비밀

秘密

비밀

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7353451

 

高飛び込みでスランプ気味の曜ちゃんとそんな曜ちゃんが気になる梨子ちゃんの話。
千歌ちゃんもちょっと登場します。

 

 

-

 

 

 

 音楽室から聴こえてくるその音に気が付いたのは、貸し切り状態のプールで三十分ほど泳いだ頃のことだった。
「……梨子ちゃんの、音かな」
 九月も中旬に差し掛かったというのに、まだまだ蒸し暑い空気の立ち込めるそんな日。普通に学校に行くだけでも気だるくなってしまうような暑さの中で、早朝から学校にピアノを弾きに来るような子が、この学校にそうたくさんいるとは思えない。
「…………」
 なんとなく顔を見たいなって、そんなことを思ったのはここだけの秘密。私はにんまりと笑ってゴーグルを外すと、プールサイドに手をかけて体を持ち上げた。



「お嬢さん、お早いですね」
 ピアノの音が途切れたタイミングを見計らって扉を開ければ、予想通りの人物がそこにいた。突然の来訪者に驚いた様子の梨子ちゃんに手を振ってみせると、彼女は慌てて時計に目をやって、それから安心したように息をつく。
「……もう授業始まってるのかと思っちゃった」
 梨子ちゃんは眉を下げて笑うと、曜ちゃんおはよう、といつもの優しい声で続けた。
「おはヨーソロー! 梨子ちゃん早いね」
「曜ちゃんこそ。いきなりドアが開いたからびっくりしたよ」
「一応ピアノの音が鳴ってないタイミングを狙ったんだけど……そんなに驚かせちゃった?」
「うん。ちょうど曜ちゃんのこと考えてたから」
「はいはい」
 肩をすくめる私を見て、梨子ちゃんがくすりと笑う。梨子ちゃんって時々こういう冗談を言う。最初は冗談なんだか本気なんだか分からなくて反応に困っていたけれど、今はもうさらりと流すのが正解だと学んだ。

「曲作ってたの?」
「そのつもりだったんだけど……今は息抜きにピアノを弾いてた、かな」
「そうなんだ」
 相槌を打ちながら梨子ちゃんの背後に立って、立てかけられた譜面を覗き込む。……相変わらず私から見たら暗号だなあ。これがちゃんとした曲になるのだから、やっぱりピアノって魔法だ。
「曜ちゃんはプールで泳いできたの?」
「大正解! よく分かったね」
「だって曜ちゃん、ちょっとだけプールの匂いがするから」
 そう言って梨子ちゃんが顔を寄せてくるものだから、なんだか急に恥ずかしくなってきて思わず体を引いてしまう。
「そ、それより作曲の方はどう? 順調に進んで――」
「…………」
「ない、みたいだね」
「……はい」
 梨子ちゃんは渋い顔を浮かべて、申し訳なさそうに肩を落とす。
「今回は早めに歌詞が上がってきたから頑張ろうと思ったんだけど……。曲ができないと曜ちゃんも衣装のデザイン進められないよね」
 真っ先にこちらのことを心配するあたりが優しい彼女らしい。音楽のことはあまりよく分からないけれど、それでも作曲が決して簡単なものではないってことくらい私にだって分かるのだから、そんな風に気にする必要なんてないのに。
「私のことは気にしなくて良いって」
 できるだけ軽い口調になるよう心がけて、その背中をぽんと優しく叩いたら、梨子ちゃんの表情が少しだけ緩んでほっとする。
「前から思ってたけど作曲ってすごいよね。わたし譜面とか全然読めないからこの辺とかもう暗号だよ」
 梨子ちゃんの肩越しにひょいと右手を伸ばして譜面を指差した。五線譜が印刷されたその場所には、梨子ちゃんの文字でたくさんの記号が記されている。
「曜ちゃん器用だし、ちゃんと習えばピアノも弾けるようになると思う」
「そうかなあ」
「良かったら教えようか?」
「う、うーん、あんまり向いてないような気もするけど……」
 桜内先生に「ぜんっぜんダメ!」なんて叱られる様子が容易に想像できてしまって苦笑していると、突然梨子ちゃんがぎょっとしたような顔でこちらを見た。

