自分としては本当に効果があるのか懐疑的だったけど、案外効力は大きいのかもしれない。
「桜内さん、OKでした~!」
交渉が上手くいったらしく、尻尾を振りながら嬉しそうに戻ってきたワンコに「よかったわね」とご褒美がてらミルクチョコを差し出す。なぜか不思議そうに「え?」と目を丸くする彼女に「いらないの?」と訊くと、「い、いただきます!」とそれはそれは大事そうに両手で受け取った。どこにでもある市販のチョコなのに、そんなに大事そうにされるとちょっと申し訳なくなるんだけど。私の気持ちも知らずにニコニコと上機嫌の彼女を見て、チョコレート好きなんだなぁと彼女の好みをこっそりとインプットした。
*
プロジェクト関連の業務で退社する時間がお互い遅くなり、会社や外で晩ご飯を済ませてしまうことが増えたけど、それでも金曜日だけは私の家で彼女の料理を一緒に食べることは欠かさずにいた。
「無理して作らなくてもいいわよ。大変でしょ?」
「金曜に桜内さんとご飯を食べるのが私の楽しみなんです」
笑って答えるその顔に少しは疲れの色でも見えそうなものなのに、彼女はそれを微塵も感じさせなかった。
「今日は時間も遅いのでちょっと少な目ですけど……」
申し訳なさそうに食卓に出されたのは、親子丼に焼きなす、油揚げと大根のお味噌汁。
以前より品数は減ったけれど、それでも最低三品は作るその気力は見習いたい。
「十分すぎるわよ」
トロトロに仕上げられた卵をご飯と一緒に頬張ると、卵のほどよい甘みが口の中に広がる。
「今日も美味しいわ」
「へへ、それ聞くだけでエナジードリンク百本分の元気が出ます」
そんなことで元気になれるなんて幸せな子ね。あどけなく笑うその顔は、お手伝いをして褒められた子どものようで。たった四歳下なだけなのに、まるで小中学生の妹ができたみたいだと言ったら彼女は拗ねてしまうだろうか。
「渡辺さんは若いわね」
精一杯譲歩して、オブラートに包んだ言葉。まぁ、若いのは事実だし? ちょっとやっかみも入ってるかもしれないけど。
「今、子どもっぽいって思ったでしょ!?」
「あら、いい勘してるのね」
あっさりと認めれば、「そこは普通否定するとこですよ!」と不服そうに口を尖らす。
その顔が可笑しくて、ついついこぼれてしまう笑み。
そんな私を見て、彼女も笑う。
彼女と過ごす金曜日の夜は、夢の中のように時間がゆるやかに流れる。
おいしいものをたくさん食べる幸せとか。誰かと些細なことで笑いあう喜びとか。
忘れていた何かが少しずつ光の下に浮かび上がる。
外は木枯らしが吹いて冬の訪れを知らせているけど、私の心には春の淡い陽光が射し込んでいるようで。
凍てついた心は、少しずつ融け始めている。
03.「人間らしさ」
違和感に気付いたのは数日前。モニターの文字がやけに霞むなぁと、目薬を差してみたのにあまり効果が得られなかったあたりから。翌日は朝からひどい頭痛がして、鎮痛剤で誤魔化しながら一日を乗り切った。以降、体が熱っぽくて気怠さに襲われていたのだけど、プロジェクトが佳境を迎えていたこともあって休むわけにはいかず、薬で自分を騙しつつ出社していた。
そんな日が続き、ちらほらと目立つようになった小さなミス。
資料の誤字・脱字、メールの宛先漏れ、会議室を間違えて突入するなど、らしくないミスを連発してしまい、部長からも心配される始末。
沈んだ気持ちに食欲も沸かず、渡辺さんに『今日はパス』と連絡を入れると、間髪を入れずに返事が来た。
『You Watanabe:体調悪そうですけど大丈夫ですか?』
『Riko Sakurauchi:平気よ。お疲れ様』
素っ気ないメッセージで会話を終わらせ、業務に戻る。斜め向かいの席から心配そうな視線を感じたけど、見ていない振りをした。
周りは早々に帰宅していき、夜のオフィスに残ったのは自分だけ。クライアントからの急な要件変更により、データを修正していたら気付いたときには二十三時を回っていた。
あとは依頼されていた資料を送付したら今日は終わり。さっさと帰って早く寝よう。
出来上がったファイルを送り、ふらつく身体に鞭を打ちながら帰路に着いた。
*
「桜内さん、お電話です」
出社して早々に渡された一本の電話が、悲劇の始まりだった。
『先週送ってもらったデータ、頼んでたのと違うんだけど』
「え、…?」
クライアントからの問い合わせに嫌な予感が胸をざわつかせる。
完成間近のデータに対して先方からの急な要件変更の依頼があり、それに合わせて修正したはずだった。
しかし、自分が送ったファイルを見ると、
「……直って、ない?」
そこには修正する前のデータが並んでいて、どこを見ても自分が修正した部分が見つからない。
先週確かに直したはずなのに。若干パニックになりながら、作業に使ったフォルダを漁る。
確認していくうちに分かったのは、データ修正は完了していたものの、どうやら修正前のデータを誤って送付してしまっていたらしいということ。
