桜色の先輩
벚꽃빛 선배
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7523649
Aqoursが成立していない世界。桜内さん、津島さんが二年生で、渡辺さんが一年生。部活が同じとかじゃないと、学年違う人って全く接点がないよねって話。
メインはようりこだけど、ようよし要素もちょっとあります。
続きました⇒「水色の人魚물빛의 인어」
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――あ、またいる。
部活上がりに中庭の渡り廊下を通ると、ある人を見つけて、私は一瞬立ち止まった。中庭のベンチに腰かけているその人。さらさらとした長いワインレッドの髪が遠目にも鮮やかに映る。やや俯きがちになって、目線は手元のスケッチブックに落とされている。ここからは見えないけれど、その瞳が綺麗な琥珀色であることを私は知っている。
時々、校舎内で見かける人だ。見かけた時は大抵、桜色のスケッチブックを携えていて、熱心に絵を描いているから、私の姿に気づいたことはないだろう。
何を描いているだろうと、いつも気になる。けれど、声を掛けることはおろか、スケッチブックの中さえ覗けたことはない。
胸のリボンは赤色。だから、あの人は二年生で、一年生の私からは先輩ということになる。
時々、見かける言葉も交わしたことのない先輩。私は密かに『桜色の先輩』と呼んでいる。
初めて、その人を見かけたのは入学して間もない頃だった。
部活動見学週間のその日、水泳部に顔を出した私は、顧問の先生に即座に確保された。中学で高飛び込みの全国大会に出場した経験があるという履歴が先生の眼に留まったらしい。「お前は逃がさん。絶対に入部。即入部。今から正式部員」って。いやまあ、どのみち水泳部以外に入りたい部活もなかったからいいのだけれど。
仮入部期間であるにも関わらず、先輩たちに混じっての練習メニューは、さすがに中学の頃とは比べ物にならないくらいにハードだった。一応まだ仮入部という肩書きがあったから(さすがに初日から正式部員っていうのは無理だった)、部活終わりのミーティングは参加免除され、他の仮入部生よりは遅く、正式部員の先輩たちよりは少し早く上がって、くったりと疲労感に満たされて廊下を歩いていた。一般教室が配置された東棟と渡り廊下で繋がった南棟は、化学実験室や被服室なんかの特別教室が寄り集まって、放課後は全く人気がなくなる。一人取り残されたような気分で、ぼんやりと歩いていると、それは聞こえた。
「~~~♪」
小さなハミングの声。雑踏の中では無抵抗に埋もれてしまうようなその音が、ひっそりとした廊下に響いた。私は思わず足を止めた。そのハミングはちょうど通りかかった音楽室から漏れているみたいだった。スライド式の戸口が十センチばかり開いている。私はセイレーンにつられる船乗りのようにふらふらっと音楽室に近寄って、そっと、戸の隙間から中を覗いてみた。
そこにいたのは一人の女子生徒だった。
黒い立派なグランドピアノの前に椅子を置いて座っている。鍵盤の前に座っているのではなく、空間を空けて、ちょうどピアノの全体が眺められるような位置にいる。彼女はイーゼルを立てて、絵を描いていた。繊細な手つきで絵筆を動かしながら、穏やかな表情でハミングしている。
音楽と美術。
似ているようで、決して同一化出来ない二つの芸術が融合していた。
音楽室にイーゼルがあるという情景は普段の眼で見れば、かなりミスマッチのはずだ。けれど、その時、夕暮れの窓を背景にしたその時の音楽室。彼女の小川の流水のような歌声が流れるその場では、不思議と違和感がなく、私の中にその光景は絵画的な印象でもって感慨を与えた。
私の位置からは彼女の横顔が見えていた。まるで美術品みたいに綺麗な顔立ちだった。櫛を通したら、一切引っかかることなくするりと髪先まで落ちてしまいそうな長い髪。琥珀によく似た瞳は優しげな色を灯している。首筋の細さや、睫毛の長さ、緩く曲線を描く口許の一つ一つに目が奪われる。
「…………」
私はその時、息をするのも忘れて、見入った。
彼女は私という盗み見人に気づかずして、目の前の絵画に埋没している。描かれていたのはピアノの絵だった。黒いピアノが中心に描かれただけのシンプルな絵。背景は桜色一色。春の絵なのだろうか。黒いピアノと桜色の背景の境目は少しおぼろげで、ピアノは春の中に溶け込むように描かれていた。
私の眼には、その桜色の絵が鮮烈に印象付けられた。
優しく少し切ない夕焼けの色。柔らかく甘いハミングの声。温かく穏やかな桜色の絵。私はそれらに時間と我を忘れさせられて、彼女が歌い描く姿を見守り続けた。
どれくらいの時間が経ったのか。私に自我を取り戻させたのは、最終下校を告げるチャイムの音で、その途端はっとした。彼女がハミングを止めて、ことりと絵筆を置いたのを見て取り、慌てて音楽室を後にした。
声を掛けるなんてことは考えもしなかった。なんとなく、盗み見していたのが悪いことのように思えてしまったのだ。
なんて言えばいいのだろう。天女が水浴びしているのを見てしまったような気分? 美しくて、清らかで、でも少し秘密めいたその光景は、誰も踏み込んではいけない聖域のように思えた。
それからというもの、私は名前も知らない彼女のことが気になっている。学校でワインレッドの髪が視界に入るとついついそちらに眼がいってしまう。
入学から半年が経って、彼女についてわかったことは、二年生であることと、絵を描くのが好きらしいということぐらい。それ以外はまだ名前も知らない。
一つ年上の『桜色の先輩』。
彼女のことをもっと知りたいと思ってしまうこの気持ちは一体何なのだろう。
「それは引き裂かれたあなたの半身。運命のメシア。天界より墜落せしめられた人類が混沌と化したこの地において魂に刻まれた神託」
「……すみません。日本語でお願いしてもいいですか?」
「下界の言葉で言うなら……ずばりそれは魂の共鳴!」
ふっと決めポーズしてニヒルな笑いを浮かべる善子先輩に、私は相談する相手を間違ったかなあ……なんて思った。一応年上だし、ちょうどいいかなって思ったんだけど。
これで、あの『桜色の先輩』と同級生とはにわかには信じ難い。あの人の持つ大人っぽさと比べると……なんか、うん、慈しみたくなるよね。
「……ちょっと失礼なこと考えてない?」
赤い瞳がジト目になって私をねめつけたので、慌ててぷるぷると首を振った。
鋭いな、善子先輩。それを言ったら、一転してドヤ顔で「我が邪気眼は全てを見通す力を宿すのよ」とか言いそうだから、言わないけどさ。
水泳部の朝練のない日。学校へ向かうバスの中での会話だった。
隣に座る善子先輩は時々バスの中で一緒になる人だった。同級生ならともかく、先輩後輩の間柄でありながら、こんなふうに会話するようになったのは、ちょっと珍しいことかもしれない。
きっかけは三か月くらい前。それまでも時々彼女のことは見かけていて、同じ学校の制服だなーなんて思いながら見てたんだけど、声を掛けるまではいかなかった。人見知りするような性質でもないけれど、リボンの色で先輩だってわかったから。やっぱり学年の壁はある。小学校とかならまだしも、高校生にもなると一つ年が違うだけで明確な距離感みたいなものがあるもので、部活とか委員会とか、そういった接点もない先輩に自分から近づくのはやっぱり躊躇われてしまう。
けれど、三か月前。その時は放課後で、バスに乗り込んで発車するまで、窓の外を眺めていると、いつも見かけるダークブルーのロング+お団子ヘアの人がぱたぱたとこっちに走ってくるのが見えた。あーあの人だーなんて思いながら頬杖をついていたんだけど、彼女がバス停前でずこおっ!とこけて、それがあまりにもダイナミックな転び方だったものだから、私はぎょっとした。ぷるぷると地面に伏して震える彼女に、うわ大丈夫かなって見守っていたんだけど、そんな彼女の姿にバスの運転手さんは気づかなかったらしい。「発車いたします」とアナウンスしたので、私は慌てて立ち上がって「もう一人乗ります!」と声を上げた。砂のついた制服で、息切れしながら乗り込んだ彼女に「……助かったわ、ありがとう」と声を掛けられたのが、きっかけになったと言えば、なったんだと思う。
その日以来、バスの中で顔を合わせると、挨拶をし合うようになって、最近では席が空いていれば隣に座るようになるくらいには仲良くなった。
話してみると、存外親しみやすくて、年上とは思われない人だった。私としては褒め言葉のつもりなのだけど、それを言うと「こーはいのくせに生意気な! 年上は敬いなさいよ!」とこめかみを拳でぐりぐりされてしまうのであまり言わないようにしている。そういうちょっとしたことに全力リアクションするところが年上っぽくないなあって思わせていることに、多分善子先輩は気づいていない。勿論、良い意味で、だけれど。
学年が違くて、接点が少し薄くて、だけど親しみやすいという善子先輩のポジションはかなり絶妙なのだろう。そんな善子先輩だからこそ、クラスの友達にも話さないようなことをついつい話してしまう。『桜色の先輩』のことを善子先輩に話したのはそんな背景があるからだ。憧れてる先輩がいるってことを、クラスの友達に話すのは少し気恥ずかしくて言ってない。茶化されるんじゃないかと思ってるわけじゃないけれど、なんていうかな、近い人にこそ知られたくないといいますか……。その点、善子先輩なら、ちょうどいいかなって。基本、バスの中でしか会わないような関係だけど、話しやすいし。
……でも、やっぱり人選間違った感が否めない気がする。
「魂の共鳴って……」
「あなたもついに見つけたのね、その身に定められた片割れを。天より生まれ落ちた際に離れた運命共同体を!」
「……善子先輩、バスの中で大声出さないでください。お願いですから」
前の席に座った人たちから、ちらちらと窺われる視線が痛いです。注意すると、善子先輩はかっと眼を見開いて、ずいっと身をこちらに乗り出させて「だ・か・ら!」と訂正した。
「何度言ったらわかるのよ、善子じゃなくて、ヨハネ!」
堕天使ヨハネというのが、善子先輩の自称名である。