「曜ちゃん、その怪我どうしたの!?」
 何のこと、と言いかけて、すぐに梨子ちゃんの言葉の意味を理解した。腕を譜面に向かって伸ばしているせいで制服の袖が捲れ上がって、その下に隠されていた青紫色のそれがはみ出してしまっている。
「うー、やっぱり見えちゃうか」
「そ、それって……痣?」
 恐る恐るといった感じで尋ねながら、梨子ちゃんがぎゅっと握り拳を作った。こういうの、梨子ちゃんはあんまり得意じゃないみたいだ。
「昨日高飛び込みで失敗しちゃって、痣になっちゃったんだよねえ」 
「だ、大丈夫なの……?」
「ただの痣だよ。梨子ちゃんもどっかぶつけたりしたら痣できるでしょ?」
「それはそうだけど、でも」
「もー、梨子ちゃんって結構心配性?」
 私は笑いながら梨子ちゃんの手を取ると、ぎゅっと握られたままだった手をゆるゆると解いていく。梨子ちゃんの指って長くて細くて、爪の形まで綺麗。魔法を生み出すこんな綺麗な指には、握り拳はあんまり似合わない。

 私に手を握られている間、梨子ちゃんは何だかもごもごと口を動かしていたけれど、仕切り直すようにしてコホンと咳ばらいをした。
「それ、痛むの?」
「ぎゅって押したりしなければ痛くないよ。ただ見た目がちょっと派手で……」
 苦笑しながら肩を撫でる。体を広い水面に打ち付けるとなると、どうしてもできあがる痣はそれなりのサイズになってしまう。今回はギリギリ制服で隠せると思ったんだけどなあ、とぼやいていると、梨子ちゃんの指先がそっと痣に触れた。
「痛い?」
 小さな声でそう尋ねてきたから、ふるふると首を振って応える。
 まるで傷を癒すように指を滑らせていく梨子ちゃんをぼんやりと眺めながら、やっぱり梨子ちゃんって美人だなあ、なんて思う。ひとつひとつの行動が自然と絵になるんだ。体にできた痣なんて私はもう慣れっこだけど、梨子ちゃんの綺麗で柔らかそうな肌には全然似合わない。
「今日は練習お休みした方が良いんじゃないかな。千歌ちゃんに言って――」
「だ、大丈夫! 練習できるよ!」
 咄嗟に口からそう飛び出して、しまった、と思った。明らかに動揺した態度を見せてしまった私に、梨子ちゃんが不思議そうな顔をしている。

「曜ちゃん……何かあったの?」
 黙ったまま固まっていると、梨子ちゃんがもう一度私の名前を呼んだ。ぐるぐると思考が回って、けれど心配そうな瞳を前に沈黙を貫くこともできなくて、私は観念して口を開いた。
「……千歌ちゃんには、怪我のこと、内緒にして欲しい」
 梨子ちゃんが何か言う前に私は続ける。
「ほ、ほら千歌ちゃんってああ見えて結構心配性だし。余計な心配かけたくないなって」
 にこって完璧な笑顔を作ってみせた。それが人に踏み込ませないための防波堤になるんだって、私はいつ頃知ったんだろう。気が付けば自然とそういうやり方が身についていたような気がする。
 梨子ちゃんは何か言いたげに私を見上げていたけれど、すぐに諦めたように細く息を吐いた。
「分かった。秘密にするね」
「……ありがと」
「曜ちゃんのお願いだから」
「…………」
 それきり会話が途切れてしまう。