ありえないミスに眩暈を覚えながら誤ったファイルを送付してしまった旨を伝えると、電話の向こうでは『もうこれで進めてるのに、どうするんだ!』と大変お怒りのご様子。すでにデータは関連先に転送されていて、作業が進んでしまっているらしい。
電話越しにガミガミと繰り返される文句を聞きながら平身低頭で何度も謝り、話が終わったのは電話を受けてから四十分後のことだった。
そこからは怒濤のような日々が待っていた。
先方の会社に行って謝罪と経緯の説明、不備データを使用したことによる損失分の補償対応、データの再作成、などなど。
ご飯もろくに食べれずに毎日朝から深夜まで。終電で帰れる日なんて一度もなかった。
必然的に渡辺さんも付き合わせてしまうことになったけど、さすがに終電までに帰るように上司命令を下し、渋々帰る彼女の背中を見送ることが常になった。自分のせいで彼女にまで迷惑をかけてしまい、不甲斐なさにやるせなくなる。
ミスの事後処理に加えて他の業務も重なり、クライアントからの嫌がらせのようにかかってくる文句の電話も続いて、溜め込んだストレスは限界突破寸前。
おまけに、こんな会話まで聞いてしまってはやる気だって失せるわけで。
「ねぇ、あそこのチーム、今マズイらしいよ。あの仕事マシンがミスしたんだって」
トイレの個室から出ようとしたところで聞こえてきた会話。『仕事マシン』というワードに耳がピクっと反応してしまうのは、それが誰を指しているかよく知っているからだ。
「仕事マシンって桜内さん?」
「そうそう。いっつも不愛想な顔で仕事してるくせに、部長にだけはいい顔してさぁ。あれ絶対デキてるよ」
「あー、その噂聞いたことある。部長のお気に入りじゃミスしたってお咎めなしだろうねぇ」
「いいよねー、ちょっと美人だとすぐちやほやされて。私も能力以上に評価されてみたーい」
ケラケラと下品に笑う声はドアの閉まる音とともに遠ざかっていった。ずっと殺していた息を大きく吐き出す。
個室が埋まってるときは他人の悪口は控えなさいよね。
くだらない会話を聞いてしまったことを後悔したけど、どう考えても不可抗力だ。
好きで部長に気に入られたわけでもなければ、デキてもいないのだけど、そう思われてしまうのは自分の実力不足に他ならない。
部長のお気に入りだから私は今のポジションに居られるのだと周りが思えなくなるくらい、完璧な仕事をすればいいんでしょ。
そう強気に思ってみても、耳にしっかりと届いてしまった言葉はそんなに強くはない心に簡単に傷をつけた。
誰かに評価されたいわけじゃない。でも、どれだけ真面目に働いたって、結局はあんな風に思われているのだと知ってしまえば、自分の存在価値なんて風の前の塵のように簡単に吹き飛んでいく。
私がここにいる意味は、やっぱりどこにもないんだ。
込み上げてくる何かを堪えるために下唇を噛み締め、やるせなさを引きずりながら仕事に戻った。
*
身も心も擦り減らしながら一週間が過ぎ、金曜を終えてもなお、期限間近な仕事は山積み。
少しでも積み重なった山を切り崩すために休日出勤をし、それでも減らない山の大きさに気が滅入る。
帰り道にスーパーに寄る元気もなく、ふらふらとよろけながら家まで辿り着くと、なぜか部屋には明かりが灯っていた。玄関に並べられたサンダルを見て彼女だと分かったけど、土曜日の夜に彼女がここに来る理由は見当がつかなかった。
「おかえりなさい」
リビングのドアを開ければ、いつもと変わりない笑顔で迎えられる。これまでならその顔を見る度に帰って来たんだなぁとしみじみ感じていたのに、ささくれだった今の心ではその顔を見ることすら辛くて。
「どうしたの?」
「あれ、メッセージ送ったんですけど見てないですか?」
携帯を見れば新着には彼女からの『ご飯作って待ってます』のメッセージ。
こういうのは相手の返事を待ってからやりなさいよ……。
私が深夜まで帰って来なかったらどうするつもりだったのだろうと少し呆れ気味にその横顔を覗き見る。
「今日は桜内さんの好きな玉子を使ったメニューにしました」
テーブルにはつやつやとした温泉玉子が中央に乗ったシーザーサラダ、しっかりと味がついてそうな煮玉子の添えられた煮豚、三つ葉が浮いたかきたま汁。「これは玉子はないですけど」と並べられたのはかぼちゃとひき肉の煮物。時間をかけて作ってくれたであろう手料理はどれも美味しそうだったけど、食欲よりも疲労感の勝る今はどうしても食べる気にはなれなくて。
「ごめんなさい、今日はいいわ……」
「でも、何か食べないと。元気も出ないですし」
こういうとき、簡単に引き下がってくれない彼女の性格に少し苛立ってしまう。もちろん心配してくれているのは知っているけど、今欲しいのは放っておいてくれる優しさだ。
「本当に大丈夫だから」
疲れも相まって棘のある響きになった。
これ以上話すとまずい。お願いだから、今日は帰って。
「……ミスで落ち込むなんて桜内さんらしくないですよ」
願いは届かず、自分を気遣ってくれた言葉が無防備な逆鱗に触れてしまう。
私らしいって何?
