きみに名前をつけるなら
너에게 이름을 붙인다면
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Our name
鞠莉はずっと、私にとって『親友』で、『幼馴染』で、『家族』で、『お姫様』だった。
鞠莉と初めて会ったときのことは、十年近くたった今でも鮮明に思い出すことができる。 そう、あれはまだ夏が始まったばかりの季節だった。小学四年生に進学した年、鞠莉は転校、と言うにはちょっと中途半端な時期に私たちのクラスに編入してきた。 私たちの住む内浦は良くも悪くも狭い田舎町で、とくに小学校は親同士の繋がりが強かったから、転校性がいるという噂は既に――鞠莉が実際に編入してくる前日には――クラス中に広まっていた。 しかも、その転校生は淡島に立つ高級ホテルのお嬢様で、どうやらハーフらしいという情報は、滅多に外から人がやってこない田舎の子どもたちにとっては大スクープで、朝礼が始まる前から恰好の話題となった。 「なんかね、その子アメリカ人とのハーフなんだって! お母さんが言ってた!」「えーちがうよ、イタリア人だよ」「いたりあ……?」「ねーねー、イタリアって何? どこにあるの?」「はあ? おまえそんなことも知らねーのかよー」どっと起こる笑い声。 私はと言えば、実はクラスで話題になる前から、その子が自分の住む淡島にやってきていることは知っていた。 その日、淡島に見慣れないヘリコプターが飛んできて磯で遊んでいた私の頭の上をぶうんと越えていった。 大きなプロペラの音をさせたそれは、「子どもは入ってはいけません」と小さいころから大人のひとにきつく言われ続けていたホテル(とは言いつつ、ときどきこっそり忍び込んでいたのは内緒だ)の方角へと飛んで行った。 そのことを夕飯のときおじいに嬉々として報告したら、おじいは「ああ、そりゃあ、きっと小原のお嬢さんだな」と呟いた。誰? と聞けばあの綺麗なホテルのオーナーの一人娘で、しかもその子は私と同い年らしいということだった。今朝とれたばかりのお刺身をつまみ日本酒を飲み干しながら、「お前のクラスに編入することになるだろうから、仲良くするんだぞ」と教えてくれたのだ。おじいは元網元のダイヤの実家とは私が生まれるずっとずっと前から親しくしていて、そのおかげでそういった情報も他の地元の人よりも少しだけ早く入ってくるのだった。 私もここ淡島に住んでいる子どもは内浦では私しかいなかったし、この島に来るのは大概大人のひとが多かったから、そのオハラノオジョウサンがどんな子かは分からなくても、やっと自分の住んでいるところに同い年の友達ができると思うととても嬉しかった。 だから、自然と、本当に自然と、その子に会いに行ってみようと思いついたのは何ら不思議ではなかったと思う。 放課後、その日は一日中わくわくしていて私は走って家に帰るとほとんど放り投げるようにしてランドセルを置き、ダイヤを連れてホテル・オハラに向かった。 黒澤家の長女としていつも大人の言いつけをきちんと守っていたダイヤはちょっぴり不安そうにしていたけれど、それでも私の掌をぎゅっと握って、子犬みたいにとことこ付いてきてくれた。なんだかんだ、ダイヤもその子のことが気になっていたのだと思う。 いつも忍び込んでいる船着き場のほうからぐるりとホテルの裏に回ると、たぶん厨房があるんだろう、なんだかすごくおいしそうな匂いが鼻をくすぐった。それに混じって温泉みたいなあたたかいお風呂の匂いもしてくる。 扉の向こうでは、従業員らしき人たちが忙しく動き回っている気配がしていて、私とダイヤは唇に人差し指をあてては、しー、と言うやりとりを繰り返しながら身体を伏せてそろそろと裏道を進んでいく。 今から思えば誰にも見つからず、あの場所まで行けたのはわりと幸運だったと思う。あのときはまだ観光シーズンではなかったから宿泊客も少なく、従業員のひとたちもあまり外まで出てきていなかったのだ。 おかげで、今までひとりのときも入ったことのないところまでずんずん進んでいくことができたのだけれど、肝心のその子はいつまでたっても見つからない。 このホテルは子どもは泊まれないはずだから、もしこの敷地内に私たち以外に子どもがいたらすぐに分かりそうなものだけれど、それらしい子はどこにもいなかった。 ついに開けた庭園まで出て来てしまい、すぐ傍はホテルのテラスだ。慌ててダイヤとふたり、噴水の影に隠れた。 さすがのダイヤも不安が大きくなってきたのか、「見つかったら怒られますわ」と私に囁いてきた。そろそろ帰りましょうと言いたげに揺れるダイヤを「平気だよ」と励ましてホテルのなかの様子を窺う。 とは言うものの、こっそりホテルのなかを出来る限り見渡してみても、子どもどころか人の影すら見えてこない。 ダイヤも不安そうだし、どうしようかな、と思いながらどうしても諦める気にもなれなくて、息を潜めていると。 「……?」 天使がいた。 いや、ちがう、女の子だ。とても、綺麗な。 目の前で私たちと同い年くらいの女の子が、こちらを覗き込んでいた。 こんなに近くにいたのに、どうして気付かなかったんだろう。 日本人離れしたふわふわの金色の髪、同じ色をした宝石みたいな瞳、真っ白なほっぺたは桜色に染まっていて、同い年、というにはとてもとても綺麗な顔をしていたその子。 「……What?」 女の子が首を傾げると、驚いたダイヤがぴぎゃっと飛び出してしまって、逃げるタイミングを失ってしまう。 あれ、どうしよう、たぶん、淡島にきたのはこの子だよね。外国のひとみたいだし、なんて言えばいいんだろう。英語かな、それとも違う言葉だったらどうしよう。予想外の鉢合わせにおろおろしていると、その子はくりくりした瞳を瞬かせて。 「……あなたは?」 あれ、日本語だ。 ふとそう思うも、まだ頭は混乱していて、とにかく何か言わなきゃ、日本語でもいいのかな。仲良くなるには英語のほうがいいんじゃないのかな、なんてことを私はその瞬間、いっぺんにぐるぐるぐるぐる考えていて――そう、私はこの子と仲良くなりたかった。ともだちになりたかったのだ。 「は、はぐ……」 私が思わずといったように零した言葉に、その子は不思議そうな顔をする。 そう、ハグだ、滅多に来ないけれど、外国からきたダイバーさんが挨拶にハグをしていたのを思い出す。おじいも、外国のひとがきたらそうやって挨拶してたんだ。おじいだってそんなに英語が話せるわけじゃないのに、ハグをするとみんなにこにこしてて、あっという間に親しくなっていた。私はそれを見て店の中から覗きながら、なんとなく、いいなって思っていて。 私はまだきょとんとしている子の前に立つと、ばっと腕を広げた。女の子がますます不思議そうな顔をする。 「ハグ、しよ」 小さな肩をえいっと引き寄せて、その身体をぎゅうと抱きしめた。 ああ、そういえば、あの頃、鞠莉は私よりもちょっとだけ背が低かったんだっけ。 鞠莉は私に抱き締められたまま、びっくりしたように固まっていたけれど、しばらくしたらおそるおそるといったように背中の服を掴んできて、そのことがとてもとても嬉しかったことを覚えている。 次の日、鞠莉はおじいの言っていたとおり、私たちと同じクラスに編入してきた。お姫様みたい、と誰かが小さく言ったのが聞こえる。鞠莉は緊張していたのか、口元を引き締めていたけれど、私が首を伸ばして小さく手を振って笑いかけたらびっくりしたように瞳をくるりと揺らした。 表情が緩んだ鞠莉に少しだけ嬉しくなる。 これが、私と鞠莉の、はじまりの季節だった。