「な、なんか作業の邪魔しちゃったね。ごめんね、ピアノ続けていいよ」
 私はできるだけ明るい声を出すと、梨子ちゃんから少しだけ離れて窓際に寄った。
「邪魔しないから、ここで聴いてても良い?」
「……もちろん」
 梨子ちゃんは柔らかく微笑むと、椅子に座り直して鍵盤に手を置いた。けれど梨子ちゃんの長い指は、ポンとひとつ音を鳴らしただけで、そのままぴたりと止まってしまう。
「……あのね、曜ちゃん」
「うん?」
「私、ずっと曜ちゃんに言いたかったことがあるの」
「梨子ちゃん?」
 なんだか聞いたことがあるフレーズだと思って、すぐに思い出す。誰かに気持ちを伝えられる時、こんな風に前置きをされることが何度かあった。
「な、なんか告白されるみたいでドキドキするね」
 冗談混じりにそんなことを言えば、梨子ちゃんの視線が私を絡めとる。真っ直ぐな視線に心臓がどきりと音をたてた。この雰囲気。何度経験しても、慣れることのない――
「曜ちゃん、実はね」
 梨子ちゃんが細く息を吸った。
「私、曜ちゃんが――」



   ***



 高飛び込みをやってる姿を見てみたいらしい。
 作曲のヒントになるかもしれないから見てみたいらしい。
 高飛び込みがヒントになって生まれる曲ってどんな曲なんでしょうか。
 というか紛らわしい雰囲気を作らないで欲しいと思うんです、桜内さん。

 飛び込みの設備のあるプールまで行くから遅くなっちゃうよ、とか。プールに着いてもストレッチとか陸上トレーニングがあるから実際に飛び込むまでに結構時間かかるよ、とか。
 そんな言い訳も梨子ちゃんの作曲への熱には敵わなかったらしい。結局そのやりとりの数日後には、梨子ちゃんを引き連れてプールへと向かうことになってしまった。
 大会になればたくさんの人の前で演技をするし、人に見られること自体はそこまで苦手というわけではないんだけれど、
「はあ……」
 プールサイドに併設されたストレッチ用のスペースで柔軟をしながら、大きなため息をこぼす。羽織ったジャージ越しに、少しだけ色の薄くなり始めた痣をそっと撫でた。痛みはもうほとんどない。
 梨子ちゃんにそんな意図はなかったんだろうけど、あのタイミングでお願いをされてしまったら、断ることなんてできるはずもなかった。怪我のことを内緒にしてくれるって、梨子ちゃんは私のお願いを聞いてくれた。だったら私だって、彼女のお願いを聞かなきゃフェアじゃない。
「なんか私、格好悪いな」
 任せてって笑って颯爽と飛び込んでみせれば良いだけなのに。この痣ができた日のことを思い出すと、体が鉛をつけたように少しだけ重くなる。

 高飛び込みはもともと怪我の多いスポーツだし、これくらいの痣を体に作ることなんて日常茶飯事だった。だから痣ができたこと自体は問題じゃないのだ。
 特に難易度の高い技に挑戦したわけでもない。それでも回転の途中でバランスを崩してしまったのは、私が集中力を欠いた状態で飛び込み台を蹴ってしまったから。
 その日は目が覚めた瞬間から体に違和感があった。
 昔の思い出を夢に見たんだ――そう話したら、多分みんな「それで?」なんてリアクションを返してくるんだと思う。けれど私がその日に見たそれは、目覚めた時に自分の年齢が分からなくなってしまうくらいにリアルで、それでいて鮮明で。



 中学一年生の夏。全国への切符をかけた大会での出来事だった。
 競技人口のあまり多くない高飛び込みの界隈では、自分で思う以上に「渡辺曜」の名前が知れ渡っていたらしい。飛び込み台の階段をのぼりながら、ざわつく会場の空気を肌で感じる。もともとあまり緊張するタイプではなかったけれど、その時ばかりはさすがに水着の下で心臓が強く胸を打った。
「……千歌ちゃん」
 飛び込み台の上から千歌ちゃんの姿を探すのは、私のおまじないみたいなものだった。千歌ちゃんのいる場所は大体分かっていたから、この位置からでもその姿を見つけるのは難しくない。緊張した様子でぐっと拳を握っている千歌ちゃんがすぐに見えた。
 ……私より千歌ちゃんの方が力入ってるよ。
 そんなことを思って小さく笑ったら、いつの間にか固くなっていた体から少しだけ力が抜けた。おまじないの効果、あったみたいだ。

