仕事人間・桜内とその部下曜ちゃん(TGIF!:novel/8987132)のその後の小話。
他人と一緒に暮らすことの窮屈さとか。それでも一緒にいたいと思うこととか。
話にはまったく関係ないですが、デュオソングおめでとうございました!!
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=13496959
キッチンの方から食欲をそそるいい匂いがした。今夜はどうやらカレーらしい。
パタパタと近づいて来るスリッパの音。彼女が顔を覗かせるまであと二秒。
「梨子さん、ごはんできたよ」
「これ片付けたら行くわ」
予想通りのタイミングで部屋を覗いた彼女を振り返ることもなく、モニターを睨んだままキーボードを高速で打つ。納期を一ヵ月前倒せるかなんて無茶を言ってくる営業担当のメールに青筋を立てながら、こちらの現状と前倒す場合の工数増加を説明しているところだ。
彼らが仕事を取ってきてくれるお陰で私たちのお給料が支払われるわけだけど、たまにこうして無理難題を押し付けてくるのは勘弁して欲しい。大方、顧客からの要望を安請け合いしてしまったのだろうと想像がつくが、出来ないことを出来ないと言うのも彼らの仕事だ。
「昨日も一昨日もそう言って30分以上仕事してたじゃん」
脳内でぶつぶつ不満を並べていると頭上から恋人の恨みがましい声がした。
人の頭の上に顎を乗せて喋らないでほしい。話す度に振動が脳に響く。
「今日はすぐ終わるから」
書き始めたものを途中で止めるのは気持ち悪いので、彼女には申し訳ないけど送信完了するまでは食卓につくつもりはない。首に回された腕は離れる気はなさそうだが、無視してメールを打つ手を速める。
「ソレ昨日モ聞イタ。カレー冷メル」
なぜかカタコトな声は明らかに不機嫌だ。連日ご飯を温め直させているので当然と言えば当然か。
「冷めても美味しいから大丈夫よ」
「そーゆーことじゃないんだよぉ」
だから人の頭上で塞ぎ込むのはやめてってば。
私のイライラゲージの高さを知る由もない彼女は、子どもみたいに頭をぐりぐりと人の後頭部に押し付けてくる。
わしゃわしゃ、ぐりぐり、コツコツ。
あぁ、もうっ!
リミット寸前だった苛立ちが駄々をこねるワンコのせいであっという間に上限を超えた。「渡辺さん?」とオフィス用の声音で威圧すると、ピタリと動きが止まる。
「……5分で来なかったら明日から毎日ピーマン料理のフルコースにするからね」
「はいはい、分かったわ」
渋々離れて行く声を背中で見送りながらメールの続きを打つ。結局、送信ボタンを押したのは彼女が部屋を出て行ってから八分後だった。
「梨子さんそんなにピーマン食べたかったの?」
食卓についた途端、ジト目の彼女がつまらなさそうに言った。普段はこんなことはないのだけれど、連日同じことを繰り返してしまっているのでさすがの彼女もご立腹のご様子だ。
「ごめんなさい。途中で止めると忘れちゃいそうだったから」
私だって彼女への申し訳なさがないわけではない。仕事優先の気質は昔から変わらないし、プライベートを疎かにすることで彼女に迷惑を掛けていることは重々承知している。
ただ、一人暮らしだったときはすべて自分のペースで生活していたせいもあって、人とタイミングを合わせることに慣れていないのだ。食事をとる時間も、お風呂に入る時間も、寝る時間も。洗濯も掃除もゴミ出しも。誰かに急かされることも、譲り合うこともなく、思い立った時に好きなように。
それが人と生活を共にするようになると、必ずしもすべてを自分の好き勝手にできるわけではなくなる。自分以外の誰かと暮らすのだからそういうものなのだと理解はできる。でも、たまに少しだけ、ほんの少しだけそれが窮屈に感じることがあるのだ。
決して彼女が疎ましいとか、そういうことではない。口うるさく「ご飯」と繰り返すのは不摂生の絶えない私の健康を気遣ってのものだし、疲弊した私をお風呂場まで引っ張ってくれることには感謝している。
言葉にするのは難しいのだけれど、それまで野生で生きてきたトラが動物園で飼われることになったときのような、環境の変化に身体がついていけていない、そんな感覚が端々に残っているのだ。
まぁ、彼女と半同棲をするようになってすでに一年半も経つのだから今さら何を言っているのだと言われればそれまでなのだけど。
最近こんな風に思ってしまう頻度が増えてしまったのには、ちょっとした社内事情がある。
一ヵ月間の在宅勤務命令。
梅雨入り前に突然全社員に向けて発表されたそれ。あまりに急すぎたので一ヵ月後にオフィスに帰ってきたときにはもぬけの殻になっているのではないかと心配したが、どうやらそういう話ではないらしい。
労働者のワークライフバランスなるものが声高に叫ばれる昨今、我社も横に倣って在宅勤務制度が導入されたものの、導入後の使用実績が芳しくなかったようで、オフィスのリノベーションでしばらく工事が入ることも相まって実績を改善すべく強制発動されたというのが事の真相だ。会社が潰れる訳ではないことには安心したけど、在宅勤務制度って使いたいときに使えるからワークライフバランスに繋がるのでは、という疑問は残った。
期間中、社員は原則家で業務を行い、出社する際は上司の許可が必要になったので、余程のことがない限りすべての社員が在宅勤務を行っている。
当初は資料が印刷できないだの、気軽に人に質問できないだの、不満も多かったようだが、二週間も経つと慣れてくるみたいで、寧ろ満員電車に乗らなくて良いことや空いた出勤時間を自己研鑽や睡眠に充てられること、苦手な相手と顔を合わせずに済むこと等、利点が見えてきて皆大人しく従っている。
そういうわけで例に漏れず私も彼女も私の家で仕事をし、ご飯を食べ、寝るという生活が始まって早二週間、14日間、336時間。この1LDKの部屋でずっと一緒。
……何が言いたいかお分かりいただけるだろうか?