鞠莉に出会ったときから、私の握る小さな手はひとりから、ふたりに増えた。 ふたりの掌をひっぱって、夜、淡島のてっぺんで星を見に行ったり、海に飛び込んで魚を見たり、帰りにはずぶ濡れになりながら痩せこけたおばあちゃんがきりもりする駄菓子屋に寄ってお菓子を食べたり、危ないことをするなとときどき三人でおじいに怒られたり、思い出せば思い出すほど、ダイヤの笑顔、鞠莉の笑顔、いくらでも溢れてはきらきらこぼれ落ちていく。 鞠莉の笑顔が好きだった。 私が手をひいて連れて行った場所、手に乗せて差し出したもの、ぜんぶぜんぶ鞠莉はとても嬉しそうにして、瞳を輝かせて笑ってくれた。 私がここに住んでいて、当たり前だと思っていたことも、どんなにささやかなことだって――たとえば、学校からの帰り道、ダイヤと三人で見た海に沈む橙色の夕焼けとか、ふたりで夜こっそり淡島神社まで登ってブランケットにくるまって一面の星空を眺めたこととか――鞠莉と一緒なら、それらはぜんぶぜんぶ特別なものに変わっていった。 でも、私はほんとうに、ただただ鞠莉に笑ってほしくて、それだけで一生懸命になっていたから。 そのことだけしか、考えていなかったから。 「ありがとう、果南」 だから、鞠莉がやっぱり私の掌をぎゅっと握って、まっすぐ私の瞳を見つめてそう告げたとき、とても、驚いてしまって。 「うぇ!? ど、どうしたの、急に……」 虚を突かれて目を白黒させながらしどろもどろにそう返すと鞠莉はふふ、と笑って。 「果南はいつも、特別な景色を見せてくれるから」 「え、と、そうかな」 「そうよ」 波の音、眩しい夕日、鞠莉の声、私が大切なものが全部混ざりあって、私の心をゆっくりと溶かしていく。 きゅっと掌を握られた。白くてやわらかくて私よりも細い、女の子の手だ。 「私ね、こんなに海が綺麗だなんて知らなかったの。夕焼けもそう。でもそれはきっと、果南とダイヤといるから、こんなに特別な景色に変わるのね」 そのことを、私は果南に教わったのよ。 私はどんな顔をしていたんだろう。きっと真っ赤になっていたかもしれない。だってこんなに頬が熱い。それは夕焼けのせいだけではないだろう。 「だいすきよ、果南」 鞠莉はそう言って、また笑った。私が大好きな笑顔で。 ねえ、鞠莉。 あなたはあのとき、ありがとうって言ってくれたけど、私のこと大好きだって言って、くれたけど。 たぶん、お礼を言わなくちゃいけないのは、大好きだよって言わなきゃいけなかったのは、きっと私のほうだった。 だってあのときの私はまだ幼くて、ずっと鞠莉と一緒にいられると思っていたから、それが当たり前だと思っていたから、言葉にできなかった。いつまでもこの手を離さずに生きていけるって、本当に信じていたから。 もし、鞠莉が望んでくれるのなら、私がいつだってその手を引っぱっていこう。 どこへだって、連れて行ってみせよう。 今日も明日も、その次の日だって、私はいつでも、きっとあなたを迎えにいくから。
「……果南さんは、本当にこれでよかったのですか?」 「それ、私がさっきダイヤに聞いたセリフ」 苦笑するけれど、誤魔化さないでください、とぴしゃりと言われる。厳しいなあ。小さいときはおどおどして、いつも私の影に隠れていたのに。 ふたりきりの生徒会室。放課後の少し寂しい空気だけが満ちている。さっき鞠莉に告げた、終わりにしようという言葉。三人の夢の終わり。覚悟して放ったその言葉は思ったよりも痛くて、私は鞠莉の目を見ることができなかった。 「うん、もう、決めたことだから。本当に、ダイヤには申し訳ないと思ってる。私の我儘でこういう結果に……」 「果南さん」 凛とした声に遮られた。 「貴女がどれだけの思いで鞠莉さんに告げたか、わたくしは分かっているつもりです。スクールアイドルだけが、廃校を阻止する道ではありません。わたくしは果南さんのためにも、鞠莉さんのためにも、その道を見つけてみせます」 だからどうか、あなたひとりで背負わないで。 その言葉はまっすぐ私の心に響いて、笑おうとしたけれど口元が引き攣ってうまくいかなかった。ダイヤはいつだって、私を否定せずに受け止めてくれる。その優しさが今は痛くて、悲しかった。 気付かないふりをしたけれどダイヤの声も、震えていたし、翠の瞳も潤んでいたように思う。 「鞠莉のためだから」 正しいと思って何度も何度も反芻してきた言葉は、いつのまにか私の心に深く深く刺さって抜けなくなってしまっていた。 どうして、と茫然としたように、泣きそうな顔の鞠莉に、三人で追いかけたはずの夢を終わりにしようと告げたのは私のほうのはずだったのに。 「鞠莉のためだから」 鞠莉には将来のために、やるべきことがたくさんあるでしょう。 鞠莉の世界はこんなところで広がりを止めてしまうような、ちっぽけなものではないでしょう。 たぶん、鞠莉は隠していたつもりなのだろうけれど、私は気付いていた。鞠莉が留学の推薦の話を断っていたこと。そのことで(英語だったから詳しいことは分からなかったけれど)お父さんと電話で衝突していたこと。 「鞠莉のため、だから」 鞠莉にそう言い聞かせていたのは私だったのに、いつのまにかその言葉は誰に向けての言葉だったのか分からなくなっていた。 終わりにしようと告げたときの鞠莉の顔が、脳裏にこびりついて離れない。衣装を見せつけてきたときの鞠莉の必死さ、本当は少し、嬉しかった。 そんな悲しい顔をさせたかったわけじゃない。 それがいちばん、見たくなかったはずなのに、でも私がそんな顔をさせてしまったから、私はもう鞠莉の顔を見ることができない。
「小原さんは海外留学のため、一学期が終わり次第、転校することになりました」 帰りのホームルームで担任が告げたその言葉にどくん、と心臓が大きく跳ねた。どくどくとやたらうるさく脳に響いて意識が暗く落ちていく。どうしてこんな気持ちになっているんだろう。どうして私はこんなに動揺しているんだろう。 だって私がいちばん、この知らせを喜んであげなければいけないんじゃないか。 すごーい。留学だって。しかも推薦らしいよ。どこにいくの? はーばーどってやつ? あんたそれしか知らないんでしょ。小原さん、頭いいもんね。すごいなあ。 ざわざわざわざわ。耳に届くクラスメイトの言葉がいちいち胸に刺さって抜けやしない。おかしいな。なんでかな。私がこの結果を誰よりも望んでいたんじゃないのか。鞠莉のためだ。鞠莉のためだ。鞠莉のためだ。 それなのに、どうしてこんなに心臓がうるさいままなんだろう。 「ね、果南」 ぐるぐる回る思考を引き戻したのは、私の後ろの席に座っていたクラスメイトの指先だった。ちょいちょいと遠慮がちに背中をつつかれる。 「果南、知ってたの? 小原さんが留学しちゃうって」 「……ん、まあね」 でも、いつから行くのか、どこに行くのかは知らなかったけど。という言葉はなんとかごくりと呑み込んだ。 スクールアイドルを終わらせて以来、私は鞠莉とほとんど顔を合わせていなかった。そもそも鞠莉は、自分の話はあまりしない子だったから、ひとりで何でも、できちゃう子だったから、うん、だから、そう、これはきっと、しかたないことなのだ。 「そっかあ……。でも寂しいね」 「ん?」 「だってさ……果南と黒澤さんと小原さんて小学校からの友達だったんでしょ。寂しいじゃん。せっかくずーっと一緒だったのにさあ」 「ん、まあ、そうだけど、さ」 大きく息を吸う。 言うべきことを言わなければ。 笑って、一番の親友に、ふさわしい顔をしなければ。 「鞠莉のためだから。これでよかったんだよ」 ああ、まただ。 また自分で発した言葉が、声が刺さって、どくどく血が溢れて、抜けなくなる。
その日、久しぶりに鞠莉と一緒に淡島に帰った。 橙色に染まった船と私たち。海に出れば穏やかな潮風が鞠莉のふわふわの髪をさらう。 「留学の話、びっくりしたでしょう、言ってなくてごめんね」そう笑った鞠莉に私はなんと返しただろう。きちんとおめでとう、よかったねと心から言うことができたかな。ちゃんと顔は笑っていたかな。 でも鞠莉はいつもどおり、私の好きな笑顔のままだったから。そう、これでいいんだと思った。 私のせいで一度はあんな顔をさせてしまったけど、それももう、おしまい。 今、鞠莉の目の前には、たくさんの可能性を秘めた広い世界が広がっている。 きっとそこで鞠莉はたくさんの人との出会いがあるだろう。そしてたくさん期待されて、それに応えて、私には想像もできないような、私には一生踏み出せないような高いところまで飛び立っていくのだ。 だから、私が鞠莉の手をひっぱるのは、これが最後。 あとは背中を押して、笑顔で送り出さなきゃ。 「……あのさ、鞠莉」 ん? と鞠莉が首を傾げた。 ああ、やっぱり、鞠莉は綺麗だな。あと何回、鞠莉の顔、見ることができるんだろう。何回、名前を呼ぶことができるんだろう。もう、その手を私は握ることができない。 「離れ離れに、なってもさ」 あなたはこれから、ここから飛び立って、そして私がいつも見せていた景色がほんのちっぽけなものだったことに気付くだろう。そんなことは分かってる。 でも、私は、ここから、ずっと動けないから。鞠莉とは一緒にはいけないから。 そんな景色に、ありがとうって言ってくれたあなたのこと、大好きだって言ってくれたあなたの言葉、私は一生大切にして生きていくから。 私はずっとここで、海のなかで、あなたのしあわせを、笑顔を、一番に願っているから。 「――私は鞠莉のこと、忘れないから」