 それじゃあまずは一本目を気持ちよく決めにいこう。そう思って足を踏み出そうとしたその瞬間、私は見てしまったのだ。千歌ちゃんが浮かべた、すごくすごく寂しそうな表情。
 千歌ちゃんと目が合う。心臓が大きく跳ねて思わず息を飲んだ。
「なんで……」
 千歌ちゃん、なんでそんな顔してるの?
 気が付けば飛び込み台に立ってから大分時間が立っている。係員の視線を感じた私は、慌てて右手を上げた。立ち位置を決めて、飛び込み台を蹴る。私が水面に叩きつけられたのは、それからたった一秒後のことだった。
 ご丁寧なことに、夢の中では医務室でわんわんと泣く千歌ちゃんまで再現されていたのだから自分の脳みそが嫌になる。
 でも、考えてみればただそれだけの出来事なんだ。そのあと千歌ちゃんと喧嘩をしたわけでも、気まずい空気になったわけでもなかった。つまりはいつも通り。翌年にはちゃんと全国大会に出場することができたし、何も問題はなかったはずなのに。
 いずれにせよ夢に気持ちが引っ張られるなんて、アスリートとしては失格だ。私はぱちんと両手で自分の頬を打つと、着ていたジャージを脱いだ。



 今日は軽く流す程度にしておきなさいよ、と私の肩を見て苦笑するコーチの言葉に頷きながら、飛び込み台の階段を上っていく。十メートルの高さにたどり着くまでの間に集中力を高めていくはずが、なぜだか鼓動が早くなっていた。
 ……なんで私、緊張してるんだろう。
 頂上にたどり着いて、大きく息を吸った。
 あの日以来、飛び込む前に応援席を見ることは止めたはずなのに、軽いストレッチをしながら目線をそちらに向けてしまう。ガラガラのその場所から梨子ちゃんを見つけることは容易だった。当然だけど、そこに千歌ちゃんの姿はない。
 梨子ちゃんの優しい笑顔が見られたら少しは落ち着けるような気がしたのに、あの頃に比べて少しだけ視力が落ちた私の目では、どうしてもピントが合わない。
 中学生の時に見た、夢に見た、千歌ちゃんの表情が、また頭をよぎる。
 指先が冷たかった。
 飛び込み台の先。ギリギリまで歩いて、水面に目を向けた。
 高いところも好きで、水の中も好きで、それなのにおかしいな。 
 ここってこんなに怖い場所だったっけ?



   ***



 ミシンの規則的な音が心地よかった。
 こうして家でミシンを走らせるならみんなの衣装を作ってしまいたかったけれど、梨子ちゃんの曲作りは少し難航しているみたいで、曲の雰囲気が固まるまでは趣味の職業制服作りに没頭することにした。
「…………」
 カタカタカタ、とミシンの音が少しずつゆっくりになっていって、完全に停止する。
 視力の低下は高飛び込みではマイナスにしかならないから、目を大切にしろってコーチにさんざん言われてる。ほどほどにしておいた方が良いかもしれない。
 私は眼鏡を外して机の上に置くと、椅子の背もたれに体を預けて天井を見上げた。

 結局、飛び込むことができなかった。
 肩が痛むとかそれらしい嘘をつけば、梨子ちゃんは疑うこともなく納得してくれた。怪我してるのに無理させてごめんなさいと謝られてしまった時には、さすがに罪悪感で顔を上げることができなかったけれど。
 梨子ちゃんが帰ってから再び飛び込み台に立ったらもうあの足がすくむような感覚はなくなっていたから、それだけは救いだったかもしれない。それでも水面に向かって落ちていく自分の体にはどうしても違和感が残っていて、十本ほど飛び込んだあたりでコーチに「今日はもう帰るように」と追い出されてしまったのだった。
「どうしちゃったんだろ、わたし」
 初めて十メートルの高さに立った時ですら、あんな気持ちにはならなかったのに。多少の怖さはあったけれど、それよりもわくわくする気持ちの方が勝っていた。もっとすごい演技ができるかもって、そんな風に思えたから。