最初に名前を教えてもらった時、「ヨハネはヨハネよ」とぎらんと決めポーズしながら言われたのだけど、その時、生徒手帳がぱさっと落ちて、拾い上げてみたら先輩の顔写真とともに「津島善子」とあった。「善子……先輩?」と言ったら、先輩は決めポーズのまま、顔を徐々に赤くさせて、口端をぴくぴくと引きつらせた。……あれはちょっと面白かったな。
それ以来、私は先輩のことを善子先輩と呼んでいる。善子先輩にはそれが不服らしく、事あるごとに訂正を入れてくるけれど、私としては呼び名を変えるつもりはなかった。
だって、ねえ? 正直、ヨハネって名前より善子って名前の方が善子先輩にはぴったりなんだもん。善い子だよね、善子先輩って。バスの中の短い乗車時間でしか会わない仲でもわかるくらいに。先輩にこんな言い方は失礼かもしれないけどさ。
「ヨハネだからね、ヨハネ!」と強く念押ししてくる善子先輩に、私は話を元の軌道へと戻させるように尋ねた。
「で、なんですけど、『桜色の先輩』について心当たりとかないですか? 善子先輩と同級生のはずなんですけど」
善子先輩は「だからヨハネ!」ともう一度叫んでから、ふっと肩を落ち着かせて答えた。
「……あんたの片割れを特定する手伝いはしてやりたいけど、生憎心当たりはないわ。悪いわね」
「そうですかー……」
うーん、残念。まあ、さすがにそんな友達の友達だった!みたいな、うまい話はないか。
「でも、そんなに絵を描くのが好きなら美術部員とかじゃないの? 放課後、暇なときにでも美術室覗いてきたら誰だかわかるんじゃない?」
『桜色の先輩』が美術部員じゃないかってことは、私も考えていたことだ。けれど、わざわざ美術部の方にまで訪れるのは、ちょっと踏ん切りがつかない。だって、ストーカーっぽくないかな、それって。まだ知り合いにもなっていないわけだし。
私が逡巡して口をまごつかせていると、そのうちバスが学校に着いた。アイドリングが止まり、ぷしゅーと空気の抜けるような音がして、扉が開く。
「……ま、あんたが積極的に探し出す気がないっていうんなら、いいけどね。でも、学年違うと滅多なことがない限り疎遠なままよ」
バスから降りた時、善子先輩が言った。堕天使モードの時はまるっきり子供のような人だけど、ふとした瞬間に先輩っぽくなることがある。そういうところ、ずるいなあって思う。……やっぱり、年の差ってあるんだよね。
「またラグナロクの頃に会いましょう、リトルデーモン」
善子先輩はさらりとダークブルーの髪をたなびかせて、先へ行き――。
そして、盛大にこけた。
「…………」
「…………」
地面とキスする女子高生。お尻を突き出すような形。しかもスカートがめくれてる。
「…………パンツ、見えてますよ……?」
ばっと立ち上がる善子先輩。背を向けたままなので、表情は見えない。けど、肩が微かに震えていて、ちらりと覗く耳は真っ赤に染まっていた。
「よ……」
「よ?」
「妖怪ヨーソローのばかあああ!」
善子先輩は意味不明な捨て台詞を残して、猛然と走り出した。
「え、えー?」
なんというか、やっぱり善子先輩は締まらない人だ。泣きながら走っていく善子先輩の後ろ姿に、私は憐れみの意を込めて「よーそろー」と小さく敬礼をした。
……あ、またこけた
火曜日の三時間目の数学の授業には窓の外に視線をやるのがすっかり習慣になってしまっている。別に数学が苦手で嫌いだからって理由じゃなくて、この時間は二年生がグラウンドで体育をやるのだ。
二十人程度がぱらぱらとグラウンドに出てきて、その中にはワインレッドの髪も紛れ込んでいる。クラスが違うのか、選択した種目が違うのか、善子先輩の姿はない。
種目はソフトボールらしい。先生の掛け声で試合が始まって、『桜色の先輩』のチームは先攻だった。打順待ちのところで友達と談笑している姿が目に入る。いいなあと思った。
下唇にシャーペンを押し付けながら、しばらくぼうっと見ていた私は、おもむろにペン先をノートに向ける。数式の余白に、ジャージ姿の『桜色の先輩』の絵を落書きする。袖から出る細長い指先とか、すっきりとした顎のラインとか、髪から覗く形のいい耳とか、そういったものを丁寧に線を重ねて描いていく。
絵を描くのは割と好きな方だ。昔から制服とかコスチュームとかが好きで、そういった衣装をよく自分でデザインしてきたから。
一通り描き終わって、私はほうっと小さな吐息を漏らした。ノートの中に描いた線画の『桜色の先輩』から、グラウンドにいる本物の彼女へと眼を向ける。打順が来たらしい友達を、にこやかに手を振って送り出している。頑張ってね、そんなことを言っているのかもしれない。ああ、いいなあ……とまた私は思ってしまう。
私と彼女の距離は校舎の三階からグラウンドまでの距離よりきっと遠い。たった一歳違うだけなのに、それだけで透明な壁があるみたい。
彼女と同じクラスの人なら、当然彼女の名前を知っているだろう。多少仲が良ければ、好きな食べ物や休日の過ごし方も知っているかもしれない。けれど、私はそれらを知らない。それがすごく悔しかった。
……美術部、入ればよかったかな。
ノートの落書きをそっとなぞりながら、ぽつりと思った。
――そんなことを考えていると、不意にノートに影が落ちた。
「……渡辺ぇ、今は美術の時間じゃないぞー?」
ぼすっと、頭部に軽い衝撃。
グラウンドの方やノートの落書きの方へ意識を遠のかせていた私は、その声と衝撃で突如として、自分のクラスへと連れ戻された。はっとして顔を上げると、丸めた教科書を手に持った数学の先生の姿がある。
「あ、いや、これは……!」と慌ててノートを隠すけど、時すでに遅し。先生はにやりと口角を引き上げて言った。
「68頁の応用問題解いてみろ。お絵かきしてる暇があるんなら、当然解き終わってるんだろうな?」
「…………ハイ」
私は観念して黒板の方へ向かう。
その時、開かれた窓から、野球のような痛快なバッティングの音とは少し違う、鈍い音が遠く聞こえた。と、同時に女の子たちの歓声。
『桜色の先輩』の友達が活躍したのだろうか。だとしたら、あの歓声の中には『桜色の先輩』の声も混じっているのだろうか。
なんだかすごくもやもやした気持ちが胸に広がった。
当てられた応用問題は最後の計算のところで単純なケアレスミスを仕出かして、バツをもらった。
「え、今日部活休みなんですか?」
「悪いな、急に他校の方へ出張することになっちゃってさ」
放課後、掃除当番で教室に残っていると、水泳部の顧問の先生がやって来て、部活が急きょ休みになった旨を話した。水泳部は練習する場所が場所なだけに生徒たちだけでの自主練が認められていない。空きがあれば、トレーニングルームとかグラウンドとかでの練習になるのだろうけど、急な変更だからそれも無理そうって話。
「まあそんなわけで、今日は休みだ。各自、自宅とかで自主トレでもしてくれ」
顧問の先生はそう言って、少し慌ただしそうに帰って行った。
「休みって……急に言われてもなあ」
私の箒の柄の部分に顎を乗せて呟いた。それに対して、ぽふぽふと黒板消しを叩きながら、同じクラスのルビィちゃんが言う。
「曜ちゃん、いっつも部活頑張ってるから、たまには身体休めた方がいいんじゃないかな?」
そこにきゅっきゅっとゴミ袋を縛っていた花丸ちゃんが「そうずら」と同調意見を加えた。
「今日ちょっとぼーっとしてたみたいだし、たまにはゆっくり休むといいずら」
いや、ぼーっとしてたのは別に疲れてたからってわけではないのだけれど……。まあ、二人には言えないか。『桜色の先輩』のことなんて。
「それにしたって、急に予定が空いちゃうとなあ……そだ、花丸ちゃん、ルビィちゃん、たまには一緒に寄り道しない? 松月とか」
二人はクラスでも特に仲のいい友達だけど、私一人が運動部に入ってるせいで、なかなか放課後一緒に遊ぶ機会がない。我ながら、いい放課後の過ごし方かと思ったのだけれど、花丸ちゃんが眉尻を下げて言った。
「今日、マル、図書委員の当番ずら……」
「うゆ……ルビィも家の方で用事があって、真っ直ぐ帰らなきゃいけなくて……」
「そっかあ……残念」
肩を落とした私に、二人が申し訳なさそうに「ごめんね、曜ちゃん」と謝ってくる。私は「いいよ、いいよ。気にしないで」と苦笑しながら手をぱたぱたと振った。
しかし、そうするとほんとにどうしよう。真っ直ぐ帰るか、それとも一人で寄り道するか。
「……あ」
一つだけ思いつく。急に空いてしまった放課後のスケジュール。そこを埋める予定。放課後で、水泳部が休みの時にしか出来ないそれ。
躊躇いはあるのだけど、降ってわいた空白の暇はまるで神様が行けって言っているように思える……ような気もする。
「…………」
私は箒をロッカーにしまって、ぱたんと閉じた。
行って……みようかな。美術部。
『桜色の先輩』に会いに。
花丸ちゃんとルビィちゃんと別れて、私は南棟へ向かった。放課後になって少し経った時間帯だから、人通りは少ない。けれど、文化系の部活らしき人たちとは何人かとすれ違う。私はちらちらとその人たちを気にしながら、美術室がある三階へ向かった。なんだか、咎められるようなことをしている気分だ。心臓がぱくぱくする。
三階の廊下には生徒が描いたらしい絵画が壁に飾られている。多くは有名な絵画の模写みたいだけど、中にはオリジナルっぽいものもある。時々入れ替えられるから、その度に『桜色の先輩』が描いたあの春のピアノの絵がないか見る。けど生憎見ない。まだ完成していないのか、あるいはあれは趣味で描いただけのものなのか。
……今日、会えたら見せてもらえないかな。
そんなことを夢想しながら、廊下を進んでついに美術室の前につく。扉の窓ガラスのところには黒いカーテンが掛けられていて、中を覗き見ることは出来ない。私は胸の前で拳を作って、こくりと唾を飲み込んだ。
え、えっと。どうすればいいんだろう。「失礼します」って言って入って行けばいいのかな。いやでも、どんな用で来たのか訊かれたら、なんて言えばいいの? 『桜色の先輩』に会いに来ました! 知り合いでも何でもないです! 名前も知りません! 先輩は多分私のこと顔も名前も知らないと思います! ……って言えばいいの? 思いっきり変な人じゃん、それ。
あーうーと悩んで、結局覚悟を決める。ええい、出たとこ勝負だ。相手の出方に合わせて、なんとか乗り切ってみせる。行っちゃうよ、ヨーソロー!