「果南ちゃーん、おーい、だいじょうぶ?」 「ん? ……え?」 はっとして顔をあげたら鼻先がぶつかりそうなほど近くに千歌の顔があって、うわっと思わず飛びのいた。そこまでびっくりしなくてもいいじゃあん、と千歌が子どもみたいに膨れた顔をする。 まるで今まで別の世界に飛ばされてしまっていたみたいに頭がぼーっとしている。 いつのまにか私は千歌と曜に挟まれていて、その横には梨子ちゃんもいて、ダイヤも花丸も、善子もルビィちゃんも、そして鞠莉も。皆で並んで学校の前のほとんど暗くなった坂道を下っていた。目の前にはもう、バス停が見えている。 なんだか気恥ずかしくて皆の顔を見ることができない。特に鞠莉の顔は。 あれだけふたりで大泣きしたのだ。たぶん、目の周りはおそろいで真っ赤っ赤になっているだろうし、声も自分で分かるくらいには濡れている。 ほとんど空っぽの頭のまま、私たちは淡島への連絡船に乗りこんだ。バスに乗った記憶もほとんど曖昧で、なんだか意識がふわふわしている。千歌たちと何か言葉を交わした気もするけれど、なんだか曖昧だ。 すっかり陽も落ちて、海と空が藍色に混じる。 エンジン音をたてながら、船が淡島に向かって進んでいく。鞠莉と目を合わせられない。隣同士、こんなに距離が近いのに、何を話せばいいのか、分からない。 分からなかったけど、どんな顔をすればいいのかも私は思いつかなかったけれど、このままだとまた鞠莉が夜に溶けてどこかに行ってしまいそうな気がして、私はつい、その膝の上に乗ったままの鞠莉の掌をぎゅうっと強く握っていた。鞠莉が驚いた顔をする。 「果南……?」 「……っ」 こんなとき、なんて言えばいいんだろう。言葉が全然でてこない。ごめんね? それともありがとう? 次々陳腐な言葉ばかりが並んでは消えていく。 淡島に着いて船から降りても、私たちは繋いだ掌を離さずにいた。鞠莉の手は冷たいままだった。それはそうだ、さっきまでびしょ濡れだったのだ。今の季節はまだ夜でも暑いくらいなのが幸いだ。 波止場を渡り終わって、いつもならここでまた明日ねと左右に分かれるところまできていた。それでもどうしても、握ったこの手を離す気にはなれない。 でも何て声をかければいいんだろう。思いつく言葉はどれもなんだか陳腐だったり、間違いだったりするような気がして、口を開いたり、閉じたりを繰り返す。 「…………果南」 それなのに、沈黙を静かに裂いたのは鞠莉のほうだった。 先に何かを言わなければいけなかったのは私のほうだったはずなのに、鞠莉はそれをていねいに拾って、きゅうと私の指先を握り返す。 「……ね、かなん」 「……うん?」 鞠莉が私を呼んでいる。 じんわりその声が私の心に沁みてあたたかく広がっていく。握り返してくれた掌はちょっとだけ震えていて、頼りなくて、思わずその手を私のもう片方の手でかぶせるようにして握り込んだら、今度こそその瞳からはらはらと透明な雫がこぼれ落ちた。 「……私、帰って、きて、よかった?」 握った掌の上にぽたぽたと滴って流れていく。 そうだ、鞠莉に「戻ってきてほしくなかった」って言ったのは、他でもない、私だ。 あのとき、私は鞠莉の顔をどうしても見ることができなかった。 鞠莉を分かっていて傷つけることになるであろう事実に卑怯にも耐えられなかった。 だから、私は今、鞠莉のこの涙を目に刻まなければならない。受け止めなければならない。 「……鞠莉」 「か、かなん」 「鞠莉」 握った掌をほとんど乱暴に引き寄せて、思い切りその身体を抱き締めた。鞠莉の身体は、私よりも背が高いはずなのに、どうしてか小さく思えてしまう。 鞠莉の匂い、鞠莉の体温がまざって、私の身体に、肌に溶けていく。あなたの生きている鼓動を、呼吸を腕のなかで感じている。 たくさんのことを全部、いっぺんに考えた。 これまでの鞠莉との思い出、私の記憶と思いがスライドショーのようにざあっと脳裏を流れていく。 鞠莉と出会った季節、初めて三人で海に潜ったときのこと、ふたりで見た星、大人びた鞠莉の横顔、短くとも夢のように楽しかったスクールアイドルの時間。 私は鞠莉にずっと笑っていてほしかった。 こんな狭い世界にしかいられない私の隣なんかじゃなくて、もっと広い世界に飛び立ってほしかった。鞠莉のことが誰よりも大切だったから、大好きだったから。 そう、もし本当に好きだったのなら、なおさら、鞠莉のしあわせのことを考えるべきだ。彼女の将来のことを想ってあげるべきだ。 鞠莉のため、と呪文みたいに繰り返して、その言葉はいつしかまるで本当の呪いみたいに私を捉えていた。 でもそれが間違っていたとは思わない。思わないけれど、でも、もう、私は。 「――私も、鞠莉とずっと、一緒にいたかったよ」 ふたたび、抱き締めることができた鞠莉を、私はもう、離すことなんてできない。 「ほんとうは、どこにも、いかないでほしかった」 だって、寂しかった。鞠莉がいなくても平気だなんて、鞠莉が私のことを忘れてしまっても、私だけは鞠莉のことを覚えてるから平気だなんて、そんなのはひどい嘘だった。 平気なわけがない、耐えられるわけがない。それでも、それが鞠莉のためだと思っていたから、誤魔化し続けてきただけなのだ。 「鞠莉とずっと一緒にいたかった、私だけじゃない、ダイヤだって! あの頃みたいに、三人でずっと、一緒にいられたら…って」 「……果南」 視界がぐにゃぐにゃ揺れて、また熱いものが瞳から零れ落ちる。涙って、こんな簡単に出るものだったっけ。 ぎゅうぎゅう、苦しくなるくらい、自分でも息ができないくらいに、腕まで痛くなるくらいに、鞠莉を抱き締める。それでも全然、たりなかった。 鞠莉はもっと苦しかったかもしれないけれどそれでもこの力を緩める気にはなれなかった。 「……鞠莉、大好きだよ」 わがままでごめん。自分勝手で、ごめん。 だめな親友で、ごめん。 しっとり湿った鞠莉の背中、制服をくしゃくしゃになるまで強く握る。ずっと言いたかった言葉、言えなかった言葉、それらを全部、ひっくり返してぶちまけてしまった。 「……っ果南」 ごめんね、と続けようとした言葉は、呼吸とともに私の喉の奥に消えてしまった。 鞠莉が私に負けないような力で思い切り抱き締め返してきたから。 「果南っ……わたしも、ずっと、会いたかった……!」 そうして、私たちはまたここでもみっともないほど、声をあげて泣いた。 ただいま、おかえり、だいすき、たったこれだけのことを伝えるのに、こんなに時間がかかってしまった。 大好きだったからこそ、言いたくて、でも言えずにいた言葉たちは、きっと私たちだけでは伝えることができなかった。 ダイヤに支えてもらって、千歌たちに背中を押してもらって、ようやくここまでたどり着いた。
今日は一緒に寝て、という鞠莉のお願いに、もちろん拒否する理由なんてない。ふたり手を繋いでホテルへの道を歩く。 身体の水分がなくなるんじゃないかというくらい泣いたあと、身体を離して、お互い真っ赤に腫らした目に思わず吹き出した。きっと明日はひどい顔だ。でもきっと、最高の朝になることは分かっている。 だって、明日からはまた、隣に鞠莉がいてくれるから。
『親友』であり、『幼馴染』であり、『家族』でもある、あの子とのお話は、これでひとまず一区切り。 そして、これから私とあの子の関係は、親友、という名前から、べつのものに変わっていくのだけれど。 そしてそこまで到達するのに、また皆を巻き込んで、ひと騒動を起こしてしまうのだけれど――。 それはまた、別のお話。
ガラスにうつる、あなたとわたし