「明日はずっと飛び込みの練習できると思ってたのになあ……」
 がくりと机に突っ伏した。学校もAqoursの練習も休みだし、一日中プールにいようって思ってたのに。コーチにも明日は休みなさいって言われてしまって、私の居場所はあっという間になくなってしまった。
「ええい、こんな時は筋トレだー!」
 ごちゃごちゃ考え込みそうになったら体を動かせって、幼なじみの誰かさんが言っていたことを思い出して勢いよく立ち上がった。けれど「やるぞー!」って意気込んだところで携帯の着信音が鳴ってその場でずっこける。
「このタイミングで……って梨子ちゃん?」
 画面に表示された梨子ちゃんの写真。指をスライドさせて携帯電話を耳に当てると、聞き慣れた柔らかい声が耳に飛び込んできた。

「もしもーし、梨子ちゃん?」
「あ、曜ちゃん。いま大丈夫?」
「うん。ぼーっとしてただけだから大丈夫だよ」
 そっか、と電話の向こう側で梨子ちゃんが安心したように笑う。
「何か用事でもあった? あ、作曲のこと?」
「うーん、半分正解かな」
「半分?」
「ちょっと行き詰まってたから、曜ちゃんとお話したいなって思って」
 相変わらず梨子ちゃんは突然ど真ん中の直球を投げてくる。それでも私は捕球には自信があって、どんな球だってしっかりとミットに収めることができるのが自慢だったりもするのだ。
「あはは、私で息抜きになる?」
「うん」
「それなら良かった」
 私は携帯を耳に当てたままベッドに移動すると、そのままごろりと寝転んだ。

「今日は飛び込み見せてあげられなくてごめんね」
「謝らないで。私が急に見に行きたいって言ったのが悪いんだし」
「でもせっかく作曲のヒントにしたいって言ってくれたのに、格好悪いところ見せちゃったなって」
 私が笑いながらそう言えば、梨子ちゃんが少しだけ強い口調になる。
「怪我してたんだからしょうがないよ。格好悪くなんかない」
「……そっか。ありがと、梨子ちゃん」
 ちくりと胸の辺りが痛んで私は目を伏せる。ねえ梨子ちゃん。梨子ちゃんはそう言ってくれるけれど、やっぱり私は自分がすごく格好悪いって思う。梨子ちゃんに嘘をついて、罪悪感も器用に体の中に隠せてしまうようなずるい私が、格好悪くないはずがないんだ。
「曜ちゃんは、明日も練習?」
「そうだね、飛び込みはやらないけど、どこかに泳ぎには行こうかな。時間があれば衣装のデザインも進めていきたいけど……」
「……さ、作曲、頑張るね」
「わわ、そういうつもりで言ったんじゃないから! ゆっくりで良いからね!」

 それからとりとめのない雑談をして、またね、って電話を切った。
 携帯を当てていた耳が熱い。なんだかまだ梨子ちゃんの優しい声が耳に残っているような気がして、そう思ったら不思議とくすぐったい気持ちになった。
 そのままベッドに横になっているうちに、じわじわと眠気がやってくる。力の抜けた体がベッドに沈んでいくのを感じながら、なんだか今日はなんの夢も見ずに眠れそうだなって、そう思った。
 どうやら息抜きをさせてもらったのは私も同じみたいだ。



   ***



 最初は果南ちゃんのお店に行こうかとも思ったけれど、ああ見えて果南ちゃんって人の気持ちの変化に敏感で、今の気持ちを抱えたまま彼女の前に行くのは躊躇われた。飛び込みをしないのに遠くのプールまで行くのもなんだか微妙だし、近所の海は海で人が多そうだ。こうして考えてみると意外と泳ぐ場所って少ない。
「……あ、そうだ」
 ポンと手を叩いた。
 人が少なくてゆっくり泳げる場所。ひとつだけある。

