Holy Shit, It's Wednesday!
仕事人間・桜内とその部下・曜ちゃん(TGIF!:novel/8987132)の小話。テーマは女子力。
鍋にチーズケーキ入れちゃう系女子・南ことりさんが出てきます(・8・)ンミチャア
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「なに……これ……」
帰宅してリビングの明りを点けた瞬間、目の前に広がる惨状に息を呑んだ。
床やソファのあちこちに散乱した衣服、ゴミ袋からはみ出るコンビニ弁当の空き柄、テーブルの上に横たわるビールの缶。一見、空き巣でも入ったのかと思うほど荒れた部屋の中を見て愕然とする。
……いや、犯人は自分以外の他にいないのだけど。
あらゆる家事をこなしてくれる恋人が出張で不在にしている間に、我が家は恐ろしいほど雑然とした状態になってしまっていた。今日は彼女が帰ってくる日だと言うのに、さすがにこの有り様はまずい。どうにか脱ぎ捨てた服くらいは洗濯機に入れようとブラウスを拾い上げたところで、玄関の方から「ただいまー!」と空気を読まない能天気な声がした。
遅かったと後悔する暇もなく、リビングに入ってくるなり「え、なにこれ……泥棒?」と真面目な顔で尋ねられるから居た堪れない。
ええ、そうね、こんな状態にした本人ですら空き巣と見間違えたんだもの。あなたがそう思うのも当然だわ。でもだって、仕方ないじゃない。ここ最近は終電で帰って、お風呂に入って、三、四時間寝たらすぐに出勤なんて日々を繰り返していたから部屋を片付ける暇なんてなかったのよ。
そう心の中で言い訳をしてみたけど、青い瞳は信じられないものを見たかのように大きく見開かれていた。こほん、と咳払いを一つしてその視線を遮る。
「……犯人はとても大切なものを盗んでいったわ」
「え、なに?!」
「それは、……」
「それは……?」
一拍、間を置くと真剣な目をした彼女の喉がゴクリと鳴った。
「私の女子力」
「……それは元からないんじゃ…って、ちょっと待って!ごめんって!」
聞き捨てならない台詞に彼女の手を取り、手の甲のある箇所を親指でぎゅうっと押し潰すと彼女はバタバタと悶えながら悲鳴を上げた。
そんなに力は入れていないのに大袈裟な。
「恋人がバイオレンスであります……」
「腰痛のツボらしいわよ。腰悪いんじゃない?」
ソファに倒れ込み、クッションに顔を埋めた彼女が恨めしそうに私を見るので素知らぬ顔で背もたれにかかっていたスカートとセーターを回収した。「これも」と彼女が下敷きにしていたストッキングを差し出したのでその手から引ったくる。
「はぁ……本当に泥棒じゃなくてよかった」
「……ご心配おかけしました」
「何かご飯作りますね。って、ひょっとして冷蔵庫空っぽ?」
「あー……うん」
彼女が出張前に作り置いてくれていたおかずたちはすでに消費してしまっていて、冷蔵庫にあるのは水とビールくらいだ。気まずい気持ちで返事をすると苦笑いで「梨子さんらしいね」なんて言われて悔しくなる。
私だって時間さえあればこんなことになるまで放っておかないんだから。
喉の奥まで出かかった言い訳を呑み込み、「外に食べに行こっか」と提案してくれた彼女の後ろを黙ってついて歩いた。
*
「これ、どうしたの?」
リビングのテーブルの上に置かれていた可愛らしいピンクの包み。中身はどうやら手作りのクッキーが入っているようだった。クマの形をしたクッキーにはひとつひとつにチョコで顔が描かれていて、手間暇がかけられていそうなことが伺えた。
「あぁ、会社でもらったんです。梨子さんもよかったら」
お茶も入ったので一緒にどうぞ、と二人分のマグカップを彼女がテーブルに並べる。
「売り物みたいね。誰にもらったの?」
「受付の南さんって知ってます? この間料理教室の体験に行ったら偶然一緒になって仲良くなったんですよ」
そう言えばそんな話を彼女から聞いた気もする。南さんという名前は耳にしたことがあったけれど、顔ははっきりと思い出せなかった。
「何かのお礼?」
「いえ、作りすぎちゃったから、って言ってました」
こんなに時間のかかりそうなものを作りすぎることがあるのかしら。
お菓子なんて作ったことのない自分にはその感覚が分からなかったけれど、そういうものなのかと思いながらクッキーを口へと運んだ。ホロホロと口の中で簡単に崩れたそれは、バターとアーモンドの風味がほどよく感じられ、見た目の可愛さとは打って変わってとても上品な味わいだった。