穏やかな日曜日の午後。 鞠莉の部屋のベランダでルームサービスで持ってきてもらったレモンスカッシュを飲みながら海をぼうっと眺めていたら、不意にカメラのシャッターの音が耳に届いた。 そちらを見ると同じく私の向かいでコーヒーを飲んでいた鞠莉が嬉しそうにスマートフォンをこちらに向けている。 「ちょっと鞠莉ってばまた勝手に撮って。私の写真を自分のインスタグラムに載せるのやめてよね」 「いいじゃない、キュートなんだから。それに果南があんまり自分のアカウントを更新しないのが悪いんでしょ? この間もダイヤに怒られてたじゃない。宣伝もスクールアイドルの活動のうちですわ!って」 「鞠莉ってダイヤの物真似は無駄にうまいよね……、ってそれはそうかもだけど鞠莉の場合自分で楽しんでるのもあるじゃん」 私は正直、写真というものがそれほど好きじゃない。 人を撮ったり、景色を撮ったりするのは好きだけれど、その対象が自分になるとなんとなく乗り気になれない。 それに比べて、鞠莉はけっこうこまめに自分のインスタグラムを更新している。自分で楽しんでるのもあるんだろうけれど、鞠莉はファンサービスをすごく大事にしている部分も大きいだろう。そういう点では見習わないとなのかな、とは思うのだけど。 「んー、楽しいのももちろんあるけど。やっぱり果南の写真は特別よ? やっぱり、恋人の色んな顔をたくさん持っておきたいって思うのは当然じゃない」 なんて、不意打ちでそんなことを言われてしまうと、なんと反応したらいいのかわからなくなってしまう。熱くなってきた頬を誤魔化すように視線を逸らした。
*
む、と黙ってしまった果南にそっとほくそ笑んだ。この勝負はマリーの勝ちね。一本とったってやつ。 巷で流行っているのもあって、Aqoursも最近インスタグラムを始めた。Twitterでの宣伝も考えたけれど、やっぱりまだ高校生だし、インスタグラムのほうが気が楽だからということでメンバーそれぞれアカウントをもつことになったのだ。 今のところ一番更新が多いのはヨハネと曜、次点でルビィかな。ヨハネはもともとSNSに慣れているのもあったし、始めた頃は「こんなリア充アプリをインストールすることになるなんて」と感激していた(意味はよく分からなかったけれど)。曜とルビィはやっぱり制作途中の衣装とかの写真を載せるのが大きい。梨子やダイヤは真面目にスクールアイドル活動の報告みたいな形で投稿している。花丸はそもそも機械にあまり慣れていないから更新は少ないけれど、ときどき自分が読んだ本のことなんかをアップしているし、千歌っちはメンバーの練習風景の写真を上げることが多い。 果南はと言えば予想通りというか、投稿するものは海の写真が多くて、「これ全部同じじゃない」っていうヨハネのコメントにどう違うのか細かく説明したりしてた。 だけどあんまり海の写真ばかり載せるものだから、こうして私やダイヤがときどき果南本人の写真を撮ってはアップしているというわけだ。 「ほら果南みて、もうLikeが千超えてるわよ。見る?」 「えー…いいよ恥ずかしいし…ていうかじゃあ私も鞠莉撮らせてよ」 「なんで私の撮るのよ、まず自分を撮りなさいよ」 「だってなんか自撮りってうまくできないんだもん……よし、撮れた」 「ちょっと、いつのまに…」 「鞠莉だってさっき勝手に撮ってたじゃん。……これでよし。やっぱり、鞠莉はかわいいよね。どんなシーンでも絵になるもん」 「……は、」 「ん? なに?」 「……………………なんでもないわ」 この天然頑固オヤジめ。 いっそマリー・トップシークレットフォルダにある果南の可愛い寝顔の写メでも投稿してやろうかしら。(裸だから絶対やらないけど) 「だって投稿するにしてももっといい写真あるでしょ、こないだ沼津にデートしたときの写真とか」 「やだ」 「Why…?」 「だってあの鞠莉は私のものだから、そんなところに投稿したりしないよ」 「……果南ってたまにそういうところ、めんどくさいわよね…」 えっと驚く果南に思わずこめかみを抑えた。 たまに果南のもつ常識が分からなくなる。 それからも果南はぱしゃぱしゃと私に向かってシャッターを切っては次々と投稿していって、だから自分の写真をあげなさいよ。なんのためのアカウントなの。 けれど、たまにはこういうのも悪くないか、と私も負けじと果南に向けてシャッターを切って、保存、投稿、を繰り返していく。 面白半分で始まったそれは次第に白熱し、タイムラインがすっかり私と果南の写真で埋め尽くされ、ダイヤからいい加減にしなさいというコメントとLINEのメッセージから届くまで撮影大会は続けられた。
いっぽう、インスタグラムでは同時に投稿され続ける互いの写真に、一部のファンが大層盛り上がっていたことは、本人たちには知る由もない。
ハンプバック
誰かが、扉をたたく音がする。
高校二年生に進級したその年の夏、幼馴染の松浦果南が風邪をひいた。 黒澤ダイヤがそのことを知ったのは、朝のホームルームが始まるほんの少し前のことだった。 もうすぐ夏休みが始まるからか、どこか浮足立った空気に包まれていた教室の扉ががらりと開いて初老の担任教師が顔を出した。突然の教師の来訪にクラスが一瞬ざわりとどよめく。 黒澤はいるか、と控えめにかけられた声に反射的に返事をして立ち上がった。クラスメイトのどこか好奇を含む視線に追いかけられながら聞けば、先ほど幼馴染が風邪を引いたので欠席させると彼女の祖父から連絡があったらしい。 ――それでな、黒澤。悪いんだけれど今日の帰りに松浦の家に寄ってくれないか。進路希望の用紙を夏休みが始まるまでに提出してもらわないといけないんだ。……ほら、お前たちはたしか。 幼馴染だったろう、という教師の言葉に、一瞬、返すことができない。 担任は複雑そうな表情を浮かべていて、同情や気遣いなどといった色が見て取れて思わず溜息をつきそうになった。こんなとき、大人の顔色にやたらと敏感なのも考えものだと思う。 その視線に若干居心地の悪さを覚えながらも承知いたしました、と笑顔で丁寧に返せば、担任はほっとしたように笑って、また朝礼で、と去って行った。 教室が再びざわめき始める。けれどダイヤは席に戻る途中、クラスメイトが好き勝手に談笑しながらも、視線はこちらを追いかけてきていたことに気付いていた。 担任の向けていたものと同じ、同情と気遣い、そして好奇が混じったそれ。もし視線にも重さというものがあるのだとしたら、きっと身体が曲がるほどのしかかってきているに違いない。また、溜息をつきそうになった。 幼馴染の果南とはここ数日、会話らしい会話をしていない。きっとクラスメイトの視線にはそのことも含まれているのだろう。女子はクラスのなかの人間関係に敏感だ。 誰もが口に出さなくなってしまった、あのひとの名前。 本当は、ここにもうひとり、いるはずだったのに。 胸にぽっかりと空いた穴は、いつになっても少しも埋まることはない。 ああ、そういえば、あのひとが内浦からいなくなってもうすぐ一年がたとうとしている。
放課後、ダイヤは一度家に帰り、お見舞いにと母から渡された蜜柑をもって果南の実家に向かった。実家でもあり、彼女の祖父がひっそりと経営しているダイビングショップは、いつにも増して人気がなく、玄関の扉には臨時休業の札がかかっていた。祖父ももう高齢で、さすがに看板娘なしに店を回すのは難しいのだろう。 果南の祖父はダイヤに気付くと、驚いたように目を瞬かせて、黒澤のところの……と呟いた。そして深々と頭を下げたものだから慌ててこちらもご無沙汰しております、と挨拶を返した。 彼女の祖父はよく黒澤家が主催する地元の会合にも出席していて、幼いころから見知った仲だけれど、ダイヤにも妹のルビィにも丁寧な態度を崩さない。 いくらこちらが黒澤の娘とはいえ、大人と子どもなのだからと前は少し後ろめたく思ったこともあるのだけれど、果南はそれを「おじいは真面目だからね、昔からダイヤの家にはお世話になってるみたいだし、尊敬してるんだよ」とのほほんと笑っていた。 果南さんの具合はいかがですか、と聞けば、祖父は日に黒々と焼けた健康そうな頬をぽりぽりかきながら、医者にはただの夏風邪だと言われたものの、昨晩から熱が下がらんので、と呟いた。 よかったら上がっていって、という祖父の言葉に甘えて、玄関をくぐる。幼いころから見知った家に、自然と足が果南の部屋へと続く階段を上る。古い木造の階段は足を踏み出すたび、みしみしと音をたてた。 ――小原の嬢ちゃんがいなくなってから……。 玄関先で、寂しそうに呟かれた祖父の顔がこびりついている。 ――小原の嬢ちゃんがいなくなってから、果南の奴、すっかり元気をなくしちまって……。儂には隠しとるつもりのようですけど。 どうかあいつのこと、よろしく頼みますとまた深々と頭を下げた祖父に、自分はどんな顔をしていたのだろう。