これまでだって職場もチームも同じだったのだから状況に変わりがないと言えばそうだけど、オフィスで他の人もいる中で同じ空間にいることと、そこまで広いわけでもないマンションの一室で四六時中一緒に過ごすこととでは意味が違う。
それがきっと最近感じてしまっている仕事以外の疲弊感の一因。たとえ恋人であれ、人とずっと同じ時間を過ごすというのは私には向いていないらしい。
そんなこと決して口には出せないけど。
スプーンに乗せた白米を頬張る彼女にチラと視線を寄越すと、不思議そうに首を横に傾げた。
「どうかした?」
「ううん、なんでも。今日のカレー、いつもと少し違う?」
「お、よくお気付きで。今日はバターと蜂蜜とニンニク入りだよ。簡単にコクが出せるってテレビでやってたんだ」
隠し味に気づいてもらえたことが嬉しかったのか、彼女がヘラっと頬を緩めた。その顔のまま「いつものとどっちが好き?」と問われる。
「どっちも美味しいけど、今日の方が好きかも」
「じゃあ次からはこのレシピ採用するね」
そう言ってさっきまでの仏頂面が嘘のように眩しい笑顔を見せるから、頭の中に渦巻いていたモヤモヤがあっという間に晴れてしまいそうになる。
──人と生きていくって難しい。
誰かと一緒にいると、良いことと、そうではないことを同時多発的に繰り返して、自分の気持ちと折り合いをつけるスキルが必要になる。今の自分にはきっとそれが欠けているのだろう。
あと二週間のあいだに少しくらいは慣れるのかしら。
この状況が一カ月という期限付きであることにほっとしながら、彼女お手製のカレーを口に運んだ。
「え"っ」
朝イチのメールチェックの最中、あまりの衝撃に女子としては有り得ないくらいの低い声が出てしまった。リビングにまで届いていたらしいその声を聞きつけ、何事かと彼女も駆けつけてくる。
「おじさんみたいな声が聞こえたけど大丈夫? 不審者でも出た?」
彼女の冗談すら耳に入って来ず、パソコンの画面を凝視したまま固まる。
「梨子さん?」
私の様子を訝んだ彼女も同じ画面を覗き込んだ。そこには全社員宛のアナウンスが記されている。
「在宅……一ヵ月延長って……」
「あー、ほんとだ。リノベーション中に配管の老朽化が発覚したため、ってやっぱりうちの会社古いんだね」
地の底まで下がった私の気分とは対照的に、彼女は非常にあっけらかんとしている。このMs.脳天気め。
「え、梨子さん、なんでそんなテンション下がってるの? 満員電車乗らなくて済むって喜んでたのに」
「あ、いや、そうなんだけど……さすがに二ヵ月となると長いなと思って」
「まぁ確かにチーム以外の人とか顔すら見てないもんね」
「うん……そうね……」
大事なのはそこではないのだけど、と内心で呟きながら突然下されたアディショナルタイムに頭を抱えた。
一ヵ月ならこの生活も乗り切れると高を括っていたのに、プラス一ヵ月となると話は別だ。
私はこのまま穏便に今の暮らしを続けられるのだろうか?
自分の適応力には不安しかないし、いつまたストレスの矛先が彼女に向いてしまうともしれない。そして彼女を傷つけてしまったら……それだけは二度と御免だ。
いつかの苦い記憶が蘇り、胸をキリキリと締め付ける。
とりあえず今日はご飯の時間には遅れないようにしないと。
こんな当たり前のことすら意気込まないとできない自分の同棲適性の低さを改めて感じてしまった。
*
一日中モニターを見つめていると時間の変化に疎くなる。今日も気付けば窓の外はすっかり暗くなっていて、家に居てもオフィスに居ても見える景色に違いがないことに悲しくなった。
在宅勤務が始まってから購入した外付けモニターに表示されているのは、左右に並べられた二つのウィンドウ。一つはレビュー中の文書、もう一つは関連する資料のファイルだ。二つを見比べながら文書に修正履歴を残しているのだけど、これがなかなか大変で、量も多いので全て確認するのは骨の折れる作業だったりする。レビュー中にチャットが来ると集中力が途切れてしまうので通知は始める前にオフにした。
「梨子さん、晩ごはんできたよ」
コンコン、と開けっ放しのドアを控え目にノックする音と彼女の声が背後から聞こえた。通知は切ってもご飯のお知らせは届いてしまうことにやり場のないもやもやが蓄積していく。
でも今日こそはすぐに切り上げないと、彼女の仏のような顔も阿修羅の如く憤怒の様相に豹変してしまいかねない。
「……今、行く」
言葉と声音が矛盾した。
いや、行くつもりはあるのだ。ただ、本当に、絶妙にタイミングが悪い。文書の構成上、せめて今見ている段落分は確認を終わらせておかないと後々二度手間になってしまう。止めるべきか続けるべきか。心の中の葛藤は「ゔー」と低い呻き声になって表に出た。
「梨子さん? 大丈夫?」
「だい、じょう、ぶ……うん、もう行くから」
平衡を保ったままだった天秤が諦めたようにコトン、と音を立てて傾く。腹を決めてデータを保存し立ち上がると「お仕事いいの? 終わるまで待ってるよ?」と、すんなりと私が応じたことが余程珍しかったのか、彼女は目をキョトンとさせたまま立ち竦んでいた。
「ううん、後でやるから。ほら、ご飯冷めちゃうよ」
今日こそはと決めたのだから、ここで引いたら女が廃る。そんな謎の使命感を背負って、数日ぶりに時間通りに食卓に向かった。
「今日はね、青椒肉絲チンジャオロース作ったんだ」
ついに彼女が反撃に出る日が来てしまったのか、とあまり得意ではない食材がふんだんに使われた料理名を聞いて、そうさせてしまった自分に後悔する。
まぁ、この程度で彼女の気が済むなら安いものだ。もうピーマンが食べられないと駄々をこねる歳でもない。
久しぶりに食べるわね、と最近口にする機会のなかった緑の野菜の味を思い出そうとしていたのだけど、ダイニングテーブルの上に並んだ献立を見て私は「あれ?」と首を傾げた。
「……えっと、『青』が見当たらないみたいだけど」
テーブルの上には大皿に盛られた青椒肉絲らしきものと、卵とトマトの入ったスープと白ご飯が並んでいる。『らしきもの』と曖昧な表現になったのは、料理名でもある肝心の具材がお皿の上に見つからなかったからだ。
「うん、ピーマン抜きの曜ちゃん特製レシピだよ」
「別に入れてもいいのに。食べられなくはないし」
「だって梨子さんに『おいしい』って言って欲しくて作ってるんだもん。苦手な物が入ってるとそれだけで減点対象になるでしょ」