意を決して、私はコンコンと扉をノックした。
「…………」
五秒経過。無反応。
聞こえなかったのだろうかと思って、今度はちょっと強めにゴンゴンと叩く。
…………。やっぱり無反応。
あれえ?と思って、ちょっと迷いながらも取っ手に手を掛ける。開こうとして――ガコッと引っかかるような感触がする。
ガコガコ。しばし無言で戸を開けようとする私。でも開かない。鍵が掛かっているみたいだ。
その時になって、私はようやく気づいた。水泳部は基本的に毎日活動があるから、それに気づかなかったのだけど、そうだよ。文化部って、毎日活動してるわけじゃないんだ。おそらく、今日火曜日は美術部が休みの日なのだろう。
「……あー……」と途端に脱力する。
でも、そりゃないよ。折角勇気出して来たのに……。
私はゴンッと美術室の扉に頭突きして項垂れる。なんだか、部活終わりよりひどい疲労が襲ってくる。緊張した分と期待した分だけ、徒労感に変換されたみたい。
曜ちゃん、もうやだ。家に帰ろうと決める。そしてふて寝してやろう。
降水確率八十%のどんよりとした曇り空みたいな心地で、私はずるずると美術室を後にした。けれど、その足が昇降口に向かう途中で止まってしまう。
昨日、部室に部活用の水筒を置き忘れしまったことを思い出したのだ。今日の部活で持って帰ろうと思っていたことをすっかり失念していた。うわー、めんどくさい……。今日はもう真っ直ぐ帰りたいのに。
でも、明日も水筒がないのは困る。仕方がない。取りに行こう。私は溜息を一つついて、部室の鍵を借りに行くべく、重い足取りの進行方向を職員室に向けた。全速前進……って元気に言う気分にはなれなかった。
うちの学校のプールは屋上ではなく、校舎に隣接するように設置されている。プールの周りをフェンスが囲っているだけで、明け透けな様相である。夏場は他の運動部の子たちから羨ましそうな眼を向けられるのだけれど、これから気温が下がって行けば、プールでの練習は出来なくなるだろう。屋外というのも、一概に良いとは言えないかもしれない。
でも、そういったデメリットはあるけれど、私はやっぱり屋外プールの方が好きだった。直に感じることの出来る陽射しや風や気温は室内プールでは味わえないものだ。水に浮かんで見上げる空の青さに、何とも言えない爽快感を覚えるのも、屋外ならではだろう。
私は手中のキーホルダー付きの鍵をちゃりと鳴らして、ぼんやり空を見上げた。
十月になってもうっすらとした残暑はまだ粘り強く残っている。だけど、空の色が少し遠く、そして薄くなった気がする。あと少し寒くなったら、プールはもう使えなくなってしまうだろう。もう夏は遠くの方に小さく後ろ姿が眺められるばかりだ。
そのうち、秋が深まって、その秋も過ぎると、冬が来る。そして、その次はまた春が来る。あと半年経てば、私も先輩になる。
水泳部の後輩にアドバイスしたりする自分の姿や、進路を本格的に考えるようになる自分の姿。そういった未来のことは、今はまだぼんやりとしか考えられない。けれど、ただ一つはっきりとイメージできるものがある。
今、絞めているオレンジ色のリボンが、赤色に変わること。そして、その時『桜色の先輩』は赤色のリボンから緑色のリボンに変わるということ。
それだけは定められた未来として、歴然と私の前に横たわっている。
まるで決して追いつけない追いかけっこみたいだと思う。
私が彼女に追いつこうと走って、やっと彼女がいた場所にたどり着いても、彼女もまた同じ分だけ進んでいて、いつまで経っても同じ場所に立てない。
理不尽、というか。どうしようもないことではあるけれど。
私は少し暗い面持ちで、プール前へと回った。
その時、不意打ちで風が吹いた。
わっと思って、眼を閉じる。目許に手をかざして、風が収まるのを待つ。そうして、風がやんで、眼を開けた時――私は季節外れの桜を見た。
「――――」
息が止まり、瞬きが出来なくなった。
『桜色の先輩』が、そこにいた。
プール入口の、鍵の掛かったフェンスの前。少しぼうっとしたような表情をして、立っているのは紛れもなく彼女だった。いつもの桜色のスケッチブックを胸に抱いている。
唐突な巡り合わせに、私は言葉を失くす。そんな私に、彼女は「……あ」と気づいた。目が合った途端、鼓動が跳ねた。
フェンスから離れて、こちらに近づいてくる。
「……水泳部の一年生さん?」
彼女は私の胸のリボンをちらりと見て言った。その透きとおるような声音に私はあの春の日のハミングを想起した。しばらく呆然として、それから彼女に問いかけられていたことに気づき、急いでこくこく!と頷いた。私のその子供っぽいような仕草が可笑しかったのか、彼女は小さく笑った。私はちょっと恥ずかしくなって、頬を染めた。
「そっか。今日、水泳部はお休みなの?」
問われて、私はまたこくんとやや大げさなくらいに頷いた。
「そっか……」
私の回答に彼女は残念そうな表情に変わった。それが気になって、私は硬直した喉を駆使して尋ねた。
「あ、あの、な、何か、用でしたか。あの、水泳部に」
声が裏返ってしまったのは致し方がない。
用ってほどじゃないんだけど……と『桜色の先輩』はまた微笑した。
「プールの絵を描きたくて、お邪魔にならない程度に入らせてもらえないかなって思ったの。……でも、休みじゃ仕方ないね」
彼女は、人のいないプールを見て言った。鍵の掛かった入口は、プレートがなくとも、立ち入り禁止を意味していた。
「じゃあ、ごめんね」
『桜色の先輩』はそう言って、私の脇を通り過ぎようとする。すれ違う時、ふわと優しい香りがした。うわ、すっごくいい匂い……。トリートメントかな? なに使ってるんだろ……。
――って、そうじゃない。そうじゃないよ、私。
これはきっとチャンスだ。私はすでに三メートルくらい離れた『桜色の先輩』の後ろ姿に、「あの!」と声を上げた。
さらりとワインレッドの髪が流れて、彼女が振り返る。その琥珀の瞳に見つめられて、私は咄嗟に頭の中で組み立てつつあった言葉が吹き飛んでしまう。「あ……う……」と固まる。思えば、ずっと遠くから見ているばかりだったのだ。こんな至近距離で向き合うなんて初めてだ。遠目から見ても美形だった『桜色の先輩』は近くで見れば、一層の美人さんだった。かあっと顔に熱が上ってきて、心臓がばくばく暴れる。
呼び止めておいて、不審な私の様に彼女は不思議そうに小首を傾げた。なんか言わなきゃ、なんか言わなきゃって焦る。クラスの友達との会話ならここまで変になったりしないのに。
あーもう情けない!と拳を握りしめた時、固い感触が手のひらに刺さった。
――あ。
これだ!と瞬間思った私は、その手をばっと勢いよく彼女に突き出した。
きょとんとした彼女と顔を真っ赤にさせた私の間で、水色のキーホルダーが付いた鍵がちゃらりと音を立てた。
プールの鍵だ。
『桜色の先輩』はそれを少し要領を得ない顔つきで見つめて、それからまた私の顔に視線を戻す。私はがちがちになってしまっていて、何にも言えない。
彼女は可愛らしく、こてんと首を傾げる。
「休みじゃないの?」
「や、休みですけど、むっ、無性に自主練したくなって!」
やや言葉を詰まらせながら、私が答えると、彼女はまた何度か瞬きをして「……先生いないのに、いいの?」と問う。どうやら彼女はプール使用時の規則を知っていたらしい。私は答えに一瞬窮したけど、こうなったらと思って上目遣いに彼女を見た。
「こ、顧問の先生には、内緒にしてくれませんか……?」
つまるところ、それは共犯のお誘いだった。
『桜色の先輩』はしばらく私を見つめた。その沈黙の間、あああ、やっぱりだめだったかな、怒られちゃうかな、彼女が「めっ」って叱ってくれるのなら、むしろ叱られたいけど、結構真面目そうだし、本気で失望されたら多分曜ちゃん立ち直れない……なんてことをぐるぐる考えて、思考がショート寸前になった時、ようやく彼女は「ふふっ」と小さな笑い声を上げてから、
「悪い子なんだね?」
ちょっと可笑しそうに、ちょっと面白そうに。口許に手を当てて、そう言ってくれた。
その微笑みに。その甘い声に。
私はぼっと顔に火が付いたようになって、今度こそ思考がショートした。
――そんな経緯を持って、プールに侵入を果たした『桜色の先輩』と私。
『桜色の先輩』はプールサイドに腰を落ち着けて、まず辺りをよく眺めた。構想を練るためなのだろう。本当のことを言えば、彼女の隣に座って、彼女が描く姿を出来るだけ近くで見たかったのだけれど、「自主練がしたいから」と言ってしまった以上、泳がざるを得なかった。とは言っても、実際のところ、隣に座るなんてことをしたら、緊張のあまり何を言っていいのかわからず、挙動不審になること間違いなしだったろうから、まあ、これでよかったのかもしれない。
競泳水着に着替えた私は、飛び込み台の上に立って、すうっと息を吸った。いつになく緊張しているのを自覚する。高飛び込みの時でさえ、プールの水面を真下に見下ろした時の高揚感や、やってやろうという果敢な気持ちを感じるばかりで、ここまで緊張したりしない。私がこんな様になっているのは、他でもない『桜色の先輩』がプールサイドにいるせいだなんてことはわかりきっている。けれど、そちらを見る勇気はなかった。眼でも合ってしまったら、私は足を滑らせて、無様にプールに落ちてしまうだろうという情けない予感がある。
というか、今、彼女は私のこと見ているのだろうか。うわ、どんな眼で見られてるんだろう……。意識すると、かあっと体温が上がるようだ。こんな緊張まっただ中な姿は見られたくない。でも、私の姿をそっちのけで、スケッチに熱中されるのも、なんかこー……悲しくてやだ。いや、彼女はここに絵を描きに来たのだから、それが正しいのだろうけれど。
色々と余計なことをごちゃごちゃと考えて、飛び込み台の上に立ち続けた私だけど、これ以上固まっていると、さすがに不審に思われそうだったので、私は意を決して、勢いよくプールに飛び込んだ。
ぱしゃっと高飛び込みに比べればずっと軽い衝撃で入水する。冷たい水が私の火照った身体を冷却してくれる。十メートルほど潜水して、浮上。「ぷはっ」と空気を吸い込んで、クロールを開始する。一レーンを泳ぎ切って、ターン。今度は背泳ぎ。それから、私は一レーンごとに平泳ぎ、バタフライと泳ぎ方を変えた。緊張を誤魔化すためだ。
二往復して、私は足をつけた。ほとんど全力で泳いだために、たった二往復だというのに、息が上がってしまった。壁に手をついて、息を鎮めていると、ぱちぱちと手の叩く音がした。
そちらを見ると、『桜色の先輩』が私の泳ぎのたった一人の観客として、拍手をしてくれていた。春の柔らかな陽射しのような微笑を浮かべている。
「あ……」
途端に身体の熱が再発してくる。けれど、それは焦燥や羞恥心のための火照りじゃない。温かい熱だった。彼女が今、私を見ている。私に笑顔を向けてくれている。今は、私だけに。それが堪らなく嬉しくて、胸をじんと熱くさせた。
彼女の柔らかな微笑と拍手の音のおかげで、自分の中でふっと何か和らいだ気がした。私は水の中から叫んだ。
「あの! 自分のことは気にしなくていいので、絵、描いてください!」
私がそう声を張り上げると、『桜色の先輩』は少しだけ眼を丸くして、それからふっと解けるようにまた笑ってくれた。
「ありがとう」
右手をメガホンのように口許に当てて、彼女は言った。そのたった五音が、甘く爽やかに私のもとへ届けられる。
彼女は鉛筆を持って、スケッチブックを開いた。眼差しを真剣なものにして、手を動かし始めた彼女。私はそれを見届けて、また泳ぎ始めた。
きっと、今日、『桜色の先輩』が描く絵はとても素敵なものになるという予感がある。