そっと、音をたてないように部屋の扉をあけた。果南は眠っているのか、かすかな寝息がベッドのほうから聞こえてくる。 この部屋を訪問するのも、もう何年振りだろうか。 幼いころはときどき泊まりにきたりもしたけれど、あのひとが内浦にきてからは、そちらの部屋のほうが広いという理由もあって、ここに来ることは少なくなってしまったから。 潮の香りがほんのりと漂うその場所は、記憶よりも少し色褪せたキャラクターが描いてある時計がかかっていて、本棚にも相変わらず海の写真集やダイビング雑誌(以前より数は増えたかもしれない)がずらりと並んでいた。 担任から預かった進路希望調査のプリントを、机の上に置いて、そっと果南の顔色を見やれば、まだ熱が高いのだろう、眠る果南の頬は真っ赤になっていて、呼吸はまだ少し苦しそうだ。 あのひとがこの場にいたら、きっと泣きそうな顔をして心配していただろう。果南がよくなるまで傍にいるとわがままを言って、わたくしや、果南さんのおじい様を困らすのだろう。 果南さんは果南さんで、あのひとがそんな顔をしていたら、きっと自分の具合が悪いことなんてそっちのけでおろおろするのだ。 その様子が容易に思い浮かんで、思わず笑みをこぼしそうになってしまって――すぐにかぶりを振った。 もう、あのひとはどこにもいない。 太陽みたいな笑顔も、甘い声も、きらきら光ったお姫様みたいな瞳と髪も。 いつだってあのひとがいる情景はすぐに思い出すことができるのに、それは泡沫のように浮かんでは儚く消えていく。 わたくしたちは失ってしまった。 わたくしたちの手で、何より大切なはずだったものを手放してしまった。 そっと果南の額にのせたタオルに触れるとそれは既にぬるくなっていた。起こしてしまうかもしれないと思いながらも放っておいていくことはできなくて、傍にあった洗面器に入った氷水でじゃぶじゃぶと浸す。 前髪をそっとよけて、汗に濡れた額を拭いてやると、やはり起こしてしまったのか、ん、と呻き声とともに眉が顰められた。 ゆっくりと瞼が開かれて、綺麗な黎明のような瞳が覗いた。熱のせいでぼんやりしている視線に小さく「果南さん」と呼べば、何度かまばたきのあとようやく瞳がぶつかって。 「……だいや?」 「はい。……すみません、起こしてしまいましたね」 「ううん……、でも、どうして」 「先生からプリントを預かりましたので。机の上に置いておきました。具合がよくなったら見ておいてくださいね」 「そっか……、ありがと」 「いえ……」 かちかちと時計の針の音と、熱を孕んだ果南の呼吸だけが響いている。沈黙が痛い。 こんなとき、自分たちはいったいどんな会話をしてきたのか、ダイヤはうまく思い出すことができない。 そもそも、果南と一緒にいるとき、しいて何かを話そうとわざわざ考えたことなどきっと一度もない。 果南とあのひとの隣にいると、言葉は自然と喉から滑りおちてきた。それはふたりにとっても同じだったようで、まじめなことからくだらないことまで何でも思いついたことは、ぽんぽんと投げては返し合った。 果南とあのひとは、ときどきキャッチボールというよりはどちらかと言えばドッジボールに近いのではないかという会話もしていたけれど、そのやり取りはいつだってふたりの絆の深さを象徴する儀式のようなもので、それを一番の特等席で聞いているのも巻き込まれるのも、とても幸せだったのだ。 だから、今何を話すべきなのか、今さら果南とどう話せば良いのかダイヤは分からずにいた。あれほど一緒にいたというのに、分からないということにも傷ついたが、かと言って、この人の前で話題を絞り出すというやってみたこともないことを、今ここで初めてやってみよというのも度台無理な話だ。 果南は熱の所為もあるのか辛そうに目を閉じていて、起きているのか、もう眠ってしまったのか分からない。 そろそろお暇しなければと思いながら、声をかけるべきか、かけずに出ていくべきかということすらもダイヤには分からなかった。もしかしたら、果南はもう、話もしたくないかもしれない。 そう考えると、ますますダイヤはどうしたらいいのか、分からなくなる。 からん、と氷が揺れた音が静かな部屋にいやに大きく聞こえてしまって。 「……ねえ、ダイヤ」 沈黙のなか、先に声を出したのは、果南のほうだった。まだ少しぼうっとした声で、それでも確かに果南はダイヤの名前を呼んだ。アメシストの瞳がダイヤを映す。 ああ、そういえばこのひとはそんな声でわたくしのことを呼んでいたのだ。なんだか泣きたくなるような痛みと、懐かしさと嬉しさでその瞳を見つめ返す。 「……ダイヤ、……あの、さ」 ひとつひとつ、かみしめるように、果南は言葉を紡ぐ。 思わず布団に放り出されたままだった果南の掌をぎゅうと握る。その掌はまるで燃えているように熱くて、けれどそれはただ熱のせいだけではないと思えてしまって。 「…………鞠莉、は」 絞りだすような声に、一瞬、息が。 だって、果南が彼女の名前を口にしたのは、一年前、彼女をこの淡島から見送ったときが最後だったから。それ以来、果南があのひとのことを話すことは日に日に少なくなっていった。 わたくしも、果南さんも、あのひとのことを忘れたいわけではない。いや、忘れようと思っても、忘れられるはずがない。 ただ失ったものが、自分たちの想像していたものよりも、覚悟していたものよりもずっとずっと大きかったのだ。捨ててしまうにも、いっそ忘れてしまうにも、それはあまりに大切すぎるものだった。 その悲しみを、寂しさを、悔しさを、共に受け止め分かち合うには、果南もダイヤも幼すぎたのだ。 震える口元が歪む。 泣きそうだ、と思った。 「まり、……げんきに……してるかな」 掌が、強く強く握り返される。 やはりこのひとは、ずっとずっと想い続けているのだ。 そうでなくては困るでしょう、といっそ強く、笑って返すことができたらよかったのに、ダイヤにはそれができない。果南がどれほど心を殺して、あのひとを送り出したか知っているから。 「……ええ、きっと」 痛いほどに握りしめられた掌を、負けじと握り返しながら、滲む視界を堪えながら応える。 「うん……、うん。そうだと、いいな……」 まるでうわごとのように呟いた果南は、少しだけほっとした顔をして、すうっと眠りに落ちてしまった。
「ダイヤ……、果南のこと、よろしくね。こんなこと、お願いできるのダイヤだけだから」 出発する日の前夜、黒澤家に挨拶にやってきた鞠莉はダイヤにそう懇願した。 それにダイヤは励ますようにして震える肩を強く抱き締めて「……わかりました」とだけ返した。それ以外に、この思いをどう形作れば良いのかが分からなかったのだ。 大切なひとを失くすのは、ダイヤとて同じだった。 鞠莉は今にも泣きだしそうに笑って、迎えにやってきた高級車の後ろに乗り込んだ。 それがダイヤが見た、鞠莉の最後の姿になった。 ふたりが笑っているのが好きだった。ふたりの笑顔を、一番傍で見ているのが何よりも幸せだった。 こんな結末を本当は望んでいたわけではない。 けれど、だからこそ、果南の選んだこの道を支えなければと、心に決めたはずだった、のに。
ぴとりと掌で果南の頬に触れた。 燃えるような熱は掌を伝って、身体中を駆け巡る。 自分ではあのひとの代わりにはなれない。代わりに支えることなんてできやしない。 いつだって、果南の瞳はあのひとの背を追いかけているのだ。どんなに忘れたふりをしていても、もう終わったことだよと笑っても、いつだって果南の心にはあのひとのための場所があって、その場所は他の誰にも埋めることはできない。 知りたくなど、なかった。 止まらない気持ちが扉をたたく。 何よりも大切で、大切だったはずなのに守ってきたはずなのに、うまくいかなくて、受け止めきれなくて溢れた想いはどうしてか、ひどくいびつな形をしていた。 そう、わたくしは、ふたりが大切で、ふたりが笑っていてくれたことが一番のしあわせで、ふたりがぎゅっと握ってくれる掌が優しくて、そして果南さんが、あのひとを見つめるまっすぐでいとおしげな瞳が―― どくどくと耳の奥まで響く脈打つものは鼓動か、それとも、別の何かなのか。 果南の頬にすべらせた指先が唇にあたる。呼吸が、熱が指先に触れて、息ができなくなる。 今にも触れてしまいそうな距離で、それでも触れることは叶わぬまま、いびつだと分かっていながら、その言葉を静かに口にする。