「どうですか?」
「女子力の高い味がする」
「普通においしいって言いましょうよ」
私の答えにくすくす笑いながら、彼女もクッキーを一つつまんだ。もぐもぐと味わう彼女の大きな瞳がさらに大きく見開く。
「どうなの?」
「さすがことりさん、って感じの味がします」
「普通においしいって言いなさいよ」
「へへ、今度作り方教えてもらおーっと」
そんなことを言いながら、食後だったにも関わらず結局残りのクッキーも二人で平らげてしまい、顔も知らない南さんにご馳走様でしたと御礼を言ってティータイムを終えた。
*
「おはようございます」
いつもは反射的に返すだけの挨拶を、その日は相手の顔を凝視しながらしてしまったのは、あの女子力の高いクッキーの作り手を確認しようと思ったからだ。
アッシュグレージュのロングヘアの上に特徴的なとさかのような髪がちょこんと乗っかっているその人は、纏う雰囲気がとてもお淑やかで少女漫画なら背中に百合の花の一つや二つ背負っていることだろう。砂糖菓子のように甘い声、天使の輪がくっきりと見えるつやつやの髪、くるんとカールした長い睫毛にぱっちりとした目、手元を彩る派手すぎないネイル。受付で出社する社員全員ににこにこと愛想よく挨拶をしている彼女はまさに女子力の塊のような子で、通り過ぎる男性社員は皆機嫌よく挨拶を返していた。
なるほど、この子ならあのクッキーだって目を瞑っても作れちゃいそうね。
そんな納得をしながら自分も挨拶をして受付前を通り過ぎると、背後から何やら聞いたことのある低い声が聞こえてきた。
「ことりちゃん、おはよう」
「おはようございます。今日もスーツ姿が素敵ですね」
「またうまいこと言って。ことりちゃんは今日もかわいいねぇ」
「ふふ、ありがとうございます」
朝からこんな鳥肌が立ちそうなやりとりをしている相手は誰だろうと振り返るとうちの部長だった。あぁ、目も当てられない。南さんには申し訳ないけど見なかったことにして足早にエレベーターホールへと急ぐ。いいタイミングで到着したエレベーターに乗り込み、部長に追いつかれなくてよかったと胸を撫で下ろした。
仕事とはいえ部長と毎日あんなやりとりをしていたら立った鳥肌も治らぬまま鶏になってしまう。自分には絶対に務まらない仕事だ。受付嬢ってすごいのねと、今まで思ったことのない尊敬の念が芽生えた。
でも、ひょっとしたら。彼女のとさかのような髪は鶏になる予兆なのかもしれないと、鳥肌に羽根を生やした南さんを想像して静かなエレベーターの中で笑いをこらえるのに苦労した。
「よーうちゃん」
「あ、ことりさん」
お昼休みに聞こえてきたのは朝聞いたのと同じ甘い声。呼ばれているのはうちのワンコなのに関係のない男性社員までチラチラと彼女の方を気にしていて、その人気の程が伺えた。呼び出された本人はと言うと、尻尾を振って楽しそうに昨日食べたクッキーの感想を伝えている。
「すっごくおいしかったんで今度作り方教えてください」
「ほんとぉ?じゃあ、今度一緒に作ろっか」
「やったぁ!」
そんな具合にキャッキャッと弾む会話。
女子っぽいとはこういうことを言うのだろう。ふわふわとした空気の中、交わされるやりとりは顔面偏差値の高い二人がやるとなおのこと威力を増してフロア全体がお花畑になってしまいそうだった。
「また後で連絡するね」
「はーい!」
ひらひらと手を振る南さんに敬礼を返す彼女。デスクに戻ってくるとルンルンと音が聞こえてきそうなほどご機嫌で、私と目が合うと満面の笑みを向けてきたので反応を返すことなくモニターに視線を戻した。
別に機嫌が悪いわけではない、と自分自身に言い訳をしてみる。
自分の恋人が誰彼構わず愛想が良いことは付き合う前から分かっていたことだし、友達が多いことも、よくいろんな人から言い寄られていることも知っている。最初のうちこそ彼女に近付いてくる人すべてにやきもきしていたものの、付き合って一年経とうかという今ではそれも随分と落ち着いてきた。
ただ、なぜか、あの女子力高めな受付嬢には不穏な予感がしてならない。その理由が何なのかは自分でもよく分からないけれど。
*
南さんとの約束は週末に決行されたようで、日曜日の夕方に大きな紙袋を抱えた彼女が我が家へと帰ってきた。