だからこの先もピーマンが食卓に並ぶことはないらしい。「梨子さんがどうしても食べたいなら別だけど」と彼女は意地悪く笑った。
確かに、食べなくてもいいのならできるだけ食べたくはないけれど、それで彼女のレパートリーを狭めているなら申し訳ないなと思った。そこは私が大人にならないといけないことなのかもしれない。それに、彼女が作るものは大抵美味しい。
「全部美味しいわ、曜ちゃんの料理は」
本心を告げると、ニヤニヤと面白がっていた目が途端にパッと見開いて、気まずそうに視線を逸らす。
「どうかした?」
「……梨子さんって、たまにずるいよね」
「何が?」
「ううん、なんでも。早く食べよ」
誤魔化すように「いただきます」を言う彼女をそれ以上追及することもできず、疑問符を抱えたまま私も両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」を言ったのはそれから二十分後。食べている間も先ほどまでレビューしていた文書のことが気になってしまい、心なし会話はいつもより少なかった気がする。
「梨子さんはまだお仕事するの?」
「うん、今日期限の資料の確認がまだできてなくて」
言いながらスポンジに洗剤を染み込ませ、泡立てる。食事の後の片付けは料理をしない私の分担だ。当初彼女は「私がやるのに」と申し出てくれたけど、それでは彼女の負担ばかりが増えるので頑なに断った。付き合っている以上は上司も部下も関係なく対等でありたい。
「え、じゃあ私が片付けやるから梨子さんは仕事しなよ」
「それは駄目よ。ちゃんと分担決めたじゃない」
「そうだけど……そこは柔軟にいこうよ。代わりに明日のお昼ご飯を梨子さんが作るとか」
「それが無理だから言ってるんでしょ」
知ってるくせに、と彼女を睨む。
滅多に料理をしない自分がたった一時間の昼休憩で作って・食べて・片付けられるようなものを作れると思わないでほしい。
「別に私は素麺でもいいよ? 麺つゆも薬味もあるし。冷奴をつけたらタンパク質もとれるし」
「そんな真っ白なランチ、私はイヤ。とにかく、これは私が洗うから」
「……梨子さんの頑固者」
「頑固で結構です。ほら、そのお皿もちょうだい」
彼女の手にあったお皿を奪い、スポンジで擦る。
一度自分で決めたことは全うしたいと思うのが私の性分だ。頑固と言われようと、融通が利かないと言われようと、簡単に甘えるようなことはしたくない。
隣でお皿を拭いてくれる彼女は不満そうな顔つきだったけど、できるだけその視線を避けるようにしてやり過ごした。
片付けもひと段落して作業を再開し、結局、その日すべての仕事を終えたのは時計の短針がちょうど十二を指した頃だった。
梅雨の長雨が街を濡らす七月。在宅勤務が始まって二ヵ月目に突入した。
今年の梅雨は長くなりそうだと天気予報が告げていて、ここ最近は毎日のように曇天が続いている。
私の気分も空模様と同じくすっきりとは晴れないまま、しかし彼女とは大きな喧嘩などもないまま、日々はのらりくらりと過ぎていた。
このまま何事もなく終わってくれれば、と思う反面、果たしてそれでこのモヤモヤがなくなるのかと言うとそれはまた別問題な気がしている。
どうすればいいのかしら。
ある意味、仕事の問題よりも悩ましい。打つ手すら見えない課題に取り掛かる前から白旗を上げたくなる。
テーブルの上に置かれたアイスコーヒーを意味もなくストローでくるくるとかき混ぜていると、「それ以上混ぜてどうするの?」と懐かしい声がした。
「久しぶり、よっちゃん」
「いや、三日前に電話したでしょ」
顔を上げると同期の津島善子が呆れ顔で立っていた。確かに彼女とは何度か電話で話していたが、こうして直接会うのは数週間ぶりである。
──自分一人で解決できないときは人に頼ることも覚えた方がいい。
悶々としながら日々を過ごしていたときにふと、いつぞや誰かに言われた言葉を思い出した。
『桜内は自分で何でもやろうとしすぎ。少しは人に任せないとそのうち潰れるぞ』
だって自分でやった方が早いんだもの。言われた当時はそんな風に思っていたけど、今ならその言葉の意味も分かる。
目の前に降りかかるすべての案件を一人で抱えていたら、いつか手から零れ落ちてしまうものが出てくる。しかし、零れ落ちたそのときに気付いたのでは遅いのだ。そうなる前に誰かに分け与えて、常に自分の左手には空きがあるくらいじゃないとすぐに立ち回らなくなる。一人で処理できないことは人の手を借りた方が効率的だし、何でも自分でできると思うのは高慢だ。
人の上に立つようになって、あの子が部下になって、やっと気付けたことだった。
──と言うわけで、この雨の中、頼れる親友を休日のカフェに召喚したわけである。
「あっついからアイス頼んでいい?」
「お好きなだけどうぞ」
召喚のための代金はもちろん私持ち。マジックポイントが使えない分、マネーで解決するのが大人なのだとよく分からないことを宣っていたのは目の前でメニューをまじまじと見つめている自称・ゲーマーである。
「じゃあこの三段重ねの…」
「絶対落とすわよ」
彼女が指差すのはワッフルコーンの上に三段重ねになったアイスクリームの大きな写真。期間限定の特別メニューらしい。
一番上に乗ったアイスはコーンの上からはみ出てほとんど支えがない状態だ。そんなものをこの凶運の持ち主が頼めばどうなるか、やってみずとも答えはすでに出ている。
私が横から口を挟むと、逡巡した後「……二段のやつ、カップで」と不本意そうな声がした。
「あ、あと、ホットコーヒーも」
「暑いんじゃなかったの?」
「アイス食べたら冷えるでしょ。いちいちうるさいわね」
注文を済ませ、アイスが届くまでの間に近況報告をする。経理課は出社しないとできない業務があるので彼女は週二で会社に行っているらしく、「出社する度に在宅の素晴らしさに気付かされる」と切々と語っていた。夏場の満員電車地獄も直射日光も避けられるのだから、在宅勤務の方が何倍も快適だろう。それは私も同意だ。
「で、今日はどうしたわけ? どうせ犬も食わないような話なんだろうけど」
アイスが運ばれてくると、上に乗ったバニラの山をスプーンで削りながら興味なさげに彼女が尋ねた。
「……私って人と生きるのに向いてないのかな」
「いやいやいや、唐突過ぎて意味分かんないから。ちゃんと文脈作ってよ」
どうして仕事はできるのにプライベートになるとポンコツなのよ、と小言を受けながら、この一ヵ月で感じたことをありのままに話す。