「わたくしが、あのひとであればよかったのに」
ぼとりと不恰好に、あるいは凶悪に落ちてきたそれは、渦を巻いてせり上がる。 それは瞬く間にどろどろどろどろ溢れて、わたくしのすべてを覆い尽くそうとしていた。
きみを得る
さみしさという感情を、私は鞠莉から教わった。
夜のとばりが降りた住宅街をひとり歩く。 建ち並ぶ家々からはぽつぽつと明かりが漏れていて、けれど夕飯を食べるには少し遅すぎるこの時間は灯りがついていてもなんとなく静かで胸のなかがすんとするような気がする。 ときどき、駅のほうから歩いてくるくたびれた顔のサラリーマンや、酔っぱらっている大学生とすれ違いながら、パーカーのポケットに押し込めたスマートフォンをぎゅっと握りしめた。 都会の片隅にあるこの街の夜は、実家のある淡島に比べて当然だけれどとても明るい。いくら静かになってきた時間とはいえ、外灯は夜のあいだじゅう煌々と点いているし、少し駅のほうまで行けば二十四時間営業しているコンビニはいつも人が夜食っぽいものを手にして手持ち無沙汰にうろうろしている。 それでも、歩きながら家々の窓の明かりをなんとなくいちいち気にしては心を動かされてしまうのは、きっと高校一年生の、鞠莉と離れ離れになったあの期間に繋がっているのだと思う。 あのころ。ダイヤと鞠莉との三人の夢であったスクールアイドルの活動を一度諦めたあの季節。 鞠莉は留学のために淡島を飛び立ち、ダイヤはもともと次期生徒会長候補と言われていたこともあって、生徒会の引き継ぎ業務にかかりきりになった。スクールアイドルという道が閉ざされたなら、それ以外の方法で廃校を阻止すると意気込んで。 そして私はといえば、親友と目標を一度に失い、蟠る思いをごまかすように、家業の手伝いを言い訳に時間さえあればずっと海に潜っているようになっていた。 放課後はときどきダイヤの生徒会の業務手伝ったりすることもあったけれど、スクールアイドルの練習をしなくなってからはぽっかりと時間が空くようになってしまったから。 どうしてなんだろう。スクールアイドルの活動をしていたのはほんの少しの期間だったはずなのに、今また活動をする前の状態に戻っただけだというのに、胸のなかに吹きすさぶ冷たい風は止んではくれなかった。 私は今までどうやって過ごしてたんだっけ? その時間と心に空いた隙間を埋めるべく、私は家業の手伝いをする時間をより増やし、おじいに無理するなよと言われながらも、普段はそこまで積極的でないナイトダイビングの仕事も増やしていた。 これまで、こんなとき――何か悲しいこと、いやなことがあっても海に潜ればたいてい抜け出すことができた。 海はいつでもそこにあって、何も変わらず、綺麗なままで私を包みこんでくれていたから。 けれどどうしてなんだろう。海に潜っていても、呼吸がうまくできない。海のなかって、こんなに暗かったっけ、静かだったっけ。そんなことを思いながら、ますます心の隙間は大きくなっていくばかりで だって、声が聞こえてくるんだ。もういないはずのあの子の私を呼ぶ声が。 ――果南てば、ここに来るときは身体を拭いてきてっていつも言ってるじゃない! あとでスタッフに怒られるのは私なんだからね! はっと顔を上げる。ぽたぽた、ぽたぽた髪から頬から雫が滴って、唇に流れたそれはひどくしょっぱい。 どれだけ目を擦っても、耳をすませても、あの子はいない。分かっているのに私の眼はいつでも鞠莉を探しているのだ。 見上げたホテルの最上階、あの子の部屋を自然と視線がそちらに向いてしまう。 もうあの部屋の明かりは灯らない。私が懐中電灯で合図を送ってもあの子は嬉しそうに出て来てくれない。部屋に行っても、また廊下をびしゃびしゃにしてって怒りながらも、風邪ひいちゃうよってタオルでごしごし拭いてくれることも、そのままふたりベッドで眠って次の日一緒に登校するなんてことも、もうないのだ。 濡れたままの身体が次第に冷えていく。夏は終わったばかりとはいえ、夜には気温がぐっと下がる季節だ。それでも私は明かりのついていないあの子の部屋から目を逸らすことができない。 もう二度と明かりが点くことのない部屋に、私の失ったものの大きさ、鞠莉がどれだけ私の心を占めていたのかを思い知らされる。 名前を呼びたくて、呼んでほしくて、でももうそれは叶わない。 ああ、そうか。 ――私は。 きっとそのとき、私は生まれて初めて、さみしいっていうことを覚えたんだ。
ブーッと握りしめたスマートフォンが振動する。 タップして開いてみれば、「今○○駅です」という最寄り駅からふたつ手前の駅名と、やたら動くハートの絵文字がくっついて送られてきていた。 思わず口元に笑みが浮かぶ。 だって、今回は一か月ぶりなのだ。あの子が私のもとに帰ってくるのは。 そう思えば歩調が自然と速くなっていた。 早歩きになって、小走りになって。きっとあの子はそんなに急がなくていいのにって笑うだろうけれど、私が早く会いたいのだ。抱き締めたいのだ。 外灯の明かりが、家々の明かりが視界の端を掠っていく。 そしていつのまにか私は夜の街を全速力で走っていた。
「――果南!」 鞠莉は改札の外に私を見つけると、大きく手を振って、もう片方の手でスーツケースを引き摺りながら走ってきた。危ないよ、と苦笑しながら腕の中に飛び込んできたぬくもりを思いっきり抱き締める。 ああ、鞠莉の匂いだ。一ヶ月ぶりの鞠莉が帰ってきた。 鞠莉は大学を飛び級で卒業したあと、家業のホテルの仕事を継いでいた。 「継いだと言ってもまだパパの仕事に比べたらほんの少ししか担ってないけど」と鞠莉は大したことなさそうに笑って言っていたけれどそれでも私から見たら十二分に忙しそうにしている。世界のあちこち出張に行ったり社長代理で色んな会合に出席したり、講演を行ったり……。 今回の出張はちょっと長めで、ヨーロッパの、……どこだったっけ、よく知らない国の街に視察に行っていたらしい。上手くいけばそこにも新しくホテルが建ち、経営を任せてもらえるんだそうだ。 「果南、汗かいてる……、走ってきたの?」 「え、あ、うん」 私の胸に顔をうずめていた鞠莉が背中をさすりながら聞いてくる。ちょっと久しぶりに見るその上目使いでいうのはなんていうか、心臓に悪い。 「そんなに急がなくてもよかったのに。身体、ちょっと冷たい」 「え、大丈夫だよ。寒いわけじゃないし……、それに鞠莉に早く会いたかったし」 言われるだろうなと思っていたことをやっぱり言われて、安心させるようにまたぎゅっとぬくもりを抱え直した。 鞠莉は心配そうにしながらも、やっと嬉しそうに笑ってくれて、背中に回った手が私のパーカーをぎゅっと掴む。 たくさんおみやげがあるのよ、と帰ってきて笑う鞠莉は、滅多に疲れた顔を見せたりはしない。 女性で若くて、社長令嬢で色々と風あたりが強いこともあるだろうけれど、鞠莉はそういう話もあまりしなくて一時期は私って頼りがいないのかな、なんてダイヤに相談したこともあった(そしたら思いきり溜息をつかれてしまった)。 そんな鞠莉は仕事から帰ってくると、必ずハグをねだる。 果南とのハグは私にとっての心のクリーニング(発音が良い)なのよ、なんて言って。 だから私はそのときぎゅっと抱きついてくるぬくもりに、擦り寄る心地よい重さに、私は何も言わない鞠莉の代わりに色々と推しはかるようにしているのだ。 今日はちょっとハグが長かったから嫌なことでもあったのかな、とか。いつもより体重をかけてきてるから疲れているのかな、とか。体温がちょっと高いから眠いのかな、とか。おまけで頬にキスなんてしてきた日はきっと仕事でいいことがあったのかな、とか。 そうして、私が鞠莉の荷物を持って、もう片方の手でその白い右手を握って、ふたりで住むマンションの一室に帰るのだ。 玄関に入るとハグとともに、今度は鞠莉からただいまの熱烈なキスが贈られる。初めは恥ずかしくて顔を真っ赤にしてからかわれたりしていたけれど、さすがに最近は慣れてきてお返しにと私もその唇を甘噛みする。 果南が慣れちゃってつまんなーいなんて言うけれどその顔は膨れつつもどこか嬉しそうだ。 玄関の靴箱の上には、今まで鞠莉が色んな国に行ってきた際に買ってきたよく分からない現地のシンボルだかなんだかの小さな置物がたくさん並べて置いてある。きっと今日もまたひとつ、ここに新たな仲間が加わるのだろう。