この今を閉じ込めた景色。陽射しとそよ風と水しぶきの音が穏やかにあるこの時間。私と『桜色の先輩』しかいないこの空間。
どんな絵になるかはわからないけれど、見るまでもなく、私はその絵が大好きになるだろう。
クロールでかき分ける水が、私の眼にはきらきらと輝いて見えた。
一時間ほど経った頃、さすがに泳ぎ疲れて、ふうっと息を吐く。ちらりと『桜色の先輩』の方を見ると、まだ彼女は熱心に手を動かし続けていた。夢中な琥珀の瞳には子供のような無邪気さと大人びた真剣さを兼ね備えられている。
彼女はどうも一つのことに夢中になると、自分の世界に入り込んでしまうらしい。私がじっと彼女のことを見ていても、さっぱり気づかない。いつもながらすごい集中力だ。
彼女が私の視線に気づかないことをいいことに、私はちょっと休憩のつもりでプールの縁に腕組みをして、そこに顎を乗せ、彼女の姿を眺める。
しゃっしゃっと、彼女がペンを動かす音が耳心地よく聞こえる。いつの間にか鉛筆から、色鉛筆に変わっている。綺麗だなあと見惚れる。彼女は自分をモチーフにした絵は描かないのだろうか。これ以上なく美しい絵になりそうなものだけど。
私がそうやってしばし幸福な時間に浸っていると、突然「おーい!」という大きな声が聞こえた。先生かと思って一瞬ぎくりとする。思わず声の方を見ると、一人の女子生徒がフェンスの向こう側で元気に手を振っている。先生じゃなくて、ほっとしたけど、リボンの色を見てはっとする。赤色のリボン。
『桜色の先輩』もさすがにそんな大きな声には気づいた。作業を中断し、女の子の方を見て、「あ」と小さな声を漏らした。スケッチブックをその場に置くと、ぱたぱたとその子の方へ駆けて行く。フェンス越しに何事かを話す二人。会話の内容まではわからない。けれど、女の子の方が少し怒ったふりをして、『桜色の先輩』がそれに何か謝っているみたいだ。しばらくしてから、『桜色の先輩』が戻ってくる。スケッチブックを拾い上げて、私に近づく。縁の近くで律儀にしゃがんで、私との目線の高さの差異を縮めた彼女は、柳眉を下げて言った。
「……ごめんなさい。友達と約束してあったの、すっかり忘れちゃってて。もう行かないと」
「あ……」
そう、なんですか。という声は尻すぼみになった。けれど、これじゃあ、彼女が行ってしまうのが寂しくてしょうがない子供みたいだと思って(いや、実際そうなんだけど! それを『桜色の先輩』にはばれたくない)私は無理に微笑んで、努めて明るい声を出した。
「えっと、じゃあ、続きを描く時には気軽に来てください。歓迎しますから!」
「ありがとう。でも、もうほとんど描き終わってて、後は彩色だけだから」
「そ、そうですか」
「うん、じゃあ、一年生さん。ありがとう。良い絵になりそうよ」
『桜色の先輩』は最後に「あなたも練習頑張ってね」と言って、友達が待つ方へ帰って行った。フェンスの戸を開けて、友達と合流した彼女は、朗らかに笑って去って行く。段々と離れていくその後ろ姿をフェンス越しにぼんやりと眺めて、その姿が完全に見えなくなった後も、余韻に浸るようにぼうっとした。
しばらくそんなことをして、プールに残るのが私一人きりだということを実感してから、私はざぱっとプールから上がる。私の身体から滴り落ちる水が、プールサイドの乾いた表面にじわりと滲み込んだ。
キャップをずるりと外す。はあっと吐息を漏らす。髪の毛の水分を簡単に絞って、私は静かに思う。
……名前、訊き忘れた。
しばらく冷静にその事実を顧みて、「…………」と押し黙り、それからガッと頭を抱えた。ああああっと心の中で絶叫する。
いや、何やってんの、私! バカじゃないかな、バカじゃないかな!?
ぽけーっと見惚れてる暇があったら、話しかければよかったのに! それで会話の流れでさらっと名前訊けばよかったのに! あーもー、ほんっと私ってばバカ曜だあ!
うああぁ……とフェンスに指を引っかけて、うずくまる。すっごく幸せな時間だったけど、同時にチャンスをふいにした感がすごい。
あんなチャンスもう二度とないかもしれないのに。私ってさあ、本当にさあ……。
そんなふうに自責の念に囚われていると、視界の端にそれは映った。
「……?」
コンクリートで出来たプールサイドに、ぽつんと残された水色の色鉛筆。
私はそれを拾い上げて、まじまじと見つめた。桜のマークが付いた割と有名なメーカーの色鉛筆。『桜色の先輩』が忘れていってしまったのだろうか。
「…………」
……もしかしたら、チャンスはもう少し続いているのかもしれない。
「……何、その顔。闇の儀式でもやったの?」
翌日、朝のバスでまた善子先輩と出会って、開口一番そんなことを訊かれる。
「単なる寝不足です……よーそろー……」
「そんな覇気のないヨーソロー初めて聞くわね……」
ふあ……と欠伸をして、隣に座ると、善子先輩は私の眼の下にクマを訝しそうに見る。
「遅くまで何やったのよ。魔道書の閲読? それとも魔界との交信?」
「勉強でも、友達との長電話でもないですよー」
「じゃあ……なんか、悩みとか?」
善子先輩は愛想のない顔つきを装いながらも、横目でこちらの様子を気にする。私は小さく笑ってしまった。
「悩みとかでもないです。まー、ちょっと……」
善子先輩が心配してくれるのは嬉しかったけれど、言葉を濁す。実際、悩みとはちょっと違う。
昨日、家に帰った私はずっと『桜色の先輩』が忘れて行った色鉛筆を眺めて、悶々としていたのである。これがあれば、会いに行く口実になる。それは本当に幸運なことなのだけど、問題は会いに行って、どう会話を展開させるかだった。多分、勝負どころになる。名前も知らない先輩後輩の間柄から、発展できるか否かの重要なターニングポイント。それで昨日は夜中遅くまで、『桜色の先輩』の教室を訪れて、色鉛筆を渡してからのシミュレーションを色々と考えていたのである。
……滑稽じゃないかとかは言わないで欲しい。こっちとしては本気も本気なんだから。学年が違うというディスアドバンテージがある以上、必死にならなきゃいけないんだ。
私の返答に、善子先輩は「ふうん」と何か読み取るような反応を見せる。けれど、彼女は私が本当に悩みを抱えているわけではないと把握してか、追及することはなかった。代わりに「そういえばね」と言った。
「あんたの魂の共鳴者」
「え? なんですかそれ」
「いや、だから、桜色の先輩とかいう人の話よ」
魂の共鳴者……。こんな中二な呼び名をつけられるなんて、きっと彼女は夢にも思っていないだろう。やっぱり名前がわからないと不便だなあと思い、そこから昨日何故名前を訊かなかったのかという自責と、いや今日こそは!という奮起を抱く。そんなふうに私が心情をころころ変えていると、善子先輩が言った。
「美術部の子に聞いたけど、そんな人はいないって」
「え?」
私は思わず善子先輩の方を見た。善子先輩は窓枠に肩肘をついて、こちらを見ていた。
「違ったんですか? あんなに絵描いてたから、てっきりそうだと思ってたんですけど……」
「ええ。桜色の髪をした子は部にいないって、同じクラスの子言ってたから」
「…………」
善子先輩の言葉の一部に、うん?と引っ掛かりを覚える。
「まあ、だから、美術部の子じゃないわね。でも、私も桜色の髪をした子なんて同じ学年で見たことないわよ? その人本当に二年生なの?」
善子先輩の質問に、「……あの、すみません」と小さく手を挙げて、待ったをかける。
「……私、桜色の髪だなんて言いましたっけ?」
私がそう言うと、今度は善子先輩が「え?」と疑問符を付ける。
「あんたいつも桜色の先輩って言ってたじゃない。だから、てっきり、髪の色が桜色なんだって思ってたんだけど」
「あー……」
これは思わぬ認識の齟齬だ。私が『桜色の先輩』と彼女のことを称していたのは、彼女が描いていたピアノの絵の桜色が強く印象付けられていたせいなのだ。それを説明し忘れていた。私は訂正するべく、口を開いた。
「いえ、『桜色の先輩』って呼んでたのは髪色がそうだからってわけじゃなくて……髪はワインレッドですよ」
「ワインレッド?」
善子先輩が付いていた肘を浮かせた。
「ええ、ワインレッドのロングヘアです」
「ロングヘア……」
「眼はちょっとツリ目で」
「ツリ目……」
「身長は結構高めですね。百六十ぐらいあるんじゃないかな……」
「高め……」
「ああ、あと桜色のスケッチブックをよく持ってます」
「…………」
善子先輩が押し黙った。その不自然な様子を、私は訝しく思って「善子先輩?」と彼女の顔を覗き込んだ。善子先輩はなんだか呆然としているようだ。いつもの「善子じゃなくてヨハネだってば!」という訂正も返ってこない。
どーしたんですか? ヨーソロー?と手を眼前にひらひら振ってみる。すると、善子先輩がやおら口を開いた。清流のようにすらりと流れ込むような『桜色の先輩』の声とはまたちょっと違う、耳に残りやすい善子先輩の声。その声でぽんっと青空から雹を落とすようにそれを言った。
「……それって、もしかして……リリーのことじゃない?」
「……はい?」
…………。
驚天動地。まさかまさかの『桜色の先輩』が善子先輩の友達だったという事実が判明したことを、浦の星女学院行きのバスの中から報告します。
「友達、だったんですか……?」
唖然として訊くと、善子先輩は何故だか「え、いや、と、友達っ?」と焦ったような声を出した。顔を赤くさせて、しばらく固まった後、動揺を誤魔化すかのように、額に人差し指と中指を当てるポーズを取った。
「よ、ヨハネとリリーはそのような陳腐な関係性ではないわ。そう、言うなれば、対等な契約者。魔界の侵略に脅かされる、この混沌とした現世で互いの利害を一致させたが故の協力かんけ――」
「友達なんですね」
ずいっと身体を近づけて、詰問するように問えば、善子先輩は「ち、近いわよ!」と身体をのけ反らせる。じぃ~~っと逃さないように顔を覗き込むと、善子先輩は、目線を明後日の方向に向けて、口許を気恥ずかしそうにむごむごさせる。これだからリア充はぁ……などというよくわからない呟きが小さく聞こえた気がした。
「友達なんですね?」
私が再度問うと、善子先輩は「っ」と言葉を詰まらせた後、精一杯虚勢を張るように腕組みをして言った。
「ま、まあ、そういった表現も出来るんじゃないかしら? 下界においては」
何を恥ずかしがっているのか、よくわからなかったけど、要するに友達で合っているらしい。
念のため、善子先輩の言う「リリー」という人が、『桜色の先輩』と同一人物であるか、さらに確認し合ってみる。バレッタを付けてる? ――イエス。眼の色は琥珀色? ――イエス。右前髪に髪留めをしている? ――イエス。……etc
そういったように確認し合った結果、「リリー」さんが『桜色の先輩』で間違いないとの結論に至った。
善子先輩が気の抜けるような、得心するような、何とも言えない吐息をついた。
「……あんたの魂の共鳴者がリリーだったなんてねぇ」
「私としては、善子先輩が『桜色の先輩』と友達だったってことの方が驚きですけど。なんで気づかなかったんです?」
「いやだって、私が知ってるリリーと全然違う印象言うんだもの」
私が言った『桜色の先輩』の印象? 私は頭の中に『桜色の先輩』の姿を描いてみる。
――桜吹雪の中でこちらに背を向けるようにして立つ彼女。風が吹いて、滑らかな髪がさらさらと流れている。振り返る。見目麗しい顔立ち。透明感のある肌。纏う雰囲気は清廉としている。彼女は髪を耳にかけ、上品に笑う――……。
「綺麗で、大人っぽくて、お淑やか?」
私が頭の中で描いた『桜色の先輩』の印象をそのまま口にすると、善子先輩は「いやいや」とばかりに手を振った。
「あの子結構、子供っぽいところあるわよ? ピーマン食べれないし、犬を怖がるし」
……む?