「梨子さん、見てみて!クッキーとマカロン作ったんだよ!」
紙袋から出てきた大きめのタッパーの中には二人で作ったというクッキーがたくさん入っていた。スノーマンにモミの木、トナカイの形のクッキーにチョコでデコレーションがされていて、そう言えばもうすぐクリスマスだということに気付く。
街を歩けばあちこちでイルミネーションが夜にきらめきを与え、冬の寒さが恋人たちの距離を近づけるこの季節。相手が出張で不在だった上に残業続きの私にはそんなロマンチックを味わう暇すらなかったけど。
不満げな瞳を向ければ、彼女はそんな視線を意にも介さず嬉しそうにもう一つのタッパーに詰められたカラフルな色のマカロンを見せてきた。
ピンク、ライトグリーン、イエロー、ベージュにパープル。色鮮やかなマカロンがびっしりと整列したその光景に圧倒される。
「すごいわね……」
「でしょ? お茶淹れるから一緒に食べよ」
そう言って彼女が淹れてくれた紅茶を片手にクッキーをつまむ。先日南さんが作ったものに負けず劣らず、彼女お手製のクッキーもとても美味しかった。
黙々とクッキーを口に運ぶ私に「お味はいかがですか?」と頬杖をついてその様を見守る彼女が尋ねてきたので「大変美味しいです」と素直に答えると、へにゃと頬を緩ませる。
付き合い始めてしばらく経つけど、「おいしい」の一言はいつになっても彼女を幸せにするらしい。こんなことでそんなにも幸せそうにしてくれるなら毎日食事の度に言ってあげるのに。
そんな彼女を見て私も機嫌よくお茶を楽しんでいたのに、クッキーを一つ食べる度に彼女の口から発せられる名前に眉をひそめる羽目になる。
「ことりさんね、料理もすっごく上手で、お昼にご馳走になったハンバーグが絶品だったんだよ!」
「ことりさん、自分で服のデザインして作ったりしてるんだって。今度ワンピース作ってもらう約束したんだ」
「学生の頃は読者モデルもやったことあるみたいでさ、ことりさんってなんかもう女子の憧れ!って感じの人だよね」
ことりさん、ことりさん、ことりさん。
口を開けば南さんを誉める言葉のオンパレード。恋人の前で他の女子を誉めるなんて御法度事項だと思うのだけど、鈍感な彼女はどうもそういう配慮はできないようだ。
どうせ私は片付けの一つもまともにできないわよ。
目の前で続く称賛の声を聞き流しながら、心の中で毒づく。
料理も裁縫も得意で、ファッションにも手を抜かない愛され系女子。コンビニ弁当ばかり食べてボタン付けもろくにできない自分とは正反対な存在。そんな南さんのことを彼女が誉めれば誉めるほど、自分がダメな女だと言われている気がして心が萎れた。
「梨子さん? 聞いてる?」
相槌の減ってきた私の顔を彼女が心配そうに覗き込む。
私をこんな風にしてしまっている原因はあなただと、言ってしまえば自分の器量の小ささに苦しむのは結局自分自身だ。無駄に高くなってしまったプライドのお陰で彼女にこのもやもやとした苛立ちを言葉にしてぶつけることは回避したけど、心にかかってしまった靄はなかなか晴れてくれそうにない。
こんなにも余裕のない自分が嫌で、だけどそれを晴らす術もなくて、せめてもの仕返しにとタッパーの中に並ぶピンク色のマカロンをひょいと指でつまむ。
「ねぇ、口開けて」
「え?」
キョトンとする彼女の顔の前にそれを差し出す。
「ほら、早く。あーん」
「あー……む?! ほ、みほはむ!?」
開いた口にマカロンをぐいと突っ込み、さっきからチュンチュンとうるさい口を塞いだ。
「ごちそうさま」
カップに残っていた紅茶を飲み干し、もごもごと口いっぱいのマカロンを飲み込もうとしている彼女を一人残して自室に逃げ込む。
お菓子が作れなくても、裁縫ができなくても、読モをやっていなくても、私には仕事があるじゃない。
そう意気込んで会社用のノートパソコンを開いたものの、仕事以外に取り柄のない自分に気付いてしまい余計に落ち込んだ。
私ってこんなに何もできなかったっけ。
ピアノもそろばんも英会話も習字も、いわゆる習い事はたくさんしてきたはずなのに、今の自分に活かされているものはほんのわずかで、どれも女子力にはうまく結びついてくれなかったなぁと思わず溜息をつく。そんなことを考えていれば作業に集中できるわけもなく、暇を持て余した結果、検索窓に「クッキー 作り方」と打ち込んでいる自分がいた。
*