とりあえずスーツケースからどっさり洗濯物を洗濯機に押し込んだ鞠莉に先にお風呂に入っておいでと送り出し、私はそのあいだに遅めの夕飯の支度をする。 支度といっても、鞠莉を迎えにいく前にはほぼほぼ出来上がっていたので、あとは魚を焼いてお味噌汁を直前であたためなおすくらい。 日本での出張だったらそこまで気にすることはないけれど、こうして海外出張から帰ってきた日は必ず和食を準備すると決めている。豪華なものはどうせ向こうでたくさん食べてくるだろうから、帰ってきたときくらいはシンプルで優しい食事をとってほしい。 実際、「果南のお味噌汁を飲むと家に帰ってきた感じがする」ってとても喜んでくれるから、私も嬉しいし、鞠莉が帰ってきてくれたんだなあって感じることができる。 そうしてふたりで使うには少し大きめのテーブルにかちゃかちゃ食器を並べて、お味噌汁がことこと音をたて始めるころに、ほかほか体温になった鞠莉がシャンプーの香りをさせながら、ワオ、いい匂い! と目を輝かせながらリビングに入ってくる。 そうして一か月ぶりの一緒の食事は、いただきますという私たちの息ぴったりの号令で始まるのだ。
お風呂に入ったあと、鞠莉に髪を乾かしてもらってふたりでシーツに潜る。ひとりで眠るにはやっぱり少し広すぎるベッドはふたりで寝転がるとちょうどよくて、そんなところで私はまた鞠莉が帰って来てくれた喜びを知る。 電気を消して、今日は鞠莉も疲れているだろうしもう寝ようかどうしようか迷っていると、なんだかやたら身体の熱い鞠莉が突然覆いかぶさってきて、甘えるようなキスが降ってくる。果南、と闇の中で猫みたいな金色の瞳が揺れ動いて。 「……いいの?」 頬を撫でて最後の確認をする。私だってできることなら一か月ぶりの鞠莉にいっぱい触りたいし、声も聞きたいけど、やっぱり無理だけはしてほしくないから。 「……あのね、果南」 「うん」 「私、明日からお休みをもらってるの」 「え」 どれくらい? と思わず上擦ってしまった声に「一週間」と鞠莉が嬉しそうに笑う。 「最近、ずっと出張が続いてるのもあったし、今回の視察でプロジェクトが一段落したの。あまり果南とも一緒にいられなかったから補給もしたくて」 私はといえば、突然飛び込んできた嬉しい知らせに口をぱくぱくさせることしかできなくて。 だって、一週間だ。鞠莉が帰って来てくれただけでもじゅうぶんに嬉しいのに、一週間ずっと鞠莉と過ごせるのだ。鞠莉は私の気持ちを全て見透かしているかのようにふふふ、と笑ってさわりと太ももを撫でた。私のそれはすでに足のあいだでちょっとふくらみかけていて、熱を持ち始めていた。ばれていたみたいでちょっと恥ずかしい。 鞠莉はそんな私の唇にそっと触れて、 「だから、ね。果南も今は我慢なんてしなくていいのよ。好きなだけ、私にさわって」 ごくりと喉がなる。ほんとにいいの、とカッコ悪いくらい掠れた声で聞けば、今度は困ったように眉を下げて、笑って唇にキスを落とされた。 「そのために帰ってきたの」 鞠莉の服越しの肌の熱が伝わってじわりじわりと広がっていく。互いに短い息を吐いて、抱き締めあう。 ずっとずっとこうしたかった。 「果南」 最後のひと押しをもらって。 「……じゃあ、いっぱい、鞠莉のことさわる」 今度は私からその身体を引き寄せて、体勢を入れ替えれば、鞠莉の腕が私の首に回る。耳元で囁かれた甘い言葉に僅かな理性が砕け散った。 「うん、いっぱい、愛して」
「っあ、やだ、あ、かな、ん、…も、や、だ」 「……っう」 ぽたぽた、流れ落ちた私の汗が、鞠莉の肌に落ちていく。 鞠莉のなかからはまだ何も入れてもいないのに信じられないくらい溢れていて、腰に足が絡ませられるたびにべとりと私の太ももを濡らした。 久しぶりだから、せめて無理をさせないようにゆっくりしようと思っていたのに、それが逆に鞠莉のなかの熱を燻らせてしまったらしい。 私は私で、気遣いのつもりであったのに、焦れた鞠莉がなんとか快感を逃がそうと私の身体に触れてきたり、自然と腰を押し付けられたりしていたら、ひどく煽られてしまって、結局まだ鞠莉のなかには何も入れないまま、触れるか触れないかぎりぎりのところを保っていた。 でもそれもこれも、全部鞠莉が可愛すぎるせいなのだ。そういうことにしておいてほしい。 「ぁ、あぅ、っ、かなん、も、やめ…っ」 「……やだ、もうちょっと」 ほんとうは私だってこの膨らみきっているこれを鞠莉の中に埋めたくて味わいたくて仕方ないのだ。 でも今はまだ、鞠莉のこのかわいい反応をもっと見ていたいっていう気持ちのほうが少しだけ強い。 今はまだ、ね。 「――あッ、も、かな、…やだ、ぁ、っ」 びくん、と腕のなかのやわらかい身体が震えた。私の指先が、とろとろ溢れる入り口に触れたからだ。どうやら小さくいってしまったらしい。 私をほしがってびくびく震えるそこを刺激しすぎないように撫でればそれはどんどん指先に絡みついてくる。 「……う、わ、鞠莉、すごい……」 「っ、も、やだ、っ…はや、く…ぁ、」 「ん、……ちゃんと、言ってよ、鞠莉」 そしたら、鞠莉がほしい指、いれてあげるよ。 ぽろぽろ目尻から零れる涙をなめとって、口付けて囁く。 はあはあとつらそうに息を吐く鞠莉の表情はとろけきっていて、いつだって私の劣情を煽る。 ぞくぞくと自分の限界も近く感じながら、入り口の上にある膨らんだ蕾を押してはやくはやくと誘うように唇を舐めれば、ぐっと身体が引き寄せられて、余裕をなくした声が私の鼓膜をたたいた。 「…っ、いれ、て…っかなん…」 「……ん、いいよ」 返事とともにぐぐ、と指を薦めた。いつもは一本ずついれて慣らしているけれど、今日は二本、いっぺんにいれた。鞠莉は細いほうよりも太いので奥までじっくり進められるのが好きなのだ。 案の定、なかの肉が嬉しそうに私の指に絡みついて、蠢いて奥へ奥へと誘っていく。 「んっ、あぁ、あ、き…もち、ぃ、…ぁ」 ぐっぐっとリズムよく奥を叩くたびに鞠莉の口から甘い声があがる。抜こうとするたびに逃がすまいとずるずる肉が追いかけてきて、鞠莉のすべてが私を求めてくれているようで嬉しくなる。 「ぁ、ぅあっ、あ、も、かな、ん、…だめ、っぁ!」 「…うん、……っは、鞠莉、いつでも、いいよ」 ぎゅうと苦しいくらいにしがみつかれて、そろそろ本当に限界かな、と感じて、入れたままの指の動きを速くする。 いつでもいいよ、ぜんぶ受け止めるよ、と思いをこめて。 「っぁ、あ、かなんっ、んぁっ、あ!」 「ん、」 「――ッあ、ぅ、ああ、っ」 びくっびくっと魚のように身体を跳ねさせて鞠莉はいった。ずるりとなるべく刺激が強くならないようにゆっくりと引き抜けば、掌は鞠莉のものでべたべたになっていて、思わず舌で舐めとった。鞠莉の味がする。 「…っは、ぁ…ぁ、ちょっと、…やめて、それ……」 「なんで? おいしいよ」 「……かなん、味覚障害?」 なんてばかみたいなやりとりをしていたら少し落ち着いてきたらしい鞠莉がくすくす笑う。 真っ暗い部屋でふたりただ名前を呼びあったり、肌に触れあったりして、鞠莉の呼吸がおさまるのを待つ。瞼にキスすると、とろんとした蜂蜜みたいな瞳が私を映している。 「鞠莉、ねむい?」 「……ぅん」 「じゃあ、今日はもう寝よう?」 私のことは気にしないでいいから。明日からも、時間はたっぷりあるのだ。鞠莉と一日中だってきっとくっついていられる。 そう思っていたのに。 「っ、まり?」 鞠莉の掌が私の腰を撫でて、膨らみきって苦しそうにしているものに触れた。指先が掠めただけなのに、それは意思に反してどくんと大きく反応してしまって。 「……かなん、くるしそう」 「え、あ、でもまあ、私はなんとでもなるから……」 そう、別にひとりで処理できるし、ただでさえ疲れている鞠莉にこれ以上無理はしてほしくない。今日はもうおしまいにして、また明日ゆっくり休んでからでもいいじゃないか。 そう思っていたのに。鞠莉はちょっとむっとしたように眉を顰めると、何を思ったか私のそれをおもむろに掴むとぎゅっと軽く握ってきた。 「ぅ、わっ、ちょっと、鞠莉!?」 「果南のばか」 我慢しなくていいって言ってるのに、と私のそれを握ったまま呟く。いきなりの刺激に少し落ち着いていたはずの熱がまた渦巻き始めた。 