「自分の世界に入っちゃうと、他のこと忘れちゃうし。授業中もよくぽーっと窓の外眺めたりして、先生に注意されるし」
……むむ?
「ああ、あとあの話。四月にね、リリーが海辺でぼーっと立ってたのよ。それで何してるのかって訊いたら、『絵を描くために海の色を見てるの』って言って、やっぱり芸術気質なんだなって思ってたら、いきなり『ちょっと泳いでくるね』って制服脱ぎだしたのよ。下に水着は着てたけど、あれには驚いたわ」
勿論、止めたわよ。四月の海に入るなんてバカなんだからって可笑しそうに言う善子先輩に、なんだろうこう……じわぁっと変なものが胸に広がった。私が自分の中の判断がつかない代物に戸惑っていると、「あ、そうそう」と善子先輩が言った。
「言い忘れてたけど、リリーっていうのはあだ名でね、本名は――」
「っ」
善子先輩がそれを言おうとした瞬間、私は咄嗟にぱしんっ、と善子先輩の口を両手で塞いだ。
「…………」
「…………」
何が何だかよくわからないように眼を白黒させる善子先輩。そんな彼女を見て、私はようやく胸のわだかまりが何なのか判断が付いた。
ああ、これ……嫉妬みたいなものだ。
私の知らない『桜色の先輩』の話を、他の人から聞くのが嫌なんだ。
元々、善子先輩に『桜色の先輩』の話をしたのは、人物に心当たりがないか尋ねるつもりだったからなのに、どうしてだろう。実際に善子先輩の口から彼女のことを聞くと……もやもやする。ちょっと苦い。なんかやだ。
『桜色の先輩』の名前を初めて聞くんだったら、綺麗に澄んだあの声で聞きたい。あの微笑みを正面に見ながら聞きたい。そう思ってしまったんだ。
自分でも子供じみた感情だとわかるそれに、顔を俯かせていると、「……ふがっ……もがっ」と善子先輩が口をもごつかせる。生ぬるい息が手にかかる。
「あ……ご、ごめんなさい」
慌てて、手を離す。口が解放された善子先輩は、眉尻を微妙なものにして私を見た。なんだか少しだけ気まずい空気が流れる。
その空気を取り払う間もなく、ピンピン、と音が鳴る。窓の景色を見ると、もう学校だった。間もなくして停車した。「……とりあえず降りましょ」と善子先輩が腰を浮かせた。窓際に座る善子先輩は私がどかないと通路に出れない。私も急いで立ち上がった。
バスから降りて、善子先輩がその場に止まった。同じバスに乗っていた浦女の子たちがぱらぱらと校門をくぐっていくのを見送った後で、
「……あー、なんか、悪かったわね」
と、謝った。善子先輩が謝ることじゃないのに。
私はなんと言ったらいいか、わからなくなる。ローファーのつま先を見つめながら苦悩していると、ヨハネ先輩はぽつりと言った。
「……ヨハネのクラスは2‐Aよ」
「え?」
その言葉の真意はすぐにはわからなかった。きょとんとして、善子先輩の顔を見ると、“先輩”の顔つきをしていることに気づく。善子先輩は言葉を続けた。
「昼休みは教室にいるわ。特に今日はそうね、ヨハネの契約者と魔界対談でもしたい気分だわ。だから、まあ、今日うちのクラスに来れば会えるんじゃない?」
誰とは言わないけど、と付け加える。私は善子先輩が何を言わんとしているか、理解した。「あ……」と小さな声が漏れる。
善子先輩がふっと笑う。いつものニヒルな笑い方じゃなくて、すごく優しい笑みだった。胸に広がっていたシミみたいなものが、温かなもので上書きされる。
――ああ、やっぱり善い先輩だ。善子先輩。
私は口許に笑みが零れるのを自覚した。嬉しくなって、ぴしっと敬礼した。
「……了解であります! 善子上官!」
そうすると善子先輩はいつもの返しを繰り出す。
「善子じゃなくて、ヨハネ!」
それがまた嬉しくて、楽しくて。
「善子先輩善子先輩善子先輩!」
「この……!」
連呼すると、善子先輩が私の首をロックして技をかけた。けど、善子先輩も笑っているし、全然痛くもない。
「こーはいのくせに。なーまーいーきーなー!」
「きゃー!」と私は悲鳴にならない悲鳴を上げる。
停留所の前で私たちはじゃれ合う。
学年が違っても、ここまで仲良くなれるということが、私には素直に嬉しかった。
昼休み。花丸ちゃんとルビィちゃんとお弁当を一緒に食べた後(二人には「なんかそわそわしてるけど、どうしたの?」なんて言われた)、二人に断りを入れて、二年生の教室に足を運んだ。
一年生フロアの一つ下。廊下を歩く人全員が赤いリボンをつけている中で、私のオレンジ色のリボンはやっぱりちょっと浮くみたい。
途中で水泳部の先輩とすれ違う。「おー曜じゃん。どしたー?」と声を掛けられたので、「潜伏任務であります!」といつもの調子で答えると、先輩はからからと笑い声を上げた。「そーかいそーかい、まーがんばんなー」と頭をくしゃくしゃに撫でられる。上級生の階で少しだけ萎縮していた気持ちが、先輩のおかげで解れた。
そんなこともありつつ、目的の2‐Aの教室にたどり着く。
そおっと、廊下から中を覗いてみる。教室の構造は一年生のものとほとんど変わらないのに、漂う雰囲気からして、なんだか違う。上級生の教室って感じがする。中にいるのは、ほとんどが知らない先輩たちだ。ざっと視線を巡らせる。
すると――いた。
ダークブルーの髪とワインレッドの髪。善子先輩と『桜色の先輩』だ。善子先輩は机に足組みしながら腰掛け、『桜色の先輩』と対談している。『桜色の先輩』はそんな善子先輩に微笑みながら、相槌を打っている。二人は昼休みの二年生の教室の中に違和感なく溶け込んでいた。
私は手に持った水色の色鉛筆をきゅっと握りしめた。……全速前進、ヨーソロー、と心の中で唱える。小さく深呼吸して、戸口の影から出る。
私が声を出して呼び出しをかける前に、善子先輩がいち早く気づいてくれた。善子先輩は私の姿を認めて、「来たわね」とばかりに口角を上げた。そして、『桜色の先輩』に何事か話しかけ、私の方を指差した。『桜色の先輩』がその指差しを辿って、私を見た。琥珀の瞳と一直線で結ばれて、どくん、と心臓が高鳴る。
『桜色の先輩』が小首を傾げた。さらりと揺れる髪。善子先輩がまた何か言う。促したのだろうか。こくりと頷いて、『桜色の先輩』が席を立ち、私の方へ来た。
出入りの邪魔にならないように廊下に出て、私と向き直ると、「こんにちは、水泳部の一年生さん。昨日はありがとうね」と言った。上級生の教室を訪れてきた下級生を必要以上に緊張させないように気遣う優しい声音。
「今日はどうかしたの? 誰かに用事? 水泳部の子は生憎出てるみたいだけど……」
ちらりと教室の方を振り返る『桜色の先輩』。私はそんな彼女に、小さく息を飲み込んで、名指しする。
「す、水泳部じゃなくて、先輩に、です」
「私?」
思いがけないように訊き返す。
「こ、これです!」
私はまるでラブレターを渡すかのように、両手で色鉛筆の両端を持って差し出した。『桜色の先輩』は眼をちょっと丸くして、「これ……」と呟く。
「昨日、プールサイドに落ちてて……」
「そっか、プールに忘れちゃったのね。これをわざわざ届けに来てくれたの? ありがとう。昨日、家に帰ってから、失くしたのに気づいて困ってたんだ」
『桜色の先輩』は朗らかに笑って、受け取った。ひとまずほっとする。いや、しかしここからだ。ここから会話を展開させて、距離を縮めなければ。
「せ、先輩って美術部なんですか?」
色鉛筆を優しい手つきでなぞっていた彼女に、質問する。いささか唐突感はあったかもしれないが、彼女は「ええ、そうよ」と答えてくれた。
「昨日のは部活って言うより単なる趣味なんだけど」
「よく、中庭とかでスケッチしてますよね」
言ってから、あれ、これあなたのことをいつも見てましたってことにならない?と焦るけど、『桜色の先輩』はちょっと恥ずかしそうに頬を染めて「あ、見られてたんだ……」と言った。その照れ顔に私はよろめきそうになる。……可愛すぎる。曜ちゃん号、沈没寸前。
だけど、まだだよ。まだここで、沈むわけにはいかないんだ。
「い、いつも、どんなの描いてるんですか」
「風景画が主だよ。静物画もよく描くかな」
静物画っていうと、確か動物以外の動かないモノを対象にした絵だっけ。私はあの春のピアノの絵を連想した。そういえば、と思いつつ訊いてみる。
「……春のピアノの絵はもう完成したんですか?」
「春のピアノの絵?」
『桜色の先輩』は小首を傾げてオウム返しした。あ、しまったと思う。けれど、すぐに「あ、もしかして、あれのことかな」と要領を得た顔つきになる。幸いにも、いつどこで見たのかという追及に変わることなく、答えてくれた。
「あの絵はね、文化祭に出す予定のものなの。四季の連作の一つなのよ」
文化祭に……ということは文化祭で美術部の出展を見に行けば、あの絵が見れるということ?