あなたが私の何を知ってるって言うの?
私は落ち込んじゃいけないの?
一度外れてしまったリミッターに、もうブレーキは利かない。
「いらないって言ってるでしょ! 頼んでもないのに勝手なことしないで!」
吐き出した言葉は刃となり、目の前の彼女を容赦なく傷付ける。丸くなった青い瞳はどんどん暗く沈んでいき、悲しい色に染まっていった。
「……すみません。帰ります」
俯いたまま背を向ける彼女に何も声をかけることができず、残されたのは食卓に並ぶできたての料理と自分の言葉に呆然とする私だけ。
自分が招いたミス。そのせいで溜まったストレスをぶつける相手が彼女ではないことくらい理解していたはずなのに。
横柄で傍若無人。人の気遣いを無駄にする。優しさなんて微塵もない。
……最低最悪の上司ね。
傷付いているのは彼女のはずなのに、なぜだか涙が止まらなかった。
*
あの日以来、渡辺さんとは業務以外のことで話すことがなくなり、また元のオフィスライフに戻りつつあった。
まるで二人でご飯を食べていたのが嘘のように、一上司と一部下の関係。それが当たり前だったはずなのに、失った途端に寂しく感じてしまうのは人間の欲深いところだと思う。
彼女の作ってくれたお味噌汁の味が恋しいと思うほど、慣れてしまったその味を自分が気に入っていたことに気付く。もうきっと味わうことはないのだろうけど。
「押印お願いします」
聞き慣れた声とデスクに置かれた紙の束。無表情の青い瞳に「後で持っていくわ」と告げると、「お願いします」と機械的な答えが返ってくる。ことあるごとに「桜内さん」と私の名前を呼んでいた彼女の口からは、最近自分の名前を聞くことが少なくなった。
当たり前か……。
突き放したのは自分だ。謝ることすらできずに、今さら寂しいだなんて、どの口が言うんだろう。
私の名前を呼ぶ元気な声も、子どもみたいに無邪気な笑顔も、熱意に溢れるキラキラした瞳も。私が遠い昔に置き去りにしてきたすべてを彼女は持っていて、それを見る度にあの頃の気持ちを少しずつ取り戻していたのに。その彼女すら離れてしまえば、また私は一人、寒さに凍え、来ることのない春を永遠に待つのだ。
融け始めていた心は、再び熱を失っていく。
渡辺さんが家に来なくなってからというもの、食生活は前にも増して惨憺たるものになった。
ミスの事後処理が片付いてもなお仕事の忙しさは変わらず、時間も食欲もなく、サプリメントやエナジードリンクだけで済ませるなんて日もある。
気付けば体重は四キロ落ち、疲れているのに眠れなくて、仕事中にイライラすることが増えた。最初は心配してくれていた同僚たちも、常時不機嫌オーラを纏う私に次第に誰も声をかけなくなり、孤立していく日々。たまに悲しそうに私を見つめる視線には気付いていたけど、そこから何かが解決することはなかった。
お互いの距離が縮まらないまま、彼女と進めたプロジェクトは最終段階に入り、明日の会議でクライアントに最終報告をして完了の予定になっていた。
資料は完成しているし、ダブルチェックも済んでいる。プレゼン内容も頭に叩き込んだ。
あのミス以来、クライアントとの関係は良好とは行かなかったけれど、それでも誠実に対応し続けたおかげで失った信頼を徐々に回復しつつあった。むしろ取り戻せていないのは、渡辺さんとの関係性の方だ。
彼女と二人で中心になって作り上げてきたものが明日ですべて終わると思うと、感慨深さと共に寂しさまで感じてしまう。
前はこんなことなかったのに。
一つ一つの案件をこれでもかという勢いで仕上げていれば、終わる度に感慨に浸る暇なんてないわけで。そこに思い入れなんてものは生まれなかったのだけど、今回に関しては違っていた。