昼休みを告げるチャイムが鳴り、みんな三々五々にオフィスを出ていく。普段はデスクで仕事をしながら恋人の作ってくれたお弁当をつまむのだけど、今日はその彼女に「ちょっとお話が」と言われて二人揃って社食に来ている。窓際のテーブル席に腰掛け、どこか落ち込んだ様子の彼女が意を決したように口を開いた。
「すみません……クリスマス、出張入っちゃいました……」
深刻そうな顔をするので何事かと思っていたら、なんだそんなことかと拍子抜けした。そんな私とは対照的に、彼女は、会社でプライベートな話は厳禁だと言っているのに余程ショックだったのかその忠告すら忘れて情けない顔をしている。
どうやらお得意先の会社で終日会議が入ってしまったらしく、遠方になるのでイブから前泊するらしい。今年はイブが振り替え休日なので休みに移動しなければならないことは少し可哀想に思った。
「仕方ないわよ、仕事なんだから」
「仕事終わったら速攻で帰ってくるので!夜はいいもの食べに行きましょ!」
「出張先からじゃ帰り遅くなるでしょ。いいわよ、無理しなくて」
そもそも二人ともクリスチャンではないのだから無理にクリスマスを祝う必要もないだろう。あぁ、でも、こういう考え方が私を女子力から遠ざけているのかもしれないなと少しだけ反省した。
「付き合ってはじめてのクリスマスなのにそんなこと言わないでよ」
「お店の予約して時間気にしながらじゃ仕事に集中できないでしょ」
「でもぉ、」
「って言うかオフィスでそういう話は禁止だって言ってるでしょ。誰が聞いてるか分からないんだから」
そんなやりとりをしていると「あれ、曜ちゃんだぁ」と聞き覚えのある声が私たちの傍を通りがかった。声の主はもう見なくても分かる。
「ことりさん」
そこにはトレーにヘルシーそうなランチプレートを載せた南さんが立っていた。そんな彼女に「一緒に食べます?」と愛想を振りまく我が恋人をジッと睨んでみたけど気付く素振りもなく、南さんも「え、いいの?」と遠慮しながらも彼女の隣に座り、なぜか三人でご飯を食べることに。
「なんかごめんね、お邪魔じゃないかな?」
「全然そんなことないです。それよりことりさんも梨子さんのこと説得してくださいよぉ」
私の方にチラリと視線を寄越して気を遣う南さんに、彼女はこれまでの経緯を話し始めた。
え、ちょっと待って。南さんは私たちのこと知ってるってこと? あなたどこまでおしゃべりなのよ。
さっきから彼女に飛ばしている視線は華麗に避けられていて、ひょっとして鈍感なわけではなくてわざとなのではと、さっきからへらへらと笑ってこっちを見ようとしない恋人を疑い始める。そうだとしたら彼女はかなりの策士だということになるけど、これまでの実績から言ってその確率はよっちゃんがおみくじで大吉を引くくらいには低い。ちなみに私が知る限りでは彼女が凶以外のおみくじを引いたことはない。
粗方の説明を終えたのか、相槌を打っていた南さんが「そうなんだぁ、クリスマスに出張なんて大変だね」と眉を下げて彼女を労っていた。
「曜ちゃんの気持ちもわかるけど出張帰りじゃお店もやってないかもしれないし、ことりだったらお家で過ごしたいかも」
「でも帰ってからだとちゃんとした料理作れないし、惣菜だけっていうのも味気ないですよね」
「うーん、そうだねぇ。せっかくのクリスマスだし、あったかくて美味しいものが食べたいよね」
「でしょ? だからやっぱり遅くまでやってるお店探して予約した方がいいと思うんですよ」
そんな二人の会話を眺めながら私は無言で定食のお味噌汁を啜っていたのだけど、恋人の次の一言でちょっとしたスイッチが入ってしまった。
「あ、じゃあ桜内さんに作ってもらうのは?」
「梨子さんに? いやぁ、それはないですよ」
南さんの提案に彼女はありえないとでも言うようにひらひらと手を振った。
きっと彼女は私の仕事の忙しさを考えて言ってくれているのだと思う。でも、こんな風に言われてしまえば恋人としての私の立場はリーマンショック並に大暴落するわけで。
よりによって南さんの前でプライドを傷つけられた怒りでわなわなと震えていると、私の殺気に気付いたのか南さんが少し怯えた顔をしたのが分かった。
確かに彼女と会うまではコンビニ弁当とゼリー飲料が主食だったし、彼女と出会ってからは「私が作るので!」とキッチンにすら立たせてもらえなかったけど、私だって料理の一つや二つや三つくらい、やろうと思えばできるわよ!