「…っ、あ、鞠莉、むり、しなくていいからっ」 「無理なんてしてない」 「で、でも…っ」 「かなんがほしい」 そんなことを、そんな甘い瞳で、声で、言われてしまったら。 じんじん、下半身に熱が溜まって、それがじわじわ広がっていく。息があがって、がらがらと脆い理性が音をたてて崩れていく。握られているそれからはもう、先走った液が溢れては鞠莉の掌を濡らす。 それを見て、鞠莉がくすりと笑って。 「……ね、今日は、果南が下にきて」 「え」 どういうこと、と聞き返す前に肩を強く押されてぽすんと背中がベッドに沈んだ。反応する間もなかった。 戸惑っている私の上にいつのまにか跨った鞠莉は、私のそれを掴むと自分の位置に合わせて押し当てた。 一度落ち着いたと思っていたはずのそこはまたしとどに濡れそぼっていて、火傷しそうに熱かった。押し当てられた私のものがはやく鞠莉のなかに包まれたくて、入りたくて震えてしまう。 「かなんのこれ、すごい……、もういれたい?」 どこかで聞いたような台詞を鞠莉が零す。さっきと立場が逆になってしまったみたいだ。 鞠莉はそのまま入れずに煽るように腰を揺らして擦り付けてきて、ほとんど限界だった私の目の前は強すぎる刺激に白い火花がばちばちと散った。 「ぅあ、っ、あ、まり、っ、あ」 「ふふ、…ぁ、かなん、かわいい」 ぬるぬると擦り付けられて、それがいやらしい音を立てて、鞠莉がとろけきった顔で見下ろしてきていてもうどうにかなりそうだった。 鞠莉を気遣っていた理性はもうはじけ飛んでしまって、もしかしてそれが鞠莉の策だったんじゃないかって都合よすぎることまで考えてしまって。 「っあ、まり、も、むり…っだから、いれて…っ」 「…ぅん、…かなん、かなん」 蜂蜜がこぼれてきた、と思ったら唇が重なっていてやわらかくてあたたかい塊が私の口のなかを舐めて離れていく。 鞠莉は器用に片手でその位置に合わせると今度こそゆっくり腰を落とした。 痺れるようなやわらかな快感にじっくり包まれていく。 「う、ぐ、…っあ、まり、やば…っ」 「っは、ぁ、あ」 ずぶずぶと埋まって久しぶりに感じる鞠莉のなかはやっぱりとんでもなく気持ちよかった。まだ動いてもいないのに、なかはまるで別の意思をもったように私を奥へ奥へと導いていく。 「ぁ、はあ、あ、」 「ふふ、かなん、きもちよさそう……」 なんでそんなに嬉しそうなの、と思いながらたぶん鞠莉を抱いているときの私もきっと同じ顔をしてるんだろうと思う。鞠莉がゆっくり腰を揺らし始めてそのたびにもどかしい刺激が全身にじわじわ広がって堪らない。 揺らすたびに、なかでこりこりとした感触が先にあたって、鞠莉も気持ちよくなってるんだと思えて嬉しくなる。 「っあ、かなん、っは、ま、って」 「んっ、…ちょっと、もう、むり」 ゆるりとした快感がちょっとじれったくなって、その細い腰を掴んで揺らせば、豊かな鞠莉の乳房がふるふると震える。思わず身体を起こしてその張りつめた頂きを口に含んだ。 「っあ! かな、それ、っあぁ、や」 「…っふ、ぅう、ぁ」 ごりごり、奥に当たるように腰を揺らせば、鞠莉が悲鳴みたいに甘い声をあげる。 鞠莉の匂い、鞠莉の熱、鞠莉の音。 ここにずっといたい。鞠莉のなかにずっと。 このままひとつになって、鞠莉のなかに還りたい。 鞠莉のぜんぶを埋めてしまいたくて、乱暴なのかどうかもわからなくて、ひたすら腰を揺らしていたら、不意にぎゅう、と頭がだきしめられる。髪が子どもにするみたいにくしゃくしゃに掻き回された。 がくがく、鞠莉の腰が震える。そろそろまたいきそうなのかもしれない。 「っあ、あぁ、かな、ん、も、だめ、あっ」 「…っまり、まりっ…も、でる…っ」 目の前が真っ白になる。鞠莉の腰を掴んで、がつがつ、ただひたすら快感だけ、鞠莉のことだけを求めるように腰を打ち付けて。 「あ、かな、ん、…ぁっ、きす、した、っあ」 「っん、…う、ん、…っふ」 鞠莉が望むがままに唇に自分のそれを押しつける。がちっと歯がぶつかったけれど、もう気にならないくらい、互いの舌を絡めて唾液を飲んで、次第に溶けていく視界に何も考えられなくなっていく。 「あ、っあ、かな、ん、も、…ぁ、ぁああっ」 「う、ぁ、っ、まり…っ」 ぎゅう、と一際強く鞠莉のなかが締まって、その瞬間、私も耐えきれずに欲望を噴き出した。 どくどく、頭がおかしくなりそうなほど脈打ちながら鞠莉のなかを満たしていく。
荒い息を整えながら、ぼすりと鞠莉が私に体重をかけてくる。最近太ったとかなんとか気にしているみたいだったけれど私からしたら鞠莉はもうちょっとご飯を食べた方がいいと思う。 まだ余韻から抜け出せないのかときどきびくつく腰をゆっくり撫でながら、鞠莉がここにいることを実感する。 いい大人になって情けないとは思ってるんだ。 鞠莉は必ずここに帰って来てくれる。今はここが私と鞠莉のふたりの家なのだ。 分かっているはずなのに、寂しいって言ったってどうしようもないことは分かっているのに、鞠莉のことになると私はどうもうまくできない。 「…ぁ、まり…?」 不意に、鞠莉の指先が私の髪に伸びてきた。そのままやさしくかきあげられて額に口付けられる。まるで子どもをあやすように。 でもそれが今は嫌じゃなくて、されるがまま、見下ろす鞠莉をじっと見つめる。 昔より少しだけ伸びた金色の髪。ずっと大人びた鼻筋と、蜂蜜みたいにとろけた瞳。 綺麗だ、と素直にそんなことを思って。 「……かなん」 ぽつりと落ちてきた、ひとひらの言葉。 なに、と応えようとして、でもなぜか言葉が出て来ない。 再び、鞠莉の唇が降りてきて。 「さみしい、思い……させて、ごめんなさい、果南」 私も、ずっと、会いたかった。 気付いたら、鞠莉の身体を強く強く抱き締めていた。 もうどこにも逃がさないというように。離さないというように。 こんなことを鞠莉に言わせてしまうなんて、なんて不甲斐ない恋人なんだろう。そう思うのに、身体は全然いうことを聞いてくれなくて、でも鞠莉が優しく髪を撫でてくれるから、何も考えられなくなっていく。 鞠莉の言葉が、ぬくもりが、じんわりと私のなかに沁みて、心地よさにいつのまにかその身体を抱き締めたまま眠りに落ちてしまっていた。
なんとなく視線を感じて瞼をあけたら、珍しく私よりも先に起きていたらしい鞠莉が私のことを見つめていて、その視線があんまり優しかったからちょっと恥ずかしくなる。 昨日(というよりほぼさっきだけれど)はなんだかカッコ悪いところも見せてしまったし。 「……鞠莉、めずらしいね。私より先に起きるの」 「ええ、だって寝てないもの」 「え!?」 「久しぶりに果南の寝顔、見れたんだもの。なんだか可愛くてずっと見てたら朝になっちゃった」 可愛かった、と繰り返す鞠莉にまた頬が熱くなる。 恥ずかしさを誤魔化すように腕を広げたら、一瞬きょとんとしたあと嬉しそうに擦り寄ってくるから、ぎゅうぎゅう、顔を隠すようにして抱き締める。 「ね、果南、明日は何する? どこかおでかけする? 一週間もあるから、内浦に帰ってダイヤ会いにいくのもいいかなって思っていたの」 「いや、鞠莉はまず寝なきゃでしょ……。でも、そうだね、久しぶりに帰るのもいいね」 くすくす、朝日がうっすら差し込むなかで笑いあう。 じゃあこのお休みの間はごはんも私が作ろうかな。マリーのスペッシャルディナーに果南を招待するわ。 えー、いいけどシャイ煮はやめてよね。あれ食べきるの大変なんだから。 ひどい! 軽口をたたきながら、足を絡ませてじゃれあいながらいつもの会話。 鞠莉のしあわせそうな顔を見ながら朝を迎える。 きっと私もおんなじ顔をしているんだろう。 ずっとぽっかりと空いていたさみしさがしあわせの形になって帰ってきた。
きっとまたさみしさがぽっかり口を開けることもあるだろう。それは私だけじゃなく、鞠莉の心も。 けれど私たちは、もう互いの空いた穴を満たす方法を知っている。 空いてしまっても、またそこに形を変えて運び込める何かがきっとある。 こうして鞠莉が笑っていて、私も笑っていて、何気ない会話を交わして、ときどき喧嘩もして。
すべてを抱き締めて、幸せだねって伝えること。 それがきっと、重要なのだ。
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