二人で夜まで残ってコンビニのおにぎりを食べながら資料を作った日、会議室で議論していたら盛り上がりすぎてデスクに戻った時には自分たち以外誰もいなかった日、クライアントの会社に訪問した帰りに「近くに有名なハンバーグ屋さんがあるんです!」と興奮する彼女と寄り道して帰った日。
どうにも今回の件には彼女との思い出がセットになってしまっていて、プロジェクトの終わりが二人の思い出にも終止符を打ってしまうような気がしていた。
まぁ、あんなことがあったんじゃ、もう終わってるも同然だけど。
チームリーダーの自分と新入りの彼女が組んで仕事をする機会なんてきっとこの先ほとんどない。それなのに、その一度きりの機会をあんな形で終わらせたのは自分だ。後悔先に立たずなんて言葉があるけれど、今の自分にはその言葉が痛いほど突き刺さっていた。
後悔は、あの言葉が口から滑り落ちたときからずっとしている。悲しみに暮れる空色の瞳を思い出してまた自己嫌悪。
彼女に謝りたいと思った。
許してほしいなんて言わない。
ただ、あなたは何も悪くないのだと、一言だけ伝えたかった。
傷付けてしまってごめんなさい。
それだけでよかったのに。
頑固な上に素直じゃなくて、彼女に声をかけたくても気負いすぎて躊躇してしまい、未だに謝れていない自分に嫌気が差す。どうやら私が失くしてしまったのは夢や希望だけじゃなくて、大切な人に気持ちを伝える勇気も含まれていたようだ。
「ダメだなぁ……」
彼女の来なくなった部屋の台所には驚くほど何もなくて、ゴミ箱に捨てられた空き缶だけがひっそりと息を潜めていた。
つい最近まで、そこにはトントンとまな板を軽快に鳴らしながら玉ねぎをみじん切りにする彼女の姿があったのに。スープの味見をして「何か足りない……」って真剣に悩む彼女がいたのに。鼻歌を歌いながらハンバーグのタネをこねる上機嫌な彼女を見ることができたのに。
しんと静まり返ったキッチンは空っぽで、まるで私の心の中を映し出しているみたいだった。
*
朝、目覚めるといつも以上に身体が重くて、ベッドから起き上がるのに苦労した。
くらくらと歩く度に世界が揺れる。めまいなんて日常茶飯事だけど、今日はいつにも増してひどくて、頭痛や倦怠感にも襲われながらやっとのことで出社。
最終プレゼンまであと一時間と差し迫ってきた頃には不調はピークを迎えていて、額には嫌な汗をかいていた。
なんでこんな日に限って。
あと少し、ほんの数時間だけでいいから、どうか持ちこたえて。
そう自分自身に言い聞かせながら手元の資料を確認するけど、ズキズキと痛む頭のせいでどうにも集中できない。
「…さん、桜内さん?」
「……え?」
「大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
名前を呼ばれたのに反応が遅れた。視線の先には心配そうに私を見つめる渡辺さん。
久しぶりに彼女に名前を呼ばれた気がするなぁ、なんてふらつく頭にほんの少し嬉しさが過る。
「大丈夫……これ、コピーしておいてもらってもいい?」
彼女に資料を手渡そうと立ち上がった瞬間、ぐらりと視界が回って、全身に力が入らなくなった。床に倒れこむように崩れ落ち、途端に目の前が暗くなる。
「桜内さんっ!?」
薄れる意識の中、最後に聞いたのは何度も私の名前を呼ぶ彼女の声。
桜内さんっ! さくらうちさんっ!!
あぁ、ちゃんと聞こえてるから
そんなに大声で叫ばないで
あなたには甘えるような優しい声で呼ばれたいのに
04.「晩ご飯は抜きです」
「お、お目覚めかい?」
深い闇の奥から次第に意識が浮上して、薄目を開けると目の前にいた人の姿に戸惑う。
なんで部長が。っていうか、ここどこ?