「在宅が始まってから、その、ずっと一緒に生活してるんだけど、なんか……こう、モヤモヤと言うか、閉塞感と言うか、落ち着かないことが多くなって」
「ふーん……要は二人暮らしが嫌になったってこと?」
人がせっかく包んだオブラートを彼女はお構いなしに引き裂いた。もう少し優しさとか慎ましさとか装備しといてよ。何のためのオブラートよ。
恨みがましく彼女の涼し気な顔を見つめるが、アメジストの瞳はアイスに夢中なようだった。
「嫌ってわけじゃないの。ただ、ずっと同じ空間にいるのって案外大変なんだなと思って……」
「そんなの他人なんだから当たり前じゃない。私なんか実家に帰ってもぐったりすることあるわよ」
「家族なのに?」
「たとえ家族でも自分じゃない『他の人』でしょ? 生活リズムが違ったり、干渉されたりすると気が滅入ることもあるわ」
彼女はさも当然のように答えた。
そういうものだろうか。自分が実家に帰った時のことを思い出してみるが、思い当たる節はない。家族と恋人では気の遣い方が違うし、私の家族は比較的干渉してこないタイプだからかもしれない。
私が思案に耽る一方で、彼女はこう続けた。
「曜はさ、あんたのこと馬鹿みたいに好きだから、そのせいで温度差出ちゃってるんじゃない?」
まるで私が彼女のことを何とも思っていないようなその言い草に反射的に口が動いていた。
「そんなの私だって、」
「ほう、『私だって』?」
続きをどうぞ、と言わんばかりの意地の悪い顔に言葉が詰まる。
完全に墓穴を掘った。これではポンコツと呼ばれても言い返せない。
平静を装いながら「なんでもない」と濁したけど、不意に口をつきかけた言葉がきっと自分の本心なのだということを嫌というほど気付かせられる。目の前でニヤニヤした顔を隠そうともしない彼女に伝えるつもりは微塵もないが。
「ま、譲れないことはちゃんと口に出して言った方がいいんじゃない。リリーの場合、我慢してたらそのうち爆発しちゃいそうだし。そしたら面倒だし」
「そ、れは、そうだけど……口にすると角が立ちそうで嫌なのよ。ただでさえ言い方がキツいって自覚があるのに」
「じゃあどうすんのよ」
「それは……」
そもそも言葉で伝えること自体が難しい。何しろ自分がどうしたいのかもよく分かっていないのだ。
一人暮らしに戻りたいというわけでもなければ、距離を取りたいというのも違う。強いて言うなら、互いを空気のように思える時間が少し欲しいというか。ないと困るし、そこに「在る」ことは知っているけど、常には意識しなくても済むような。でも、それだと都合のいいときだけ頼っているみたいで自分の考えとは齟齬がある。彼女にそう思われることは本意ではない。
「言いたいこと我慢して適当に受け流す方が楽かもしれないけどさ、嫌なこともちゃんと言い合える仲にならないと、この先詰むわよ」
唸る私に彼女はスプーンを指しながらド正論を突き付けてくる。ぐうの音も出せない私は「善処します……」と項垂れた。
言葉にすると傷つけてしまうかもしれないから、だったら私が我慢すればいいものだと思っていた。それが人と生きて行くために必要なスキルだと。でも、目の前の彼女はばっさりそれを否定した。
確かに彼女の言う通り、このままで解決するわけではないけれど、だからと言ってどう伝えれば正解になるのかは一向に見える気配はない。
科学の進歩した時代なのだから人の思考を読み取って適度にまろやかな表現にして出力してくれる装置でもあればいいのに、なんてくだらないことを考えていると、見兼ねたのであろう親友が口を開いた。
「リリーって何でも一人で解決しようとするじゃない?」
「……そうかもしれないわね」
いつかのデジャヴか、聞き覚えのある台詞に苦笑する。自覚はあるので否定はしない。
「でも、人と生きていくって、それじゃ成り立たないでしょ? どっちか片方だけが頑張っても上手くいかないし、協力して初めてできることだってあるだろうしさ」
先程までの冷たい口調とは異なる温度に思わず目を瞬く。彼女もそのことに自分で気付いたのか、気まずそうに視線を逸らした。
「まぁ、だから、自分だけが頑張ろうとしなくてもいいんじゃない? って話」
逸らした視線は斜め四十五度を超え、窓の外の雨模様を射抜く。頬杖をついて居心地悪そうにする姿が照れ隠しだと気付いたのはもう何年も前の話だ。
あぁ、まったく、彼女は彼女で私と同じくらい素直じゃない。
だけど、その不器用な優しさのお陰で自然と口元に微笑が浮かぶ。
「よっちゃん、」
「なに」
「ありがとう」
「な、っによ、急に?! 気持ち悪いわね! コーヒー吹くとこだったわ」
悪態をつきながらも頬をやや染めてケホケホとむせ返るその姿が無性に愛しく思える。
「だって私を叱ってくれるのよっちゃんぐらいだし」
「別に、日曜の昼間に呼び出されて惚気を聞かされる腹いせだから」
「うん……それでもありがとう。ちょっと気持ちの整理ができた気がする」
思ったままを口にすると、ポカンとした顔で「はー……」と盛大に溜め息をつかれた。
「なに?」
「いや、ほんと、変わったなぁと思って。中の人入れ替わったんじゃないの?」
「中の人? 何の話?」
「んーん、こっちの話」
彼女は脱力気味に首を振ると、不敵な笑みを浮かべながら止む気配のない雨音に耳をすました。
*
よっちゃんと別れ、帰宅すると部屋は暗いままで人の気配はなかった。いつもなら犬のように尻尾を振って出迎えてくれる彼女の姿も見当たらない。
買い物に行くって言ってたけど、まだ帰ってないのかしら。
リビングのソファに腰掛けながら携帯を確認すると、新着には彼女の名前。
『風邪ひいたみたいなのでしばらく自分の家に戻ります』
トーク画面を開けば、事務連絡のような淡白な一文がぽつんとぶら下がっていた。
風邪? 今朝、最後に見た姿はとても元気そうだった気がしたけど、今日の雨に濡れでもしたのだろうか。
付き合って以降、彼女が風邪を引いたという話は聞かないし、会社での病欠もない。見た目からして健康体そのものなのでその珍しさがかえって心配になった。
『大丈夫? 何か買ってこようか?』
返事を打つと待ち構えていたかのようにすぐに携帯が震える。
『少し熱っぽいだけなので大丈夫です。仕事も休まなくてよさそうなんですけど、梨子さんにうつすといけないので。冷蔵庫に作り置きしたおかずがあるのでしばらくそれでしのいでください。ちゃんと食べてくださいね! 絶対ですよ!』
いや、準備良すぎじゃない?