 うちの高校の水泳部はお世辞にも活動に力を入れているとは言えない。
 具体的に言うなら、プールの水が夏休みになるまで入らなくても誰も文句も言わなかったり、土曜日に泳ぎに来る人なんていないってそれくらいの緩い感じ。おかげで大きなプールが貸し切りだ。
 それでも私にはこれくらいの緩さがちょうど良かったんだと思う。中学の水泳部はわりと強豪で、部内の競争も激しくて、……あんまり良くない思いをしたりもした。それでも多分私は周りの人に恵まれた方で、明確な悪意を向けられるようなことは、片手で数えられるくらいだったと思う。
 でも、はっきりと気持ちをぶつけられた方が良かったかもしれないって思ったりもするんだ。曜ちゃんすごいねって悲しそうに笑われる方が、私にはずっと辛かったから。
「……やめやめ」
 今日は何も考えずに泳ぐって決めたんだから。
 シャワーで体を流してから、スイムキャップとゴーグルをつけてプールに飛び込んだ。真っ青な世界の中をただ泳ぎ続けているだけなのに、不思議と気持ちが高揚する。
 どうしたって私は水の中が好きだった。もしかしたら前世は水の中に住む生き物だったのかもしれない、なんてそんなことを考えたら、命は海から始まったんだって話を思い出した。

 それからどれくらい泳いだのか。少し腕が気だるくなってきたあたりで泳ぐのを止めて、キャップとゴーグルを外してプールサイドに上がった。大きく息を吸いながら空を見上げたら、あんまりに日差しが眩しくて思わず目を細める。
「……暑い、なあ」
 ぽつりと呟いたら、なんだかまだまだ水の中にいたいと、そんなことを思った。足の力を抜けば、支えを失った体はゆらりと倒れて、そのままざぶんと音を立ててプールに沈む。
 私を包み込む青色の世界。そのまま壁を蹴って水底を滑っていき、水中でくるりと体勢を変えて水面を見上げたら、いつか水族館で見たセイウチが思い浮かんだ。あんな風に泳げたらきっともっと気持ち良いに違いない。
 水面の向こう側に太陽の日差しが見えて、そうしたら梨子ちゃんが海の音を聴きたいと言っていた時のことを思い出した。今ならどんな音が聴こえるんだろう。そもそもここは海じゃないし、聴こえるとしたらプールの音?
 今の私に、プールの音、聴こえるのかな。
 そのまま目を閉じたら大きな水の揺れが体にぶつかって、私は慌てて目を開けた。

 ――曜ちゃん!

 聴こえたのは、そんな音。
 状況を理解する間もなく、私は腕を掴まれて強制的に水面へと引き上げられてしまった。
「え、な、なに……?」
 ぱちくりと瞬きをした。私の目に入ってきたのは、見慣れた制服とびしょびしょに濡れた長い髪の毛。私の腕を掴んだままのその人は、なぜだか私以上に驚いたような顔をしていた。
「よ、曜ちゃん……大丈夫、なの?」
「な、なにが?」
「へ?」
 それは梨子ちゃんらしからぬ間の抜けた声だった。
 ふと視線を下に向けてみると、浮力に負けたスカートが水中でふわふわと舞っている。桜色だ、と思わず口からこぼれて、そうしたら梨子ちゃんの顔が真っ赤に染まった。



   ***



 音楽室で作曲をしていたら、プールに曜ちゃんがいるのを見つけたの、というのが梨子ちゃんの話。声をかけようと思って近くまで来たら、私がプールに落ちたっきり浮かんでこないものだから驚いて飛び込んでしまったらしい。
「てっきり曜ちゃんが溺れちゃったのかと思って」
「前から思ってたけど梨子ちゃんって結構無茶するよね」
 現場は見てないけど、春の海に飛び込もうとしたって話だし。今日だってまさか制服のまま飛び込んでくるだなんて、普段の梨子ちゃんから想像しろっていう方が無茶だ。
「これ、洗って返すね」
「私は気にしないけど……」
「私が気にするから!」
「で、ですよねー」
 私の手に提げられたビニール袋には、濡れた梨子ちゃんの制服と、それから下着が収められていた。部室に水泳部のジャージを置いておいて本当に良かった。私のジャージを身に纏い、ぎゅっと胸元に鞄を抱えて歩く梨子ちゃんを見てそう思う。