白いシーツに白い掛け布団。パイプベッドの周りにはクリーム色のカーテン。そこはまるで病室のようだった。
「えっと、ここは……?」
状況が飲み込めず、上半身を起き上がらせながらずきずきと痛む頭の中を整理する。
「医務室だよ。倒れたの覚えてないのかい? 貧血だってさ。だめだよ、ちゃんとご飯は食べないと」
あぁ、そうか、朝からやけにふらつくと思ったら、貧血だったのね。
ここ最近ろくな物を食べていなかったせいで、体がついに音を上げてしまったようだ。
私、いつ倒れたんだっけ。
確か、会議前に資料を渡辺さんに渡そうと立ち上がった時に……
少しずつ甦ってきた記憶を辿れば、ある重大な事実に気付く。
「プレゼンは!?」
「ああ、渡辺君がやってくれたよ。いやぁ、彼女すごいね。急なピンチヒッターだったのに、堂々としてて。見事なもんだったよ」
思わず血の気が引いて青ざめながら訊いたのに、部長の呑気な声のせいで驚きの声すら出なかった。
私の代わりを渡辺さんが? だって、プレゼンの準備なんてしていなかったはずなのに。
直前に代役を命じられた挙句、あの面倒なクライアント相手に彼女は一人で立ち向かったと言うのか。
「ここに運んでくれたのも彼女だからお礼言っておきなよ。今日はもう上がっていいから、ゆっくり体を休めるようにね。あ、そのへんにあるやつ、みんなからの差し入れだから食べるといいよ」
ベッドのサイドボードには、スポーツドリンクやおにぎり、お菓子がどっさりと置かれていた。これじゃまるで入院患者のお見舞いだ。その山の中に、ひとつ、付箋が貼られている小さな包みを見つける。
『あとは任せてください』
ビターチョコの包装に貼られていた付箋には見覚えのある丸い文字。
女の子らしいかわいい字なのに、その一言はやけに心強く見えた。
もう、すっかり一人前じゃない。
包みを開けてチョコを口に運ぶ。カカオのほろ苦さが、空っぽの胃と心に沁みた。
体調も幾分か良くなり、彼女にお礼を言いにオフィスに戻るとデスクは空だった。
「渡辺さんは?」
「外出してそのまま直帰だそうです」
「そう……」
せっかく彼女と話すきっかけを得たのにタイミングが悪い。明日は休日なので次に会えるのは月曜だ。それまでこの悶々とした気持ちを引きずるのも避けたかったけれど、だからと言って彼女の家を訪ねるという選択肢は選べなかった。
せめて帰ったらメールでもしておこうかな。
釈然としない気持ちのまま、部長から帰宅命令が出たこともあり、何年かぶりに定時退社というものをした。この時期だと六時前でも外はすでに真っ暗で、クリスマスのイルミネーションが大通り沿いを色とりどりに照らしている。冷たい風が街路樹の葉を散らす中、行き交うカップルの幸せそうな空気を横目に、枯葉を踏み鳴らしながらとぼとぼと家路についた。
……8、9、10。
目的の階で静かに扉を開いたエレベーターから降りると、自分の部屋の前に人影。見覚えのあるそのシルエットに心臓が止まりそうになる。
「おかえりなさい」
駆け寄ってみれば、忠犬ハチ公よろしく、ドアの前にしゃがんで主の帰りを待っていたのは渡辺さんだった。
「ごめんね、お茶しかなくて……」
突然の来訪に何も出せるものがなくて、急いでお茶を沸かし、「お構いなく」とかしこまったままの彼女に差し出す。二人掛けのソファに彼女と少し距離をあけて腰を下ろした。
「すみません、もう来ないつもりだったんですけど、気になっちゃって」
来ないつもりだった。その言葉に落ち込みながらも、それでも自分を気にして来てくれたことに内心浮かれていた。
そんな自分の気持ちとは対照的に、彼女の顔は暗いまま。いい加減、自分のせいで曇らせてしまったこの顔を晴らしたい。
「ううん。私の方こそごめんなさい。自分のせいなのにあなたに当たっちゃって……」
散々悩んでいたのに、口にすれば簡単で。もっと早く伝えればよかったと、やっぱり後悔してしまう。
「プレゼン、上手くいったんですってね。ごめんね、私のせいであなたにまで迷惑かけて」
「いえ……桜内さんみたいにはできなかったです」
「部長が褒めてたわ。もう私がいなくても大丈夫ね」
彼女のプレゼンに先方も大満足だったと部長が誇らしげにしていたので、よほど素晴らしいプレゼンだったのだろう。
そんな彼女の成長をこの目で見れなかったことが少し残念だった。
「……そんなこと、ないです」
彼女を元気にしたい一心でかけた言葉なのに、なぜかその顔はさらに曇ってしまう。