それを認識した途端、ぐんっと私の中の何かのモーターの針が振り切った。
「っ、見に行きます! ぜったい見に行きますから、先輩の絵!」
私はがしっと『桜色の先輩』の手を掴んで、迫るように叫んだ。彼女は少し呆けたように私を見た。あ……と思う。少し興奮しすぎた。おまけにちゃっかり手を握ってしまっていることに気がついて、私は「わあっ、ごごごめんなさい!」と慌てて手を離す。
柔らかかった……じゃない。すべすべしてた……でもない。うわ、どうしようこれ。セクハラ? セクハラになっちゃった? ほとんど初対面の子に手ぇ握られちゃったんですけどー、気持ちわるーいとか思われちゃった!? うわああ、どうしよおお……。いや待って。『桜色の先輩』がそんなこと言うはずないよ。仮にそう思ったとしても、もっと上品に! オブラートに包んで言うはずだよ! 『桜色の先輩』なら! たとえば、こう「我が聖なる右手に触るのは止しなさい。あなたには不浄なる左手で充分でしょう」とか。いやこれ違う。善子先輩だ。いや、善子先輩でもないか。
そんなふうに、自分でも明らかに混乱しているとわかる状態に陥っていると、不意に、ふふっと小さな笑い声が聞こえた。驚いて顔を上げると、『桜色の先輩』が笑っている。私と目が合うと、彼女は「……変な子だね、きみ」なんて言った。
一瞬、何が何だかわからず「…………」と思考停止した私は、次の瞬間ぶわっと顔を熱くさせた。
へへ変な子って言われた。変な子って言われちゃった。うわ、うわ。なにこれ、なにこれ。ちょっとというかすごく嬉しい。よくわかんないけど、なんか嬉しい。
私がさっきとは違う種類の混乱に見舞われていると、『桜色の先輩』はふわっと笑い方を変えて言った。
「うん、是非来て。私の絵、見てほしいな」
その微笑みに。私はまたやられて。
でも、同時になんだか、今なら行けそうな気がした。
この会話の雰囲気で、名前を――。
私がそう思って、口を開いた時。がしっと襟首を背後から掴まれた。と、同時に「わーたーなーべー?」といういささか不穏なニュアンスを含んだ声が降りかかる。
私と『桜色の先輩』の二人きりみたいだった世界から、急に元の世界に戻された気分。
折角、今いいところだったのに。邪魔しないでもらいたい。そんな感じでちょっと不機嫌に振り返ると、そこには水泳部の顧問の先生がいた。私は打って変わってぽかんとする。
「せ、先生……?」
「ここにいたのか。探したぞ。お前、ちょっと来い」
「えっ? い、今ですか? いや、今はちょっと――」
私の青春がかかった一大ターニングポイントなのだ。どんな用かは知らないけれど、後にしてもらいたい。しかし、何故かにっこりと怖い笑みを浮かべた先生は、私の耳元で、
「昨日。プール。無断使用」
という三単語をぶつ切りに囁いた。
「…………」
無言になる私。そんな私に先生は邪悪に笑いかけた。
「さ、行くぞ」
「…………」
ずるずると首根っこを掴まれたまま、ドナドナされていく私。きょとんとした『桜色の先輩』が遠ざかっていく……ああ……。
教室からひょっこり首だけ出した善子先輩が、そんな私を見て一言、「……不幸ね」と言った。
いや、善子先輩には言われたくないです。
「……はあ~~~」
デッキブラシでプールサイドをしゃこしゃこと磨きながら、私は深い溜息をついた。
水泳部の顧問の先生に、プールを無断使用してしまったことがバレた私は、その罰として、プール掃除を言い渡されてしまった。とは言っても、部活の練習があるから、プールの水を抜いての本格的な掃除をするわけにはいかず、言いつけられたのは主にプールサイドの水掃除や観客席の落ち葉の掃き掃除ぐらい。それが終わったら、部活に合流していいと言われているので、『桜色の先輩』とのひと時をこれで買えたと思えば、全然安いくらいだけど……如何せん、呼び出しのタイミングがあんまりだ。先生に職員室まで強制連行され、そこで昼休みが終わる直前までお説教。放課後も、私が逃げないようにするためなのか、直々に教室まで参上して、私を連れて行った。そんな感じで『桜色の先輩』のところへ行く隙はついになかったのである。
「はあああ~~~……」
また深い溜息が出る。
あとちょっと。あとちょっとだったんだよ。あとちょっとで『桜色の先輩』の名前を訊けたんだ。それなのに……。
私はちらっと向こうのプールサイドで指導の声を張り上げる顧問の先生を見た。鬼教官……。ぼそっと心の中で呟く。今までどんなに厳しい練習を受けても、そんなことはちっとも思ったことはないけれど、今日のは酷い。酷すぎる。せめてあと三分遅れて来てくれていたら……。
そんなことを考えていると、先生がこっちに眼を向けたので、ぎっくぅと心臓が跳ねた。「おらー! 渡辺、サボるなー!」と叫んでくる私は慌てて、デッキブラシを動かす。
先生はしばし、じーっと監視するように見てきていたが、ひとまず真面目にこなす私の姿を見て、他の子の指導に戻っていく。先生の視線が外れて、私はほっと息をつく。
と、プールの縁のところでにやにやと私を見上げてくる人を見つける。今日の昼休み、二年生の階で会った先輩である。なんとなく、その笑みにいじられそうだと感じる。罰掃除を課せられたことをからかられるのかと思ったが、そうではなかった。
「曜さあ、二年の子に告ったんだって?」
いきなりそんなことを言ってくるから、私は口に何にも含んでいないのに、むせそうになった。
「なっ、な、なんですかそれ!?」
「おー? その動揺ぶりはぁ? マジってことかあ?」
「ち、違います! 違いますから!」
必死になって否定するとこがますます怪しいなあ、なんて先輩は言う。いや、違いますから、本当に違いますから。動揺したのは、「二年の子」ってキーワードで思わず『桜色の先輩』のことを思い浮かべて、その後で「告ったか?」なんて爆弾発言されたからだ。おかげで火種にオイルをぶっかけられたような心境になった。
「て、ていうか、なんですか、その突拍子もない話!?」
「いやあ、今日めっちゃ噂になってたよ。一年の子が二年生に廊下で人目もはばからずにアプローチかけてたって」
そっ……それは嘘とは言えない……けど!
一瞬の動揺で硬直した私に、先輩はにやにやする。
「なるほどねー、潜伏任務とか言ってたけど、そういう青っぽい作戦だったわけねえ。いやー、若いっていいねえ」
先輩だって、一歳しか年違わないじゃないですか!?
そう返してやりたいのは、山々ではあったけど、そんな反駁は全く意味のないものだとわかっているので、私は最初の爆弾発言の否定だけに努めた。
「告ってないです! ともかく告ってないですから!」
私がきゃんきゃんと騒いでも、先輩は何やら含みのある笑みで「ほー、ふぅーん、へー」と言うばかりで、全く効果がない。
私が先輩の誤解(?)を解くためにどうするべきかと頭を回転させていると、「渡辺ぇ!」という顧問の先生の声が届いた。先輩が「あっ、やば」と潜水し、スイーッと戦線撤退していく。ちょっ、ひどくないですか!?
一人残された私は、またサボってるな!?なんてどやされるかと、びくびくしながら振り返る。
だけど、その先に予想外の姿を見つけて、軽く眼を見開いた。
顧問の先生はいつの間にか、プールの出入り口のところへ移動している。小さく見える先生の姿。その横に立つのは――『桜色の先輩』。
え、なんで!?
驚愕していると、『桜色の先輩』は先生にぺこりと頭を下げて、ぱたぱたと駆けない程度の早歩きで私の元にやってきた。何故かジャージ姿だ。
え? あの、どうして?と、ここにやってきた理由を問いたいのに、口をぱくぱくとさせることの出来ない私に、『桜色の先輩』は少し申し訳なさそうな顔をしつつ、微笑した。
「先生にバレちゃったみたいだね」
「あ……」
「私もやるよ。プールサイドと観客席の方だけでいいんだよね?」
私は彼女がジャージ姿でここに来た理由を理解した。どうやら、私が昨日のプール無断使用のおかげで罰則を受けているということをどこからか聞いて、同罪の身として出頭して来たらしい。
彼女がそうして来てくれたことは死にそうになるくらい嬉しかったけど、私は手をぶんぶんと振る。
「いや! 大丈夫ですから! 私一人で全然!」
こんなことを彼女にやらせて、その綺麗な指が水荒れにでもなったら大変だ。
必死に遠慮しようとしたけれど、「だーめ」と『桜色の先輩』は窘めるような口調で言って、さっと私の手からデッキブラシを奪ってしまう。それから、口許に細く白い人差し指を一本立て、にこりと笑った。見る人全てを魅了させてしまうような笑み。
「共犯者、だからね」
『桜色の先輩』は少し悪戯っぽく言った。
キョウハンシャ。
今ほどこの言葉が蠱惑的に思えたことはない。
てゆうか『桜色の先輩』。その仕草。その笑い方。ちょっとヤバすぎです。狙ってやってるんですか?
結局、私は。
「…………アリガトウ、ゴザイマス」
ぷしゅう……と頭から蒸気を出して、彼女の申し出を受けるしかなかった。
真面目に掃除を行うこと、約一時間。ぴかぴかになったプールサイドと観客席を見回して、ほうっと吐息をつく。
「綺麗になったね」
『桜色の先輩』が私に微笑みを向けてくれる。
プール掃除が終わっての達成感はある。彼女が私に笑いかけてくれるのも、すごく嬉しい。けれど、ただ一点だけ私の心を曇らすことがある。
「…………」と押し黙る私に、『桜色の先輩』は「どうしたの? 一年生さん」と尋ねる。
……わかるでしょうか。
まだ『桜色の先輩』なんです。名前、まだわかってないんです。
…………。
いや、違うんだよ! 一時間一緒に作業してて何やってんだよとか責めないで! 弁解を聞いて欲しい! 話しかけようとしたんだよ! タイミングを伺って何度も名前を訊こうとしたんだよ! その度にさあ! 顧問の先生に「口動かしてないで、手動かせ!」とか怒鳴られたりさあ! 先輩に意味深なにやにや笑いを向けられたりさあ! 色々邪魔が入っちゃったんだって! だから、へたれとか言わないで! これでも曜ちゃん、頑張ったんだよ!