「あの、曜ちゃん」
「うん?」
「このこと、みんなには内緒にしてね」
 梨子ちゃんが何のことを言っているのか分からなくて首を傾げれば、彼女はごにょごにょと言いにくそうに口を動かしている。
「だから、その……」
「あ、梨子ちゃんがノーパンってこと?」
 鋭い目で睨まれてしまって、咄嗟にごめんと謝った。ぷいと顔を背けてしまった彼女の耳が真っ赤に染まっていて、さすがに意地悪だったと反省する。
「じゃあ梨子ちゃんも私がプールで溺れてたってこと内緒にしてくれる? 秘密いっこずつでおあいこね」
 私が言うと、梨子ちゃんは何か言いたげな顔でこちらを見た。
「……曜ちゃんって、ほんっと」
「ん、なに?」
「なんでもない」
 拗ねたような顔で、そういうのずるいって梨子ちゃんが呟いた。

 休日ダイヤだってことをすっかり忘れていたせいで、たっぷりバス停で時間を消費することになったけれど、なんとかふたりしてバスに乗り込むことができた。いつもより身を守るものが少ない梨子ちゃんはだいぶ疲れた様子だったけれど、あとは座っていれば済むというところまで来てようやく気が抜けたみたいだ。ほっと息をついて背もたれに体を預ける梨子ちゃんの姿を見て私も安心する。
「……静かだね」
 梨子ちゃんがぽつりと呟いた。貸し切り状態のバスの中は、エンジンと空調の音だけが静かに響いていて、確かに外の世界から切り離された空間になってしまったようだ。ほんとだね、と私が答えれば、静寂の中で梨子ちゃんが小さく私の名前を呼んだ。
「曜ちゃん。さっき水の中に沈んでる時、なにを考えてたの?」
 それは梨子ちゃんらしい穏やかな口調で、聞く人を安心させるような、聞き慣れた彼女の声だった。けれど私を見つめるその目は確かに真剣で、その突然の問いかけに冗談で返すことは、どうやら許されそうにない。私は少しだけ考えてから、ゆっくりと声を出した。
「日差しが眩しいなあ、とか、なんかこうやって水の中を泳いでると水族館のセイウチみたいだなあ、とか。あ、梨子ちゃん、セイウチ見たことある?」
 梨子ちゃんは首を振った。
「水族館にいるんだけど可愛いんだよ。口元がね、なんかもじゃっとしてて……」
 そこまで言って、私は小さく息を吐いた。
「梨子ちゃんみたいに、海の音……じゃなくてプールの音が聴こえるかなって、そう思ったんだ」
「曜ちゃん……」
 心の外側にある鎧のような何かが、ぽろぽろって剥がれた気がした。そんなつもりはなかったのに、声色でこれが私の弱音なんだって梨子ちゃんに伝わってしまったことだろう。
 ああ、こんなこと前にもあったなあ、といつかの夜を思い出した。どうして梨子ちゃんといるとこんな風に弱い私が出てきてしまうんだろう。友達と呼べる子はたくさんいるはずなのに、そんな風に感じるのは梨子ちゃんが初めてだった。
「あのね、曜ちゃん。もしかして、なんだけど」
 控えめに梨子ちゃんが言った。真っ直ぐな瞳に見据えられて私は身動きが取れなくなる。
「昨日、飛び込まなかったのって……怖いって思ったから?」
「…………」
 まさか、と茶化すことができたら良かったのに。沈黙したらそれは肯定の意味を持ってしまうから慌てて口を開いたけれど、私の口から出てきたのは情けなくかすれた声だった。
「ど、うして、そう思うの……?」
 私の問いかけに、なんだかそんな気がしたから、と梨子ちゃんは答えになっていない答えを返した。