どんな言葉なら、彼女の心に光を射すことができるだろうか。
どうすれば、またあの笑顔を見せてくれるだろうか。
人の心の機微に疎い私では、正解には辿り着けない。
次の言葉が見つからなくて、カチコチと秒針の音だけが二人の間を流れていった。
「ずっと憧れだったんです、桜内さんのこと」
「え?」
気まずい沈黙を払うように彼女が口にした告白に小首を傾げた。彼女がうちの部署に異動になってまだ数カ月。新入りさんの憧れの対象になるようなことをした覚えはない。
怪訝そうにする私に、彼女は「覚えてないと思うんですけど」と前置いて、二年前の私たちの出会いの話をしてくれた。
◆
「そこ、詰めてもらっていい?」
オフィスの五階に自販機コーナーあるじゃないですか。そこにある長椅子のど真ん中に座っていた私に、そう声をかけてきた女性社員、それが桜内さんでした。
コーヒー片手に足を組んで書類に目を通す姿はちょっと恐くて、早くその場から立ち去った方がいいかなと思ってたんです。でも、
「恐い先輩にでもいじめられた?」
「え?」
「今にも泣きそうな顔してるから。新人さんでしょ?」
腰を上げかけた私に、その人は書類に目を向けたまま興味なさ気に聞いてきたんです。
その日、はじめて一人で任された仕事で大きなミスをしてしまった私は、初対面の人が見ても分かるほどに落ち込んでいたみたいで。
「あ、いえ、全然そんなのじゃないんです。自分のミスのせいで周りの人にいっぱい迷惑かけちゃって、一人反省会中です」
苦笑いをしながら答えると、「無理に笑わなくていいわよ」って素っ気なく返されちゃって、あ、なんか、マズイこと言っちゃったかなぁって内心びくびくしてました。
けど、次に桜内さんの口から出てきた言葉は、そんな心配を吹き飛ばすくらい優しくて。
「誰だって失敗はするわよ。やってしまったことはもう変えられないけど、そこから学ぶことはあったでしょう? きっとそのミスもあなたにとっては無駄なことじゃないわ」
人の受け売りだけどね、と微笑む桜内さんはさっきまでの険しい顔つきが嘘のように穏やかな顔をしていて、思わず見惚れてしまいました。
自分のミスも無駄じゃなかった。
見ず知らずの人にそんな風に言ってもらえるなんて思っていなくて、会社で泣きたくなんてなかったのに、その言葉に思わず涙がこぼれてしまって。子どもみたいに泣く私の頭を桜内さんは何も言わず優しく撫でてくれました。私が泣き止むまで、ずっと。
「これ、もらったんだけど、甘いの苦手だからもらってくれる?」
去り際にそう言って渡されたチョコレートはやさしい味がして、萎れていた私の心に希望を与えてくれました。
◆
「あのときもらったチョコの甘さが、桜内さんの優しさが、私を救ってくれたんです」
「そんな、大げさよ……」
「桜内さんには些細なことでも、私にはすごく大きなことだったんです」
彼女に言われるまで忘れていた記憶。自分にとっては何気ないことだった。きっと過去に同じようにミスで落ち込んでいた自分の姿と重なったのだろう。泣きそうなその顔が少しでも元気になればいいと思った。
「だから、桜内さんの役に立ちたくて、異動願を出して、同じチームになって、すごく嬉しくって。ちょっとでも力になれるように、無理言ってサポートに回してもらって、毎日桜内さんと同じ仕事をしたり、口実を作ってご飯を一緒に食べれるのが楽しくて。……それなのに、桜内さんのことを思いやれなかった自分が許せませんでした。どうしてもっと優しい言葉をかけられなかったんだろう、ちゃんと桜内さんの気持ちを考えれなかったんだろうって、ずっと後悔してたんです。本当はもっと桜内さんにいろんな料理を食べてほしかったんですけど、それが無理なら、せめて仕事だけでも桜内さんの力になりたいと思って、」
膝の上で拳をぎゅっと握りしめ、群青色の瞳を揺らしながら紡がれた想いは、私にはもったいないくらい熱くて、真っ直ぐで。
「わたし、少しは、役に立てましたか?」
零れ落ちそうな滴を堪えながら、必死に笑みを向けようとする。震える声は痛いくらい胸に響いた。
そんな顔、しないでよ。
彼女の頭をそっと胸に抱き寄せ、囁くように、だけどちゃんと届くように伝える。
「少しどころじゃおさまらないわ」
「っ、よか、った、です」
しゃくりあげるような声も、震える肩も、背中に回された手も。彼女が今ここにいてくれる証が、私にとって何よりも大事で、他の何にも代えがたくて、たったひとつ、探し求めていたものだった。