「……作る」
「え?」
「たまには私が何か作るから」
「梨子さんが?」
「なによ、その言い方は。文句あるの?」
「いや、全っ然! 梨子さんの手料理なんて泣いて喜びますよ」
その言い方で私が普段どれだけ料理をしていないかが南さんに伝わってしまったけれど、もうそんなこと問題ではない。この鈍感で、おしゃべりで、空気が読めなくて、料理上手で面倒見が良くて無駄に顔の良い恋人に、私の実力を見せてやろうじゃない。
「よかったね、曜ちゃん」
ニコリと微笑むそのとさか頭に「見てなさいよ」と心の中で闘争心を燃やして、残っていたお味噌汁を一気に飲み干した。
*
そして迎えた十二月二十五日。何年ぶりかにフレックスで早めに退社して、スーパーで食材を買い、キッチンに立つ。
数年ぶりに持った包丁はやけに切れ味が良くて危うく指を切りそうになった。ボウルや秤の場所が分からなくて探すのに苦労した。味見をしたら冷ますのを忘れていて舌を火傷した。
久しぶりにする料理はどうにもぎこちなくて、履き慣れない靴でダンスをしているみたいだ。
レタスをちぎって、チキンを焼いて、シチューを煮込んで。アレをして、コレをして、その間にコレもして。あぁ、忙しない。
大体仕上がってきたところでピーピーとオーブンが焼き上がりを知らせる。フライパンで焼いていたチキンの焼き加減に気を取られていて気付かなかったけど、少し焦げ臭い気がする。
嫌な予感を感じながらオーブンの扉を開ければ、焦げ臭さがキッチンに広がり思わず顔を背けた。
「なんでよ、ちゃんとレシピどおりに焼いたのに」
180℃で十五分。ネットで見つけたレシピの通りに作ったはずなのに、そこにあるのは焼けすぎて濃い色をした人型のクッキーたち。南さんが作った可愛らしいものとは程遠いそれを見て無性に悲しい気持ちになった。
携帯を見れば予定より早く帰れそうであと三十分程度で帰ってくるとの連絡。時間が無い。
本当はクッキーをよく冷ましてからチョコでデコレーションする予定だったのに、そんな暇もなく急いでチョコペンで顔を描く。
「え、わ、ちょっと、なにこれ」
ニッコリ笑顔のかわいいクッキーにするつもりがチョコが思う通りにペン先から出てくれず、泣き顔になったり、怒り顔になったり。焦りが手元に出るせいか、一つ、二つ、描いていく度に下手になっていき、最後の方はもはや鬼の形相でかわいらしさの欠片もなかった。さらに最悪なのはクッキーの余熱でチョコが溶け、顔が顔ではなくなる事態になったこと。もうバケモノの域をいっている。一つや二つはマシなものがあったはずなのに、それすらもう見つからない。
こうなったら最後の手段と、クッキーの表面全体をチョコレートで塗りつぶそうとしたところで「梨子さん、何してるの?」と背中から声がしてタイムオーバーを迎えたことに気付く。
玄関の開く音すら聞こえないほど集中していたのにこの有様ってどうなの。
「え、クッキー!? 梨子さんが焼いたの?!」
テーブルの上に並ぶそれを見て素っ頓狂な声で驚く彼女。クッキーと呼んでもいいのか悩むほどのそれを見られることが恥ずかしくって「見ないで!」とテーブルを体を張って隠す。
「え、なんで? もっとちゃんと見せてよ」
「だーめー!」
「ほらほら、よーいしょ」
背中から抱きかかえられ、テーブルから剥がされる。彼女の目の前に現れた不細工なクッキーたちが悲しげな顔でこっちを見ていて居た堪れなくなった。
「わぁ、すごいじゃん。ちょっとチョコ溶けちゃってるけど、かわいいよ」
そんなはっきりと分かる慰めはほしくなかった。いっそのこと「何これ」と笑ってほしかった。優しくされればされるほど、自分の情けなさが際立って胸を抉る。
「そんな見え透いた嘘つかなくていいから。……どうせ私はお菓子なんて作れないし、すぐに家を散らかすし、愛想笑いはできないし、かわいさの欠片もないわよ」