ああ……でも、結果がなければ、どんな頑張りも無に等しいよね。いや、もういいよ。ええ、そうです。私はへたれです。気になってる先輩の名前一つ満足に訊くことの出来ないへたれです。どうせ私はヨーソローです。
虚ろな瞳でよーそろよーそろ唱えていると、本格的に心配したらしい『桜色の先輩』が私の顔を覗き込んだ。
「あの、大丈夫?」
そう言って、私の額にそっと手を当てた。少しひんやりとした手のひらの感触に、心臓が口から飛び出しそうになった。
「もしかして、疲れちゃった? 具合悪い?」
眉尻を下げて、そう尋ねてくる彼女に私は固まった。近い。過去最大級に近い。三十センチ足らずの距離に、『桜色の先輩』の顔がある。長い睫毛や、すっと通った鼻筋までしっかり見え、蜂蜜のように柔らかな色合いの瞳に吸い込まれそうになる。やばい、体温が上がってく。
「熱はないみたいだけど……あれ、顔が赤く――」
私はしゅばっと飛び退いて、距離を取った。突然のことに『桜色の先輩』は眼を丸くした。私は地球防衛に努めてくれる銀色宇宙人のジュワッチ!みたいなポーズを取って、叫ぶ。
「だ、大丈夫です! 回復したであります! プールサイド100周出来るくらいに元気になりました! イエッサー!」
「……そ、それは危ないからやめようね」
ちょっと引き気味に言う『桜色の先輩』。ああああ、何やってんの私ぃいい。
というか、こんなことをやってる暇があるなら、名前!
早くしないと、『桜色の先輩』帰っちゃうだろうし、私も先生にさっさと練習に入れ!って怒られる。今、プールの中で平泳ぎしながら、こっちをにまにま見てくる先輩の姿はこの際、認識外へと追いやる。
名前を訊く! 簡単! シーモンキーだって出来ること!
先輩の名前を教えてください。これを言えばいい。
先輩の名前を教えてください。先輩の名前を教えてください。先輩の名前を教えてください。呪文のように唱えて、私は意を決し、口を開く。行くよ!
「先輩のなでゅっ――」
噛んだ。
「…………」
「…………」
痛い。舌も痛いけど、心も痛い。口許を手で押さえて、ふるふると震える私は、『桜色の先輩』にどう映っているのだろう。考えたくもない。
「えっと……だ、大丈夫?」
うわー、気遣いがメガ盛りでトッピングされた声。うわー。なんかもーいたたまれない。
いっそ、このまま羞恥に身を任せて、プールに飛び込んでしまおうかとも思ったのだけれど、濡れた体操着の後始末に困るので断念。せめて、彼女にこの情けない顔を見られないように、後ろ向きに体育座りする。そんな私に『桜色の先輩』もなんて声を掛けるべきか迷っているみたいだった。
けれど、今日はとことんついていないらしい。顧問の先生がぺたぺたと足音を鳴らして、やって来る。それは終了の合図だ。
「おー終わったか。じゃあ、お前ら、部活戻っていいぞ。これに懲りたら、プールの無断使用なんてしないように」
「あ……はい。申し訳ありませんでした」
『桜色の先輩』が礼儀正しく頭を下げた。舌の痛みで物を言えない私も無言でそれに倣う。
……ああ、終わっちゃった、と思う。
神様がくれた三回目のチャンスだったのに。私ってば本当に情けない。
もう、文化祭まで待つしかないのだろうか。美術部に絵が展示されれば、それと一緒に作者名も明記されるだろう。 彼女の名前を知るには、そこで知るしかないのだろうか。
文化祭まで、あと一ヶ月。長いなあと思う。そして、出来れば『桜色の先輩』の口から直に聞きたかったなあと思う。
でも、もうタイムアップ、だよね――
私がそう諦めて、瞼を下ろそうとした時。
ブラシを所定の位置に戻して、帰り支度を始めていた『桜色の先輩』が「あ、そうそう」と思い出したように言った。
「一年生さん。もしよかったらなんだけど、部活が終わった後、時間あるかな?」
「――えあ?」
未だ舌をじんじんとさせた私はなんとも変な声を出してしまった。
美術室に来て欲しいの。
『桜色の先輩』はそう言った。
バイバイと手を振って去っていく姿を見送って、私はぽかんと一人立ち尽くした。プールの中から河童のように鼻から上だけを出して、状況を見守っていた先輩に、言われた言葉が信じられなくて、尋ねてみる。
「……今、あの人、手術中に切手欲しいのって言いました?」
そっちの方がよっぽど現実的に思える言葉だったけど、
「いや、美術室に来て欲しいの、でしょ」
と、先輩は否定する。
なるほど。ビジュツシツニキテホシイノ、か。
何語だろ。ドイツ語あたりで、「舌、お大事に」とかっていう意味になるのかな。
「いや、日本語に決まってんじゃん。そのまんまの意味」
まるで人の心を読んだかのように、先輩が突っ込みを入れる。
びじゅつしつにきてほしいの。ビジュツシツニキテホシイノ。美術室に来て欲しいの?
「…………」
「曜ー?」
え、つまり、それってお呼ばれされたってこと? 『桜色の先輩』に? 美術室へ? 私が?
「……メーデー」と私は思わず呟く。
緊急事態です。曜ちゃん号にご乗船の皆様、速やかに避難してください。落ち着いて、焦らず、救命ボートに乗り込んでください。この船はまもなく沈没致します。繰り返します。緊急事態です……。
一気に混乱の渦中に落とされた私の様を見て、先輩が「春だね~」と言いつつ、スイ~ッと泳いで行った。
いや、今は秋ですよ。という平凡な突っ込みも思いつかず、私はメーデー、メーデー、メーデーと一人唸ることになる。
部活終わりまで、約二時間。『桜色の先輩』との約束の時間まで、熱した頭を冷やすためにプールでぶくぶくと溺れる猶予があったのは、幸いだった。
出来れば、もう少しじっくり頭を冷やしていたかったのだけれど、時間は私一人のために遅延してくれることはなく、一分できちんと六十秒が経過し、それが積み重なって、部活はあっさりと終わった。ミーティング終わりに先輩から「気合入魂!」とか言われながら、ばっしーん!と背中を叩かれ(一人の先輩に会いに行くだけなのに何故そんなことを、という疑問は通じない。これが体育会系のノリだ)、痛みでひりひりとさせながら、私は美術室のある南棟三階へ急いだ。混乱状態は微弱ながらまだ続いているけれど、ともかく『桜色の先輩』を待たせるわけにもいかない。
教室の照明がことごとく消され、付いているのはもう廊下の明かりだけだ。それも見回りの先生が来て、まもなく消してしまうだろう。
秋の日は釣瓶落とし。半年前のこの時間なら、綺麗な夕焼け空が窓から眺められたものだけど、今はもうどっぷりと日が暮れて、音のない闇が学校の外に広がっている。
ぱたぱたと廊下を走って、美術室へとたどり着く。
取っ手に手をかけたところで、あ――と息を呑む。
先日とは異なり、戸口のガラス部分を覆って中を隠していた黒いカーテンが開けられている。おかげで私は美術室に入る前に、彼女の姿を見ることが出来た。
周囲がすっかり暗闇に落ちた中で眩いばかりに照明が輝く部屋の中、彼女は一人居残って絵を描いていた。イーゼルを置き、椅子に腰掛け、絵筆を取って、夢中になっている。微かに開かれた淡い色合いの唇。戸は閉ざされているため、音はこっちまで届かない。けれど、私の脳はあの日のハミングを再生させた。
『~~~♪』
優しく響くあの歌声。
私はあの春の日の情景を今に重ねた。
勿論、違うところは多くある。季節の違い、ひいては夕焼け空と夜の景色の違い。描いている絵もあの桜色が特徴的なピアノの絵ではないし、第一ここは音楽室ではなく美術室だ。
彼女の前にグランドピアノはなく、代わりにあるのは壁のあちこちに立てかけられたイーゼルと、照明の光を反射させる銀色の流し台。流し台の上には絵の具がついた水入れが置かれ、さらにその中には何本もの絵筆が乱雑に差し込まれている。
音楽室と比べて、お世辞にも綺麗に整えられているとは言えない。けれど、やはりどうしてか、あの時と同じ印象を抱くのだ。――立ち入ることのはばかれる聖域のようだ、と。
彼女に呼ばれてここまで来たということも忘れて、私はしばしじっと見守った。
すると、いくらか経った後、何か感じ取ったように、『桜色の先輩』が顔を上げる。そうして私を見た。ぎくっと心臓を跳ねさせた私に、彼女は小さく笑った。「おいでおいで」と言うように手招きする。私は悪戯が見つかった子供のような気持ちになって、ちょっと誤魔化すようにぎこちない笑みを浮かべて、入室する。
「えっと、ごめんなさい。お待たせして」
「ううん。私も絵描いてたから、退屈じゃなかったよ」
言われて、私は今一度絵画の方に眼を向けた。『桜色の先輩』が椅子をずらして、見えやすいようにしてくれる。
その絵は海の中を泳ぐ人魚の絵だった。人魚はこちらに背を向けて、泳いでいる。顔は見えない。光沢のある水色の下半身。鱗の一枚一枚まできめ細やかに描き込まれている。ウェーブのかかった髪は銀色で、水の中で美しく広がっている。装飾品は精緻な意匠が凝らされた貝殻のブレスレッドに珊瑚の髪飾り。それが人魚の美麗さをさらに引き立てる。人魚の周囲には大小さまざまな水泡が描かれ、それが水に入った時の、あのこぽこぽという音を思い浮かばせる。遠ざかっていく人魚に寂しさを感じないのは、おそらく背景のせいだろう。横長のキャンバスは、左下の部分が青色に近い色合いまで濃く色を重ねられ、逆に右上の部分が白が混ざるくらいに淡くなっている。その色の変化がまるで人魚が水面を目指しているように思わせるのだ。
「綺麗な色合いですね。これって……夏の絵、ですか」
四季の連作を文化祭に出展すると言った話を思い出し、訊いてみる。『桜色の先輩』は首肯した。
「ちょっと季節外れだけどね、これが最後の一枚。今は仕上げの段階なんだ」
「なんていう題名なんです」
「題名? そっか、題名……考えてなかったなあ」
彼女は腕組みをして難しい顔で悩み始める。軽い気持ちで尋ねたことなので、そこまで悩まれるとちょっと申し訳なくなる。質問を撤回しようとした時、『桜色の先輩』の顔がふっと何か思いついたようになる。ぽつりと言った。
「――恋になりたい人魚姫」
「え?」
「どうかな、そんな題名」
恋になりたい人魚姫。私は絵を見やって、舌の中でその題名を転がしてみた。すうっと口溶けよく馴染む気がした。
地上を目指す人魚。彼女はきっと誰かに会いに行こうとしているのだろう。それはまだ会ったこともない人かもしれない。けど、彼女は切望してやまない。運命の相手と出会いたいと願うのだ。恋になりたいと願うのだ。たとえ住む世界が違う人だとしても……。
「すごく……良いと思います」
私がそう言うと、『桜色の先輩』は「ほんとう?」と破顔した。大人びた彼女の子供のように無邪気な笑顔に私は動揺した。これ以上あの絵の話をしていると、あの人魚に自分を投影してしまいそうな気がしたので、話題を変える。