「あなたがいてくれてよかった」
胸の中で嗚咽を漏らすその温もりが、ただ愛おしくて、何度も何度も背中をさすりながら、伝えきれなかったありったけの感謝の想いを告げる。
彼女がいなければ、泣くことも、心から笑うことも、食べ物をおいしいと感じることもないまま、命が果てるまで機械のように仕事だけをしていた。
彼女がいなければ、誰かと触れあうよろこびを思い出すことなんてなかった。
彼女がいなければ、今、胸を突き動かす名前のないこの感情に出会うことなどなかった。
冷え切った心があたたかさを取り戻すとき、そばにいるのはいつだって彼女だ。
次第に落ち着いてきた呼吸にあわせて背中を撫でる手をゆるめれば、遠慮がちに顔を上げた彼女と目が合う。
「前に、桜内さんが『死んでも構わない』って言ってたの覚えてますか?」
私の腕の中に収まったままの彼女に、潤んだ瞳で問いかけられる。
『死んでも構わない』
そう言えば、そんなことを言って彼女にすごい剣幕で怒られたことがあったっけ。あのときは急に大声を出すからびっくりしたのよね。
普段は笑みの絶えない彼女の顔が曇った瞬間。もう何度も私はあなたにその顔をさせてしまっている。
やっぱりダメな上司ね。
自分のダメさ加減に呆れながら、「そんなこともあったかしら」と彼女の頭をひと撫で。少し癖のある毛先がふわりと揺れる。
「あのとき、すごく悲しかったんです。桜内さんは私にとって憧れで、恩人で、……すごく大切な人だったから」
伏し目がちに告げられたその想いは、一体どんな意味での「大切」なのか。
今、私の中に芽生えたこの気持ちと同じ、…だったらいいな、なんて。
現実主義の真面目人間。冷酷無情の仕事マシン。
そんな私の頭の中がこんなにも乙女脳だと知られたら、また女子トイレで笑われてしまうだろうか。
でも、目の前で瞳を濡らす彼女となら、そんなことすら笑って吹き飛ばせる気がした。
「り、梨子さん、あの、」
突然呼ばれた下の名前に不意を突かれる。
ドキドキと高鳴る胸の音を聞くのはいつぶりかしら。
悟られぬよう平然を装って口にした「なに、」は掠れて声にならなかった。
「私が、死にたくないって思うくらい幸せにします。生きるのが楽しいって思わせてみせます」
ぐしゃぐしゃにした顔で、震える声で、差し出された言葉は、私が何よりも求めていたもので。
どんな、殺し文句よ。
目標を見失って、働く理由が分からなくなって、生きる意味を見つけられなくて。
ただ忙しなく過ぎていく日々に流されていくだけで、楽しさも嬉しさも忘れてしまっていた私に、人とご飯を食べる喜びを教えてくれたのは彼女だ。
あなたと生きられるのなら、もう二度と『死んでも構わない』なんて言わないわ。
涙で濡れた頬にそっと手をあてて、「だから、」とその先を続けようとする彼女の唇を親指でなぞる。見開かれた目に微笑みかけて、彼女の口からこぼれようとする言葉を唇で塞いだ。
もう、十分すぎる。それ以上の言葉はぜんぶ蛇足だ。
どんな詩人だって、彼女以上に私を幸せにしてくれる言葉は生み出せない。
触れた唇は想像以上にやわらかくって、その弾力を楽しむように繰り返し食めば、彼女もそれに応じた。
強張っていた肩からふっと力が抜けて、腰を抱き寄せられる。彼女の首に腕を回せば、二人分の熱が交差する。
唇の触れあいだけでは物足りなくて、急くように舌を差し込んだのは私が先か、彼女が先か。
ざらつく舌を絡め合わせて、何度も何度も角度を変えては互いの味を堪能する。漏れる吐息は甘く、てらてらと光る唇は艶めかしい。
もっと彼女を感じたくて頭を引き寄せ、さらさらとした髪をくしゃりと掴めば、腰に回された腕にもさらに力が加わった。
一ミリの隙間もないほどに、一秒の間もないほどに、重なる温度が心地いい。
唾液の混ざる音が鼓膜を犯し、その響きに身体の熱はどんどん上昇していく。
あぁ、これ、マズイかも。
思った矢先、急に離れていく温度に寂しさを覚える。どうして? と、訴えるように彼女の顔を見れば、
「すみません……今日は晩ご飯抜きでもいいですか?」
ギラギラと光るのは、熱を帯びた深い青。
彼女との体力差に一抹の不安を覚えながらも、答えるようにもう一度ゆっくりと唇を重ねた。
05.「雪解け」
小鳥のさえずりで目を覚ませば、クイーンサイズのベッドには私一人。きっとさっきまで隣にいたであろう温もりは、今頃キッチンで朝食を作ってくれている。