画面に並んだ文章を読みながら、その用意周到さに疑問を持つ。風邪を引いたなら大人しく寝ていればいいのに。どうして作り置きの準備などしているのか。そんなに私は信用がないわけ? いや、ないのだろうけど。
私が規則正しい食生活を送れているのは他ならぬ彼女がいるおかげだ。彼女がいなくなった途端、水とゼリー飲料だけで過ごす自分の姿が目に見える。おそらく彼女も同じことを考えたのだろう。風邪気味の、しかも年下の恋人に甘やかされるなんて、年上の威厳もどこかに忘れてきてしまったようだ。
冷蔵庫を開けると三日分はありそうな作り置きのおかずたちが入ったタッパーが綺麗に整列していた。ご丁寧に「月曜のお昼」とか「火曜の晩ご飯」と書かれた付箋が貼られている。その手書きの文字をひとつひとつ確認する度、じわじわと胸に芽生えるある想い。
「……こんなことされたら会いたくなるじゃない」
近付きすぎれば苦しくて、遠ざかれば恋しくなる。いつから私はこんなにわがままになってしまったのだろう。
恋人との適切な距離感を見定めるはずが、自分のためだけに向けられる優しさのせいで会いたい気持ちに天秤が傾きそうになる。
今晩の夕飯用のタッパーを冷蔵庫から取り出して、蓋を開けるとハンバーグとブロッコリーなどの蒸し野菜、にんじんのグラッセがタッパーいっぱいに詰められていた。短冊形に切られたにんじんをひとつ摘んで、口に入れる。バターの香りがふわと口内に広がり、にんじんの甘みがほんのりと舌に残った。
「……おいしい」
ひとりぼっちの部屋には「よかった」と笑ってくれる相手は見つからなかった。
翌朝、枕元で鳴る無機質なアラーム音に起こされた。キッチンに行ってもコーヒーの匂いも彼女の声もしない。
食パンを焼いて、インスタントコーヒーを淹れ、パソコンを起動させてメールチェックしながらトーストを齧る。彼女に見られたら怒られそうだなと、いつも座っている方角に視線をやるが、もちろん今日はそこには誰もいない。
彼女の定位置はダイニングテーブルの一角で、私は日によって寝室のデスクとリビングのソファを行ったり来たりしている。今日はなんとなくソファの気分で、肘掛けに背をもたれて両膝にノートパソコンを抱えながら作業中だ。
この部屋、一人でいるとこんなに静かなのね。
キーボードを叩く度にカタカタと音が部屋に響く。普段なら聞こえてくるもう一人分の生活音も音の発信元が不在では鳴ることもない。ここ最近は毎日のように聞こえていた雨音も今日に限って梅雨前線が休憩しているようで、空は雲ひとつない快晴。窓から差し込む光は朝なのにとても強くて、例年よりも遅めの梅雨明けもそろそろなのかもしれないと思った。
洗濯機回しておこうかな。午前中に回せばお昼休憩のときに干せるし。
きっと彼女ならそうするだろうと、トーストが乗っていたお皿を片付けるついでに立ち上がる。
休みの間に溜まっていた衣服を洗濯槽に突っ込んでスタートボタンを押す。いつもなら騒がしく感じるガコン、ガコン、という音も今日は心なし心地よく聞こえた。
メールの返事、資料作成の合間に来るチームメンバーからのチャット対応、在宅になってから増えた気がする会議を二本こなして、時計を見ればすでに二時。
「そろそろお昼食べなきゃ、って、あっ!」
慌てて脱衣所に駆けて行けば、もう何時間も前から沈黙していたであろう洗濯機とご対面する。急いで蓋を開けて中身を取り出すと、そこにはくしゃくしゃになったブラウスやカットソーがなんとも痛ましげに横たわっていて、自然と溜息が漏れた。
どうにか皺を手で伸ばしながらハンガーに掛けたけど、跡は残ってしまいそうだ。
「後でアイロンかけないと……」
彼女がいたら「あとはやっとくから、梨子さんはステイホーム」とまた甘やかされていたことだろう。いや、その前に彼女ならこんな凡ミスはしないか。
自分の家事力のなさに目眩を覚えながら、彼女の用意してくれたおかずとご飯を温めて随分と遅いランチタイムを過ごした。
月曜日も後半戦に差し掛かり、積み重なっていくメールをちぎっては投げ、ちぎっては投げを繰り返していたら今日中に片付けなければならないアクションアイテムも残すところあと二つとなった。今日は順調じゃない! と感動していたのも束の間、チャットアプリのアイコンが光ってゾッと背中に寒気が走る。私の中の労働者としての勘が全力で『ろくでもない問い合わせ』だと言っている気がした。
恐る恐るアイコンをクリックすると、ウィンドウが開いてメッセージが現れる。
嫌な予感というものは大体当たるもので、発信元は在宅のお陰で会わずに済んでいる部長だった。
『桜内くん、いまだいjpぶ』って全然だいじょばないですけど。続けざまに『ごめm、まりがえた』とか、もう本当に笑えない。
これに返事をすればまた厄介ごとに巻き込まれること必至。しばらく放っておいたら諦めるかしら。そんなことを考えている間もピコン、ピコンと誤字まみれのメッセージが止まらない。
「もー、家にいるのに帰りたい……」
そんな泣き言をこぼしても拾ってくれる相手はいない。彼女なら「心だけ出社しちゃってるんだろうね」と苦笑しながら頭をひと撫でしてくれただろうに。
いくら待ったって誰も慰めてはくれないので、渋々『どうされましたか?』とキーボードを打つ。
『でんわいい?』
初めからそう言えばいいのにという言葉は呑み込み、『どうぞ』と返す。すぐにかかってきた電話で久方ぶりに部長の声を聞いた。
話を聞けば、完成間近のテキストファイルがフリーズしてデータが飛んだらしいのだけど、いや、そんなこと私に言われても。システムチームに言いなさいよ、と心の内に文句を貯めながら、途中までのデータが自動保存されていないか電話越しに指示して確認してもらう。画面共有した方が早いが、共有の仕方を教えるのに一苦労かかるのが目に見えたので四苦八苦しながらも口頭だけで説明を済ませた。
『あっ! あったよ! これだ、これ!!』
機械音痴の部長に指示すること十分、無事にフリーズする前のファイルが見つかったらしい。作業ファイルをこまめに保存することは基本中の基本だが、最近のアプリは自動保存してくれるのでありがたい限りである。
『いやぁ、助かったよ、ありがとう』
「見つかったようで何よりです。では、失礼します」
『あ、そう言えば、』
ブチッ、と電話を切る瞬間に何か聞こえた気もしたけど、きっと気のせいだろう。用があればまたかかってくるだろうし。
部長の「ついでの話」は、そちらが本題なのではないかと思うほどに長いし、その割に中身は大したことではない。出社していれば今の倍以上の時間拘束されていたのだと思うと在宅様様ね、とその恩恵の大きさを痛感した。
その後、部長から電話がかかってくることはなく、順調に本日期限の仕事を片付けて、新たに貯まったメールの山を処理して時計を見れば午後九時ジャスト。