「そ、それより、私に何か用だったんですか?」
「あ、ごめんね、忘れちゃってた」
『桜色の先輩』はそう言って、椅子から立ち上がると、授業用のデスクの一つに向かった。戻ってきた彼女は、私に一枚の紙を差し出した。スケッチブックから切り取ったものらしい。
「これって……」
「昨日のお礼と今日のお詫び。今朝の時点ではまだ仕上がってなかったんだけどね、あなたが色鉛筆を届けてくれたおかげで、今日描き終わったの」
私は言葉を失って、その絵を見つめた。
その絵は、おそらく昨日彼女がプールで描いていた絵だ。
描かれているのは、一人のスイマー。水しぶきを上げながら、クロールした一瞬の場面を切り取っている。絵には躍動感、生命力に溢れながらも、色鉛筆の優しいタッチが、それを過激なものにしない。ちょうど息継ぎのタイミングで、少し癖のある髪とレーンの先を見据える瞳が片側だけ見える。その色はアッシュグレーとアクアブルー……。
私はばっと顔を上げた。
「こ、これって、わ、私ですかっ?」
「ええ」
『桜色の先輩』はにこやかに頷いた。
私は彼女の顔と手元の絵を交互に何度も見返して、口をぱくぱくさせる。
「あ、もちろんいらなかったら、全然捨ててくれても――」
「そんなこと絶対しませんよ!! 家宝にします!」
『桜色の先輩』が食い気味に返した私にちょっと気圧されながら「家宝ってそれはさすがに……」などと何か言ったようだけど、生憎私の耳には入ってこなかった。
すごい。『桜色の先輩』から絵貰ってしまった。しかも、私がモデルの絵だ。こんな嬉しいことはない。
感激に満ちた思いで、絵を眺める。私が鑑賞に耽ける間、『桜色の先輩』は黙って私を見守っていた。
やがて、私はほうっと感無量な吐息をついた。まだまだこの絵に浸っていたいのは山々だけれど、それは帰ってからにしよう。
「いや、あの、なんというか、身に余る幸福です」
「身に余るって……大げさよ」
「だって、昨日のお礼って言っても、そんな大したことしてませんし……」
プールに誘ったのも、色鉛筆を届けたのも、下心あってのこと。彼女のためというより、自分のためというのが実際のところだ。だから、彼女にお礼を言われるようなことではないのだ。
彼女は優しいから、私のそんな下心には気づいてないだろう。私が純粋な善意でやったことだと思って、彼女の方こそが善意で、この絵を私に渡してくれたのだろう。それがちょっと申し訳なく思えてしまう。
そういった気後れから発した言葉に、『桜色の先輩』は「違うよ」と返した。いつになくすぱっとした口調。その声にやけにはっきりとした心意が籠っているようで、ちょっと視線を逸らし気味になっていた私は、驚いて彼女を見返した。彼女は口調とは対照的に春風のように柔和な表情をしていた。
「ごめんね、昨日のお礼と今日のお詫びって言ったけど、それちょっと嘘。私ね、あなたにもう一つお礼を言わなきゃいけないことがあるの」
嘘? もう一つお礼? 首を傾げると、彼女はくすりと笑って、窓際へ移動し、ちょいちょいと私を呼んだ。彼女に従って、同じように窓際に立つ。
校舎の中と外とで光度の差があるから、窓はまるで鏡のようになって私たちの姿を映し出す。そこに映る『桜色の先輩』と私の姿に、美術室というほとんど私に関わりのない空間で、彼女と二人きりでいるという事実を再認識させられる。気恥ずかしさや緊張感がぶり返しそうになった私は、窓にこつんと額を当てて、窓に映る自分たちの姿から外の景色に視線の焦点を変えた。
三階からの景色はさすがに高い。これが昼間なら、向こうの方に駿河湾と富士山が見えるのだけど、こんなに日が落ちては、空と海の境界線も判然としない。代わりに民家の明かりがぽつぽつと光っている。その光景は地上の星空のようだ。
けれど、彼女はこの景色を私に見せたかったのだろうか。私が『桜色の先輩』の方を見ると、彼女は校舎のすぐ下を指差しした。その先はほとんど真っ暗で何も見えない。けれど、私は知っている。南棟の裏側、そこにあるのは――
「……ここからだと、ちょうどプールが階下に見えるんだ」
『桜色の先輩』は静かな声音で言った。私がその言葉の意味を考える前に、彼女は指を下ろし、スカートの前で手を組んで、言葉を続ける。
「夏休みの間ね、美術部も文化祭の出し物制作のために部活をやるの。でも、私、夏をテーマにした絵画にちょっと行き詰ってたんだ。なんとなくしっくりこなくて。それで、筆を休めて、窓の外を眺めてた。その時に一人の水泳部員さんを見つけたの」
琥珀の瞳がスライドして、私の視線と重なる。彼女は柔らかく笑った。
「誰より一生懸命で、誰より綺麗に泳ぐ人。私の眼にはね、その人が人魚みたいに映ったのよ」
「…………」
私は何も言えなかった。彼女の語りに私が何か言葉を返したら、この微睡のように現実感のない空間が、ぱちんと泡のように弾けて、夢と化してしまいそうな気がした。
無言で彼女の瞳を見返すしかない私に、彼女はすっと視線をずらして、あの人魚の絵を見やった。私もつられてそちらを追った。
「本当はね、夏の絵は人魚の絵じゃなかったの。夏の夜の花火を描こうと思ってたんだ。少しだけ暗くなった空に打ちあがるオレンジや緑や赤の花火。海に反射して逆さ花火も映るように。そんな絵をね、描こうと思ってた。夏休みの半ばぐらいにはもうほとんど仕上げの状態になってたんだけどね、なんか納得いかなくて。……これで本当にいいのかなって」
そして、彼女はまた窓の方へ視線を戻し、そっと手をガラス板に添える。色彩鮮やかな本物の彼女と、ガラスの中に宿る虚像の彼女の手が重なった。
「――そんな時に見たの。強い日差しを浴びて、きらきらと輝いて見えるプールの水面。その中で精一杯泳ぐ地上の人魚の姿」
これだって思っちゃった、と彼女は言う。
「ほとんど描き上がりかけだった花火の絵を放り出して、新しく描き始めたの。それがあの“恋になりたい人魚姫”」
清流のように澄んだ声音が、私の鼓膜へと滑らかに入っていく。注がれ、満たされ、飽和して、溢れて。溺れてしまいそうだと頭の片隅で思った。
「遠目からだったから、その水泳部員さんの顔はわからなかったわ。でも、ずっとお礼が言いたかった。私にあの絵のイメージを与えてくれて、ありがとうって。……今日、ようやくそれが叶いそう」
彼女は私に身体ごと向き直った。
「あなただったんだね、渡辺さん。昨日、あなたの泳いでる姿を見てわかったよ。一年生さんだったのはびっくりしたけど……うん、その綺麗な瞳の色も、柔らかそうなその髪も、私が想像してた人魚にぴったり」
『桜色の先輩』の告白。あまりの驚きに私の思考は一周回って呆けてしまっていた。白く遠くなった頭の中で、何故彼女は私の名前を知っているのだろうという、どうでもいいことを考え、そういえば顧問の先生が私の名前を呼んでいたよね、それで知ったのかな、なんてどうでもいい答えに辿り着く。
思考能力が過去最低限のラインまで低下した私に、彼女は形のいい笑みを向けて、その言葉を紡いだ。
「――ありがとう」
ハープの音色のような美しい声。そのたった一言が、一枚の桜の花びらへと変化する映像を頭の中でイメージした。ひらりとその桜の花びらが私の心の中の水面に舞い落ちる。水面にふっと浮かんだ花びらが小さく揺れて水紋が広がる。形のいい波紋がいくつもいくつも広がって、水は桜の色に染まっていく。私の心は一瞬にして、その一色に染められた。
「プールに入れてくれたことも、色鉛筆を届けてくれたことも、渡辺さんには色々お世話になっちゃったけど、やっぱり一番お礼を言いたいのはそのことかな。あの絵を描けたのは渡辺さんのおかげだから。だから……ありがとう、渡辺さん」
名前を呼ばれて、お礼を言われて。私の胸の中に春風が吹いて、桜吹雪が舞って。じわりと熱が灯った頬もきっと桜色になっているはずで。心臓がとくんとくんと高鳴って、けれどそれも全然不愉快ではなくて。むしろその熱に身を委ねたくなるくらいで、鼓動の叫びをそのまま声にして届けたいくらいで。
ああ、と心の中で、感嘆の吐息を漏らす。
この気持ちは何だろう。友情未満の憧れだろうか。それとも……。
こぽこぽという水音が聞こえる。水の中へ差し込んでくる神々しい光が見える。ひんやりと身体を包む水温。尾びれを動かせば、水面へと近づいていく。
少しすっきりした表情の彼女は「そろそろ帰らないと、先生に怒られちゃうね」と、デスクの上に置いてあったスクール鞄を取る。
「行こっか、渡辺さん」
と、私を促して、戸口の方へ歩いていく。
遠ざかろうとする彼女の背中に、水面に浮かぶ一枚の桜の花びらを思う。それを追いかけて。人魚姫は泳ぐ。ああ、もう間近だ。もう。
私は水面に顔を出してぷはっと息をするように、口を開く。
「先輩!」
随分長いこと発声休止になっていた気もする私の喉から、その声は飛び出すように出た。
彼女が振り向いた。ワインレッドの髪がさらりと揺れる。琥珀の瞳が私を見て、私の心臓はまた高鳴る。私はセーラー服の胸のところをきゅっと握り締めた。
私はまだ彼女を知らない。
どんな音楽をよく聴くのか。得意科目は何なのか。誕生日はいつなのか。兄弟はいるのかいないのか。お気に入りの本のタイトルも、休日の過ごし方も、将来の希望も。私は何にも知らない。真っ白だ。
彼女について何も知らないまま、ずっと彼女を見ていた。
けれど、ああ。知らないまま、知られずに見ていたのは、私だけじゃなかったんだ。彼女が歌い描く姿を、私が心を奪われて見ていたように。彼女も私の姿を見ていてくれていたんだ。
“恋になりたい人魚姫”
少しだけ期待してもいいんだろうか。私の中の彼女が私にとって特別な色を持つように、彼女に映った私もほんの少しでいいから、鮮やかな色を持っていたと。そう期待してもいいだろうか。
それを知るために、まず一歩。私はあなたに近づきたいと願うんだ。
何も難しいことじゃない。この身体の熱に身を委ねよう。この鼓動の叫びをそのまま声にしよう。さあ――
「先輩の名前! 教えてくれませんかっ?」
その言葉を、私はようやく言えた。
彼女はぱちくりと瞬きをした。でもすぐに、ふわりとまるで桜の花びらが咲くみたいに微笑して、薄桃色の唇を動かす。
春にあなたを見つけた。夏の間はずっと遠くから眺めていた。そして、今、秋になって、ようやくあなたと出会えた。
これからの季節がどんなものになるのか、それはまだわからない。未来は白紙のスケッチブックみたいに真っ白だ。
どんな世界にもなりえる白い世界。そこにあなたと私で色を描けたら。――それはとても楽しそうなことだと思いませんか?
「私の名前はね――」
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