起き抜けの寒さに身を震わせながら、何も纏っていない肌にその辺にあったパーカーを羽織れば、裏起毛のモコモコが素肌に気持ちいい。随分と暖かくはなってきたけど、春先の朝はまだ寒く、結露した窓の水滴が朝日を反射していた。
うーん、と背伸びをして部屋を見渡せば、床に乱雑に散らばった服や下着。鏡を見れば、肌に浮かび上がる赤い花弁。そこかしこに昨夜の情事の跡を見つけて気恥ずかしくなる。
もう、見える位置につけないでって言ったのに。年を取ると消えにくくなるんだから。
今日のお出かけはハイネックかなぁとクローゼットの中を脳内で探りながら、躾のなっていないワンコの元へ。
「あ、起きた? 今日はフレンチトーストだよ」
キッチンを覗けば、私の不満なんてこれっぽっちも気付いてなさそうな笑顔で迎えられる。こんなあどけない子犬みたいな彼女が夜は牙を光らすライオンに豹変するのだから、本当に若さって恐ろしい。
「どしたの? 変な顔して」
「なんでもないっ」
しかめっ面のままの私に、「綺麗な顔が台無しだよ。顔洗っておいで」なんて彼女が言うものだから、これじゃどっちが年上か分からない。
私の部屋で彼女と半同棲をするようになってから一年が経ち、最初はです・ます口調が取れなかった彼女も、今ではすっかり敬語が抜けてきたし、私に「変な顔」なんて言うほどには立場は対等になりつつあった。もちろん会社では上司と部下のままだから、うっかり口を滑らせないようにするのが大変みたいだけど。
顔を洗って食卓につけば、フルーティーな紅茶の香りとフレンチトーストの甘い香りがリビングを包む。
ふわふわとしたトーストの上には粉砂糖の雪化粧。添えられた生クリームとラズベリーが女子力を上げる。
毎朝のことながら、本当に感心するわ。
ほんの少しの手間を惜しまず、見栄えも完璧な状態で出てくる彼女の料理にはいつもいつも脱帽ものだ。
『フードコーディネーターの勉強しようかなって思って』
以前そんなことを言っていたけど、彼女は一体何を目指しているのだろう。その資格、うちの会社じゃ役に立たないわよ。
「ねぇ、今さら将来の夢はコックさんとか言わないわよね?」
「あはは、夢は梨子さん専属コックかな」
さらりと口にしたその言葉の意味を、分かっているのか、この部下は。
彼女と付き合い始めてからというもの、その人タラシな発言にこっちが毎度振り回されている。
「なんか、シャア専用ザクみたいじゃない?」って笑ってる場合じゃないのよ。誰がシャアよ。
文句が口をつこうとした次の瞬間、ふわりと微笑を浮かべた彼女と目が合う。
「好きな人には、毎日おいしいものを食べてほしいんだよ」
ほら。またそうやって、私の心を掴んで離さない。
胃袋も心もしっかりと掴まれた私は、今日も今日とて彼女と彼女の料理に打ちのめされる。
「梨子さん、おいしい?」
頬杖をついてニコニコしながらフレンチトーストを口に運ぶ私を眺めるその姿は、まるで母親に料理の感想を求める娘のようで。ふわふわなトーストの食感を楽しみながら「美味しいわよ」と返せば、ふにゃりと笑う。これが毎朝の習慣のようなものだった。
「今日は春物を買いに行こっか」
特に行く先を決めていなかったお出かけの予定。季節の変わり目だし、ショッピングついでに衣替えができるなら丁度いい。
「そうね、スーツも新調したいし」
「もぉ、お休みの日くらい仕事のこと忘れてよ」
私の答えにむすーっと頬を膨らませる大きなお子様。拗ねるその顔もかわいいけど、私にもちゃんと理由があるのよ。
「だって来月は誰かさんと出張なんだもの」
仕事着だって、オシャレにしたいじゃない?
そう微笑めば、膨らんだ頬が茹でダコみたいに赤くなるのが可笑しくて。
くすくすと笑う私を見て、彼女の頬も緩む。
こんな風にまた笑えるなんて、彼女に出会う前の私は知らなかった。
働くことも、生きることすら、放棄してしまいたくなった日。
目指す先が見えなくて、立ち止まってしまったあの日。
死んでも構わないと思っていたあの頃。
氷漬けになっていた心はやっと動き始めた。
「梨子さん、しあわせ?」
料理の出来栄えを確認するのと同じトーンで、尋ねられた無邪気な問いかけ。
その単純な質問に、あの頃の私だったらきっと答えられなかった。
でも、今ならちゃんと胸を張って言える。
「ええ、とっても幸せよ」
長い長い冬を越え、
待ちわびた雪解けの春。
あたたかな陽の光の下、
あなたに出会って、やっと見つけた気がするの。
働く理由も、生きる意味も。
Fin.