「今日はここまでかな……」
背もたれによりかかりながら背伸びをひとつして、宙を見つめる。
彼女はもう夕飯を食べただろうか。たまにCCでメールは来てたから普通に仕事はしていたみたいだけど、風邪は悪化していないだろうか。
メッセージの一つでも送ってみようかと思ったが、『心配無用です』と釘を刺されていたので少し躊躇してしまう。「大丈夫?」と訊いたところで『大丈夫』とこだまのように返って来るだけだろうし。
できる女子はこういうとき何て連絡するんだろう。
ちらと頭を掠めたのはとさか頭がトレードマークの受付嬢だけど、あいにく連絡先は知らない。知っていたところでこんなことを聞く気はさらさらないけれど。
──南さんだったらどうするかしら。
普段は絶対に思い至らない発想が頭を過った。
きっと疲れているせいね。要らぬ言い訳をしながら脳内に南さんを呼び寄せてみる。
『曜ちゃん、風邪引いちゃったの?』
若干怪しいけど、たぶんこんな感じ。甘い声が脳内で再生される。
『だいじょうぶ? ことり心配だよぉ』
心なし画素数粗めの南さんがグレージュの髪をふわふわ揺らして、蜂蜜色の瞳を潤ませた。
『大丈夫ですよ、ことりさん。心配ありがとうございます』
『何か必要なものとかない? お薬とか、飲み物とか』
『薬も飲み物もあるので心配しないでください』
まぁ、きっとこうなる。普段は甘えたがるくせに、肝心なときは我慢する。甘え上手なのか下手なのか。おまけに相手はなかなか頑固者だ。どうする、南さん。
『そっかぁ……じゃあ、ことりも必要ない?』
瞬間、脳天に衝撃が走った。
あぁ、これだ。間違いない。
首をちょこんと傾げて、困り眉を作り、目をうるうるさせて。相手の服の裾とかちょっと掴んでみたりして。目の前にいたら百人中百人が抱き締めたい衝動に駆られるような。そんな南さんの姿が容易に思い浮かんだ。
これが天下無敵の愛され女子か。
さすが社内人気ナンバーワン受付嬢、と脳内の南さんにスタンディングオベーションを贈る。
しかし、これは南さんだから使える技なのだろう。自分がこんなことを言う姿は一ミリも想像できず、脳内の茶番を終わらせるようにふるふると頭を振る。
馬鹿げた妄想を一通り終えて携帯を手に取り、アプリを起動すると、およそ恋人とのやり取りとは思えない事務連絡だらけのトーク画面が表示された。
『洗剤切れたから買ってきて』とか『宅配便届きました』とか。恋人だなんて甘い響きのある履歴は見当たらず、ただの同居人とのやりとりが延々と続いている。こんなところに突然『私のことは必要ない?』だなんて投下した日には、『梨子さんも熱あるんですか?!』と彼女が飛んで来てしまいそうだ。
『お疲れ様。風邪は悪化してない?』
結局、少し悩んで当たり障りのないところに落ち着く。最初からこうしておけばよかったと、無駄な妄想をしてしまったことを後悔した。
『一晩寝たら大分よくなりました。まだ油断できないのでもう少し様子を見ますね』
メッセージを送ってから彼女が用意してくれた炒飯を食べていると、想定通りの返事が届いた。明日も私は一人で過ごさなければならないようだ。
──それでよかったはずなのに。
一人でいることに苦はなかった。むしろその方が気楽だと思っていた。人と過ごせば楽しいこともあるけど、その分辛いことも面倒なことも増えてしまうから。
ずっとそうして生きてきたのに、その考えは彼女と出会ってから徐々に変わり始めた。人に想われることの嬉しさだとか、仲直りした後の安心感だとか、相手のために必死になれる自分に気付けたこととか。一人では決して経験することも気付くこともできなかったことを、彼女は教えてくれた。
だから、「一人で過ごさなきゃ」なんて昔の自分では思いも至らなかったような考えが自然とこぼれてしまったのだろう。
今日だって、事ある毎に「彼女がいたら」といない彼女を探して、いないことに落ち込んで、らしくもない妄想までして。
お互いが空気のような存在になれればと望みはしたけど、きっとそれは随分前から叶っていたのだと思う。彼女はもう私の生活の一部になっていたのだ。
『梨子さんと食べるご飯はいつもより美味しく感じるんだよね』
『お風呂上がりの梨子さんの匂い好きだなぁ』
『早起きすると梨子さんの寝顔が見れるから得した気分になるんだ』
記憶の中の日常にはいつだって彼女がいて、私に微笑みかけてくれている。それが私たちの「当たり前」で、「いつもの風景」だった。
──きっと私はもう一人でなんて生きていけない。
気付いたときには階下にある彼女の家に向かっていた。
*
インターホンを押すとすぐに『はい?』と反応があった。考えなしに飛び出してきたので「あ、あの……桜内、です」としどろもどろに答えると『えっ? 梨子さん?! なんで!?』と慌てふためく声が返って来る。
「あー、ちょっと、……顔を見に」
理由を問われると困る。『会いたくなった』なんて言える質ではないから。そう思うと急に恥ずかしくなってどんどん声が消え入るように細くなった。
『ちょ、ちょっと待ってて!』
言われるがまま待つこと三十秒。なぜか息を切らした彼女がドアの向こうから顔を出した。
「ど、どうぞ」
どことなく挙動不審だけれど思ったより元気そうで安心する。でも、風邪を引いたわりにはTシャツにショートパンツと軽装なことに少し違和感を覚えた。
「お邪魔します」
自分の家と同じ間取りの部屋を見回すと、テーブルの上に会社のパソコンと仕事の資料と思わしき書類やファイルが広がっていた。
「ひょっとしてまだ仕事してたの?」
在宅中は業務の開始時と終了時には上司への報告が必要になるので、彼女は私に毎日勤務時間を報告している。今日は七時前には終了報告を受けていたはずだった。サービス残業だとしたら上司として見過ごすわけにはいかない。
「いや、違うちがう。片付けてたら梨子さんと一緒にやったプロジェクトの資料が出てきて、懐かしくなって見返してただけ」
「そう……よくそんな古い資料残ってたわね」
「そりゃあ、梨子さんとした初めての共同作業ですから」
「結婚式のケーキカットみたいに言わないの」
「あはは、私にはそれくらい大切な思い出だよ」
そう言って、彼女は分厚いファイルを丁寧に閉じた。
「熱は下がったの? 何度くらい?」
「んー、もう大丈夫だよ。平熱まで戻ったし」
ヘラっと笑う表情は確かに熱はなさそうだけど、どことなくぎこちなさが残る。「それより、何か飲む?」とすぐに話題を変えようとする不自然さが疑念に拍車をかけた。
──何か隠してるわね。
恋人としての勘が私に訴えかける。素直さが売りの私の恋人は嘘やポーカーフェイスは苦手分野だ。
私が来たときの慌てぶり、不自然に広げられた昔の資料、違和感のある態度。散りばめられたピースを繋ぎ合わせていく。
やっぱり、本当は熱があるのに仕事をしてたとか?