「そんなこと一言も言ってないじゃん」
「顔に書いてあるもん」
あぁ、言えば言うほど惨めさが募る。
彼女に少しでも褒めてほしくて、私だって彼女のために何かしたくて、大見得を切ったのに結果は三球三振の大空回り。悔しさで仕事でも流すことのない涙が目に滲んで彼女に背中を向けた。
「りーこさん。こっち向いて?」
笑いを噛み殺しながら彼女が背中から抱きつく。耳元で聞こえる大好きな声に振り向きたくなったけど、いやいやと気持ちを抑えて意地を張った。
「……いや」
「もぉ、しょーがないなぁ」
彼女はまるで子どもをあやすみたいに優しい声を出して私の前に回り込む。
こんな顔見られたくないのに……やめてよ。
「あのね、梨子さん。私はね、」
不貞腐れるようにそっぽを向く私の顔を彼女が自分の方に向けさせる。
「お菓子作りが苦手な梨子さんも」
言いながら私の手を取って指先にキスを落とす。
「片付けが得意じゃない梨子さんも」
次は額に。
「愛想笑いが引きつってる梨子さんも」
お次は瞼。
「私のこと、大好きな梨子さんも」
最後は唇に。
ほんの数秒で、柔らかな温もりは微かな甘さを残して離れていった。
「私は、今のままの梨子さんが大好きだよ」
ふにゃふにゃに緩み切った笑みが私のつまらない意地をはらはらと解いていく。
あぁ、この子を好きになってよかったなぁ、なんて、もう何度思ったか分からない感情が胸を満たして私を素直にさせた。
「……私だって少しは頑張りたかったの」
だって与えられるばかりじゃいずれ飽きられてしまうかもしれないじゃない。
何も出来ない私にあなたが愛想を尽かしてしまうかもしれないじゃない。
今よりもっとあなたに愛されたいじゃない。
「そうやって私のために慣れないこと頑張ろうとしてくれるとこも大好き」
蕩けそうな笑顔を浮かべたまま、もう一度唇を重ねる。今度はさっきよりも長く、離れないように彼女の首に腕を回して。離れていたたったの二十四時間ちょっとを取り戻すように互いの熱を求め合う。
いくらしても足りなくて、もっともっと、と貪るように彼女を求める私をよそに「梨子さん、ご飯冷めちゃうから」と冷静に返す彼女に不満が募った。ジトッと視線を向けると彼女はそれを遮るように両手のひらをこちらにかざして顔を背ける。
「いや、ほんと、かわいすぎて我慢出来そうにないからちょっと待って」
何よ、それ。我慢なんかさせてあげないんだから。
「待たない」
「えぇっ、わ、」
勢いのまま彼女に突進してソファに押し倒す。獣に襲われた野ウサギのように怯える彼女に跨り、その青い瞳を見下ろした。
あ、自分が上って久しぶりかも。
サラサラな髪、くりくりとした大きな目、ぷっくりとした唇。
いつもは見上げるばかりだったその顔を別の角度から眺めて新鮮に思う。
まじまじと顔を見つめられて余計に怯えていた彼女の胸にぽすんと頭を埋めて「……好き」とこぼすと、「もぉー、それ反則」と優しく抱きしめられた。
☆
「梨子さーん、朝ごはん食べよー」
冬独特のひんやりとした空気に乗って彼女の声が耳に届く。薄目を開けると窓からのやわらかい日差しが朝を告げていた。
布団から出るには何も纏っていない今の格好は寒すぎて、微睡みながらもう一度目を閉じる。
「もぉ、おーきーて! 今日まだ水曜だよ?」
その声でようやく意識が覚醒する。
そうだった。料理に必死すぎて忘れていたけど今年の仕事納めまではまだ三日ある。目を背けたくなる事実にげんなりしながら、床に落ちていた衣類を一つずつ回収していく。
屈んで下着を拾おうとしたそのとき、見慣れない何かが胸元で揺れた。
鏡を見ればきらりと光るシルバーのキーチェーンと指輪。
その存在に眠気も吹き飛び、その辺にあったパーカーを羽織ってドタバタとキッチンにいる彼女の元へ駆ける。