だとしたら、ちゃんと止めさせないと。
振り返ると、彼女は電気ケトルを手にシンクの前に立って水を注いでいた。その背後に音を殺して忍び寄り、そっとお腹に左腕を回して逃げないように抱き締める。
「ふぁっ!?」と奇声を発して固まる彼女の額に右手を当てると、ひんやりとした感触が手のひらに伝わってきた。
「本当に、熱ないの?」
「ない、……けど、今から上がりそう」
耳元で囁けば、固くなった声が返ってくる。
手元を見るとケトルから水が溢れていたので、彼女の額から手を離し、蛇口からとめどなく流れる水を止めた。そしてそのまま右腕も彼女のお腹に回す。
「えっと……梨子さん、これ、なに?」
「ねぇ、何か隠し事してる?」
彼女の質問を無視して食い気味に質問を重ねると、一瞬、息を呑む音が聞こえた気がした。
あぁ、やっぱり何か隠している。
予感が的中していたことに嬉しさはない。何か後ろめたいことがあるから隠し事をするのだ。今から聞くのは私にとって「よくない話」。私が無理に問い質したのだから本来なら「聞かなくてもよかった話」なのかもしれないけど。
しばらくの沈黙の後、彼女が気まずそうに口を開く。
「ごめん、風邪は、嘘……です」
「え?」
返答は想定していたもののどれでもなかった。拍子抜けした私の声が静かなキッチンにぽつんと置き去りになる。
何のために仮病を? と思った瞬間、もしかして、とあってほしくない理由に急に行き当たった。
「ひょっとして、一緒に住むの嫌になった、とか?」
それで家を離れる理由が欲しかったから? だとすれば辻褄も合う。
自分が感じた窮屈さを彼女だって感じていた可能性があることにそのときはじめて思い至った。むしろ、彼女の方が私に愛想を尽かす確率は高いだろう。なぜこんな人間力の低い私と付き合っているのかすら不思議なくらいだというのに。
考えれば考えるほどその答えにしか行き着かなくなり、どんどん気分が落ち込んでいく。
「ち、違うよ! そうじゃなくて!」
地表すれすれまで下がりかけていた気持ちを彼女の声が引き止めた。彼女のお腹に回した腕の力が反射的にきゅっ、と強くなる。しがみついた背中の温度が無性に懐かしく感じた。
振り返ることが許されない彼女は、シンクの方を向いたまま続けた。
「在宅の延長が決まってから、梨子さんの様子がなんか変だったから。休日は一人で出掛けちゃうし。ひょっとして私、仕事の邪魔になってたりとかするのかなって思って。だから、嫌われるくらいなら少し距離置いた方がいいのかなとか、ちょっと悩み、じゃないけど、頭の中がぐるぐるして……」
「それで、風邪引いたって嘘吐いて出て行ったの?」
「……はい……すみません」
彼女はシンクに手をついて項垂れた。後悔だとか罪悪感だとかを背負い込んで。
私が大きく溜息を吐くと、びくっと背中が震える。
「こっち、向いて」
彼女を拘束していた両腕を緩めると、恐る恐るこちらを振り返る。澄んだスカイブルーの瞳には不安の色が混じっていた。
「なんて顔してるのよ」
「だって、梨子さん怒ってるでしょ……?」
「そうね」
「ほらぁ、」
「あなたにそんな風に思わせてしまっていた自分にすごく腹が立ってるわ」
「え、……?」
目を丸くする彼女の頭に手を伸ばす。少し癖のある柔らかい髪を慈しむように撫でた。
「ごめんなさい」
「梨子、さん……?」
深刻そうな顔つきで彼女が私を見つめるから、私もその青い瞳を真っ直ぐ見つめ返す。
──また私は彼女を傷付けて、いろんな気持ちを一人で背負い込ませて、あのときから全然成長していない。
こんな自分はもううんざりだった。
ちゃんと彼女に伝えないと。私が今、思っていること。
「私ね、きっと人と生きるのに向いてないんだと思うの。一人の方が自由に生きられるし、誰かに迷惑をかけることもないし。ずっとそうやって生きてきたから」
「…………」
「でもね、そんな私があなたとは一緒にいたいって、生きていきたいって思ったの」
一人でだって生きていけると思っていたし、実際生きていくことは可能なのだと思う。今の世の中、お金さえあれば大抵のことはどうにでもできる。でも、それだけでは満たされないものがあることを私は知ってしまった。
「あなたのお陰ね」
たとえケンカをして部屋の空気が気まずくなっても、慣れない生活リズムに息苦しさを感じても、一人になりたい時間があっても、それでも最後には彼女の顔が見たくなる。声が聞きたくなる。
誰かと生きる理由なんて、案外そんなものなのだろう。
言い終わった途端、「はぁぁぁぁぁ」と盛大な溜息を吐きながら彼女がその場に崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫?」
「だってさぁ、今の流れ、絶対『別れよう』って言われるのかと思うじゃん」
膝を抱えて何を言い出すのかと思えば、そんなこと。言うわけないじゃない、と内心で呟きながら彼女の前に膝をつく。
「言ってほしかった?」
「やだ。一生言っちゃだめ」
子どもみたいな言いぶりに思わず「ふふ」と笑みがこぼれた。不意に見せるあどけなさはいつも私の心の棘を知らないうちに取り払う。
「前向きに検討するわ」
「そこは普通に『うん』って言ってよ」
彼女の瞳には涙の薄い膜が張られていた。少し意地悪をしすぎたらしい。「大丈夫よ」と彼女の頭をもう一度撫でる。
「考えてみたんだけどね、私たち、少し言葉が足りなかったのかもしれないわ。特に私が、だけど」
会議で議論することは苦手ではないけれど、自分の想いを人に伝えることは得意ではなかった。データに基づいて「すべき」ことを主張することと、あやふやで数値化できない感情を言葉にすることは似ているようで全然違う。でも苦手だからと避けて通れば一生苦手なままだ。そうしてまた彼女を不安にさせてしまうくらいなら、私が変わらなければいけない。
「だから、思ったことは言うようにしたいの。いいことも、悪いことも、ちゃんと言葉にして」
すぐには無理でも、少しずつ。
「ありがとう」や「ごめんね」だけじゃなくて、今何を考えていて、どう感じたから、そうしたいのか。伝えることができたら次はどうすればいいのかを二人で考えて。
上手くやっていくために本音を隠すのではなくて、本音を言い合ってもなお上手くやっていける二人になりたい。
これが私の見つけたこの先も二人で居るための答えだった。
「……じゃあ、ひとつだけ言っていい?」