「ねぇ、これって!」
「んー? あ、気付いた?」
昨日食べ損ねたシチューをお皿によそう彼女にそれを見せると、嬉しそうに声を弾ませた。
「 頑張ってくれた梨子さんに曜ちゃんサンタからプレゼント」
「お揃いだよ」と自分の胸元にあるそれを誇らしげに見せてくる彼女がどうにも愛しくて、朝から視界が滲んでしまう。
「梨子さん、最近泣き虫だね」
「誰のせいよ」
「へへ、梨子さんを泣かせるのも笑わせるのも、私一人だけがいいな」
鈍感で、おしゃべりで、空気が読めなくて、料理上手で面倒見が良くて無駄に顔の良い私の恋人は、世界で一番私を甘やかすのが上手い。だから私はどんどんいろんなことができなくなっているのではないかと女子力低下の原因に思い当たってしまったけど、彼女がいるならそれでいいかと目を瞑ることにした。
食卓には昨日作ったサラダとシチューとチキンステーキが並び、そのどれもを「おいしい」と笑って食べてくれる彼女を見て、彼女の気持ちが少し分かった。
自分の作ったものを目の前で褒めてもらえることはこんなにも嬉しいんだ。
チョコが溶けたままの状態で固まってしまった不出来なクッキーも、「無理しなくていい」と言ったのに「この味はもう二度と食べられないかもしれないから」とその硬さに面食らいながら完食してくれた。
その様子を見ながら来年のクリスマスまでには彼女のためにちゃんとしたケーキの一つでも作れるようにならないと、とこっそり決意して、また来年も彼女と過ごすことを当然に思っている自分に気付き自然と頬が緩んだ。
本日は今年の最終出社日。終業時間を迎え、受付業務も片付いたので帰り支度を始めようとしたとき。多くの社員さんが退社しようと出入口に向かう中、正面玄関からコツコツとヒールの音を響かせて「これから始業です」と言わんばかりに歩いてきたのは社内でも有名なキャリアウーマンさん。きっと出張帰りなのだろう、左手に小さいスーツケースを携えていた。
「桜内さん、お疲れ様です」
「どうも……」
ひらひらと手を振ると、露骨に嫌そうな顔をするのでつい、ふふ、と笑みがこぼれてしまった。そんな私を見て桜内さんが訝し気に見返してくる。
「あ、ごめんね。桜内さん、正直だなぁと思って」
オブラートに包みすぎたのか、私の言葉の意味を理解していない彼女はさらに顔を険しくした。
「眉間に皺を寄せるとせっかくの美人さんが台無しですよ」
「はぁ……」
不審そうな目でこちらを見る彼女は今でこそ私に対する警戒心が剥き出しで強ばった顔をしているけど、その辺の女優さん顔負けのルックスをしている。社内でも彼女を狙っている人の噂はよく耳にするし、見事に玉砕したという話はその倍以上聞いている。
涼し気な瞳に凛とした表情。ことりとは真逆のクールビューティ。
そんな彼女が曜ちゃんとお付き合いをしていると聞いたときはちょっとびっくりしちゃったけど、料理ができないことを恋人に暴露されてムキになるその姿はとても可愛らしくて、曜ちゃんが惹かれてしまうのも納得してしまった。クールな人のそういう一面にギャップ萌えしてしまうのはよく分かる。
ババ抜きをする度にエンドレスで私に挑戦してくる幼馴染を思い出して苦笑い。綺麗な顔を崩しながらムキになる様子はとってもとってもかわいいのだけど、彼女が勝つまで続くゲームには終わりが見えなくてちょっと困ることもある。まぁ、負けてあげないことりが悪いんだけどね。
きっと今頃くしゃみの一つでもしているであろう彼女を想いながら、目の前の桜内さんともう少し会話を続ける。
「今日は出張だったんですか?」
「ええ」
「これからお仕事されるんですか?」
「少しだけ」
「あ、曜ちゃんと待ち合わせ?」
「それもあります」