「なに?」
遠慮がちに声を上げた彼女に、早速? と少し嫌な予感を感じながら身構える。
初手から「もっと女子力上げて」なんて言われたら年単位で待ってもらわないとクリアできる気がしない。むしろ寿命までに間に合うかしら、などと真面目に考えていたら、
「梨子さんと、キスしたい」
繰り出されたのは反則級の必殺技。
首をちょこんと傾げて、困り眉を作り、目をうるうるさせて。私のブラウスの裾をちょっと掴んで、上目遣いで「だめ?」なんて、どこで覚えてきたのよそんな技。思ってすぐ、脳裏に犯人の顔が浮かび上がる。
──あの受付嬢、人の恋人に何を教えてくれてるわけ。
「ことりじゃないよぉ」と微笑みながらも首を振る南さんを睨んでみたけど、今度会ったら挨拶くらいはしていいかもしれない。
だってこんな彼女を見られるのは私だけの特権だから。
「そういうことは言わなくていいの」
吐き捨てると同時に唇を寄せる。
数日ぶりに交わしたキスは味なんてしないはずなのにひどく甘く濃厚で、漏れ出る吐息まで綿あめのような香りがした。
*
チン、とトーストが焼けた合図がした。香ばしい匂いがキッチンに広がったので焦がしてはいないようだ。
フライパンの上では目玉焼きとベーコンが二人分、良い焼き加減で行儀よく並んでいる。火を止めて、ちぎったレタスを乗せたお皿に移せば、朝食らしい朝食の出来上がり。
自分もこれくらいはできるんだなと低レベルな感動を覚えつつ、まったく起きてくる気配のない恋人が眠る寝室へと向かう。
ベッドの上で熟睡する彼女は、抱き枕代わりにしている掛布団に顔を埋めているせいで寝顔は見えない。すぅすぅとこもった寝息の音が窓の外から聞こえる蝉の鳴き声と一緒にメロディを奏でている。
ベッドに腰かけ、背中を向けている彼女の肩をぽんぽんと二回叩いた。
「おはよう。朝ごはんできたわよ」
「んぅ……ん?」
私と違って寝起きの良い彼女は一度声を掛けただけで目覚めたらしい。掛布団を抱き締めたまま、首だけこちらに向けて青い瞳をぱちくりとさせている。
「え、いま何時?」
「まだ8時だから安心して」
「アラームは?」
「起きたときに止めておいたわ。在宅中くらいもっとゆっくりすればいいのに」
六時半にセットされたアラームは目が覚めた瞬間に鳴り始めたので大音量で部屋に響く前に止めさせていただいた。うちの会社の始業は九時。出勤する必要のないこの時期くらい睡眠時間を増やせばいいのにと思うが、朝型の彼女には余計なお世話なのだろう。
そんな彼女が今朝に限って寝坊助なのは、きっと昨夜の夜更かしのせい。そもそもの原因はこの体力おばけがなかなか眠りにつかなかったことなので私に非はないはずだ。
「朝ごはん、梨子さんが作ったの?」
「他に誰が作るのよ」
焼く・煮る・炒めるくらいの基本動作くらいは私だってできる。些か失礼な物言いに顔を顰めた。
「……まさかこんな日が来るなんて思いもしなかったよ」
「あのねぇ、私のこと見くびりすぎじゃない?」
と言いつつも、これまでの実績は十分なのでこの件については私の分が悪い。深く突っ込まれる前にさっさと逃げようと「先に行ってるわね」とベッドから立ち上がる。
「ちょっと待った」
「え、…きゃっ」
立ち上がった瞬間に腕を取られ、バランスを崩した。咄嗟にベッドに手と膝をつくと同時に頭上からぱさ、と薄手の掛布団が落ちてくる。
朝の光が透ける布の中、いたずらな笑みを浮かべた彼女が目の前に現れる。
何が起きているのか思考が追いつかない私を置き去りにして、両頬に伸びてきた腕に引き寄せられるままに唇を重ねた。触れるだけのキスは、柔らかな感触だけ残してすぐに去って行く。
「おはよ。だいすき」
太陽みたいな屈託のない笑顔を炸裂させて、そのまぶしさで私の目を眩ませる。
なに、なに、なに、朝から人の心臓を止める気?
「な、何なのよ、急に!」
「だって、思ったことは積極的に言ってくスタイルなんでしょ?」
ケロっとした顔で「何か悪いことでも?」とでも言いたそうな彼女に、頭にかぶった布団を投げつける。
「だから、そういうことはっ」
「ちゃんと言おう? 梨子さんが言い出したんだよ」
言うべきことと言わなくてもよいことがあるだろうと、説き伏せようとする前に先手を打たれた。自分から言い出したと言われてしまえばそれ以上覆す理由は見つからない。
得意顔で「梨子さんの気持ちが聞きたいなぁ~」と期待する瞳が私を追い詰める。
あぁ、もう、なんで朝からこんなこと。
この場を切り抜ける方法を考えたけど、ここで逃げてしまえばこの先一ヵ月はこれをネタに恨み節を延々と聞かされるに違いない。「梨子さんが言い出したのに」と。
「……き、」
脳内で行われたせめぎ合いの結果、背中を押したのは「女に二言はない」という自分の信念。しかし、掠れた声が朝の空気を伝うには振動が足りなかったようで、私の渾身の一声は青空の下で大合唱している蝉の鳴き声に掻き消されてしまった。
「えぇ? 声が小さくて聞こえないなぁ」
耳に手を当ててそんな台詞を吐く彼女は明らかにこのまたとない状況を楽しんでいる。
「だから、……ってば」
「んー、もうちょっと大きな声出せるかな?」
幼稚園児を相手にするような態度に私の羞恥と苛立ちは最高潮に達する。
調子に乗るのもいい加減にしなさいよ。
「………っ」
「ん~まだ聞こえな、…ぅわっ!」
煽る彼女に先に折れたのは私の方。
難聴気味らしいその右耳を引っ張って、限界まで耳元に近付く。
「~~っ、好きだ、ばかっ!」
湿度の高い部屋に響くは蝉時雨と私の怒声、そして梅雨を吹き飛ばしそうなほどカラリとした彼女の笑い声。
こんな騒がしい朝、一人で生きていたら経験することなんて絶対になかった。
自分ではない誰かと、大好きな彼女と過ごす時間は、これまでも、これからも私の人生から切り離せないものになる。
「梨子さん、ごはん食べよう!」
今日は火曜日。週末までの道のりはまだまだ長いけれど、こんな風に誰かと過ごす朝も悪くない。
Fin.
'번역대기 > 요우리코 요일 시리즈' 카테고리의 다른 글
Holy Shit, It's Wednesday! (0) | 2020.09.03 |
---|---|
Sorry Honey, It's Thursday! (0) | 2020.09.03 |
Thanks God, It's Friday! (0) | 2020.09.03 |