一問一答形式で進んでいく会話。そんなに早く終わらせたいんだなぁとまた笑いが出そうになったけど、顔の筋肉を全力で使ってぐっと堪えた。次に笑ってしまえば今度こそ彼女は機嫌を悪くしてしまいそうだったから。
じゃあ、と次はちょっと変化球を投げてみる。
「桜内さんって曜ちゃんのこと大好きですよね」
「は?」
「だって曜ちゃんと私が話してるときの視線、痛くて刺さりそうだったから」
「……っ!」
微笑みを絶やさないままそう言うと、彼女は顔に火がついたように赤面して言葉を詰まらせた。
あぁ、そういうところがかわいいんだよね。
真面目で仕事ができていつも冷静沈着。そんな彼女にこんな顔をさせることができる曜ちゃんをとても羨ましく思った。
ことりだってあの人にそんな顔をさせてみたいのになぁ。鈍感な彼女はいつだって私を幼馴染としてしか見てくれない。
「ことり」
顔を赤くする桜内さんを見てちょっとだけ落ち込んでいると、帰り支度を整えた彼女が現れた。
あぁ、なんていいタイミング。
「談笑中すみません。ですが早くしないと穂乃果との待ち合わせに遅れてしまいますよ」
仕事納めということで社会人になってから恒例になっている幼馴染での忘年会。今日はこれから三人でお鍋を食べに行くことになっている。
時計を見れば待ち合わせの十五分前で、確かにそろそろ出ないとお腹を空かせた穂乃果ちゃんに泣かれてしまいそうだ。
「はぁい♪ じゃ、桜内さん、曜ちゃんによろしくね」
立ち尽くす桜内さんに手を振って、少し先を歩く彼女に追いつく。
会社を出ると空気が驚くほど冷たくて「海未ちゃん、寒い」と隣を歩く彼女の腕に自分のそれを絡ませた。凍える私をよそに「年末ですからね」と表情も変えずに彼女が言う。長年一緒に居るとこんなスキンシップは日常茶飯事で、ときめくことなんてないと分かっていてもやっぱり悔しい。
「さっき話していた方って桜内さんですよね? 仲良いんですか?」
内心で頬を膨らませていた私に彼女が不思議そうな顔で尋ねてきた。あまり他人に興味を持たない彼女にしては珍しいことだなと少し驚く。
「え? うーん、桜内さんの部下の子と仲良くて、その繋がりでちょっと喋ってた感じかな」
「そうですか……」
私の返事を聞いた後、ちょっとだけ、ほんとにちょっとだけだけど、彼女がほっとしたような顔をした気がした。
普段は感情の起伏が穏やかで心情が見えにくい彼女がわずかに見せたその表情。少しは気にしてくれているのかなと、それだけで私の心はふわっふわに浮かれてしまう。
「どうかしたの?」
「いえ、ことりとは正反対そうなタイプの方だったので意外に思っただけです」
「あー、どっちかっていうと海未ちゃんに似てるよね」
「そう、ですかね」
「うん、生真面目で頑固で融通利かなさそうなところとか」
「ことり、それは悪口です」
「ふふ、冗談だよ」
まったく貴女という人は、といつものお説教を横で聞きながら、そう思うと桜内さんとも案外いいお友達になれるかもしれないなぁ、なんてことが頭に浮かぶ。私がアプローチする度に顔を引き攣らせる桜内さんを想像して、ちょっと面白そうかも、と悪戯心が湧いてきた。
それに、そうすれば彼女だって少しは妬いたりしてくれるのかもしれない。そんな下心を抱えながら。
「ことり? どうかしましたか?」
「ううん。ねぇねぇ海未ちゃん、ことり、デザートはニューヨークチーズケーキが食べたいなぁ」
「構いませんがお鍋にだけは入れないでくださいよ」
「もう、いつの話してるのぉ!」
さっきのお返しです、と笑うあなたの優しい瞳に映る私はどんな風に見えているかな。いつまでも幼馴染のポジションじゃことりは嫌だよ。
超がつくほど鈍感なあなたにしてしまった先の見えない長い恋。でも、こうして隣を歩けるうちは決して諦めたりしてあげないんだからね。
あなたを振り向かせるためだけに磨いた女子力、もっともっと輝かせてみせるよ。
Fin.