   ***



「なんでこうなっちゃうかなー……」
 ひどい自己嫌悪に陥っていた。がくりと項垂れると、手首に貼られた湿布が目に入って、深いため息がこぼれてしまう。診断は軽い捻挫。昨日やった飛び込みの練習で私が作ってしまったものだった。怪我を治すどころか増やして戻ってくるだなんて、本当に笑えない。
 視線の先では、私を除く八人が、夏の強い日差しを受けながら踊っている。大した怪我じゃないから私も一緒に練習したいってアピールはしたものの、鞠莉ちゃんによって即刻却下されてしまった。果南ちゃんのカウントに合わせてステップを踏む姿を見ていたら、自分が情けなくてますます重たい気持ちになってくる。

 ――昨日、飛び込まなかったのって……怖いって思ったから?
 一昨日バスの中で梨子ちゃんに言われた言葉を、何度も頭の中で繰り返していた。全部見透かされていたのかなって思ったら、途端にどうしようもなく恥ずかしくなる。まさか、そんなことないよ。そんな風に軽く答えて、笑顔を作って、敬礼をしてみせて、そうすればきっといつも通りの私に戻ることができたのに。何もなかったことにできたかもしれないのに。
 いつもは賑やかなバスに梨子ちゃんとふたりきりで、梨子ちゃんが私のジャージを着ていて、朝でも夕方でもない中途半端な時間に走るバスから見える景色はいつもと少し違って。そんな小さな変化と、それから真っ直ぐな梨子ちゃんの瞳が、私をいつも通りの私でいさせてくれなかった。

「ねえ、今のところどうだった? そっちから見て」
 果南ちゃんの声がした。私は咄嗟に笑顔を作ると、右手でOKサインを作ってみせる。
「前の練習の時よりずっと揃ってたよ。千歌ちゃん、ルビィちゃん、最後のところ、もう少しだけ手を上げるの早くて良いかも」
 はーい、と元気よくふたりが手を上げる。
「やっぱり曜は目が良いね。これからも時々こういう練習入れてみようか」
 そんな果南ちゃんの言葉は、多分私への気遣いも含まれているんだと思う。ありがとうってここで口に出して言うのもなんだか無粋な気がして曖昧に笑っていると、タオルで汗をぬぐっていた梨子ちゃんが控えめに手を挙げた。
「あの、ダンス練習も一段落したし、私いまから音楽室で作業してきても良いかな?」
「作曲?」
 千歌ちゃんの問いかけに梨子ちゃんが頷いた。
「せっかく千歌ちゃんたちが歌詞を早めに仕上げてくれたのに、曲の方が遅れちゃってるから。ちょっとでも時間が取れないかなって……」
 そんな梨子ちゃんの申し出に反対する子なんて当然いなくて、じゃあ残りのメンバーでステップの反復練習しようか、なんて相談が始まったところで、梨子ちゃんがちらりと私を見た。
「曜ちゃん」
「はい?」
 突然名前を呼ばれて首を傾げると、梨子ちゃんがちょいちょいと私に向けて手を振った。



 私のせいでスケジュールが押しちゃってるし、衣装のデザインも並行して進められないかな?
 そんな梨子ちゃんの誘いで音楽室にやってきた。窓が閉め切られた音楽室は暴力的な暑さで、梨子ちゃんとふたりで慌てて換気をする。梨子ちゃんはもちろんピアノの前に座って、私は梨子ちゃんの横顔がよく見える一番前の特等席に腰を下ろした。授業ならあんまり嬉しくない席だけど、梨子ちゃんとふたりきりだと思えば、これ以上ない良席だ。
「……梨子ちゃん、ありがとね」
「え?」
「気を遣って誘ってくれたんだよね」
「あ……」
「実はちょっと居づらいなって思ってたから、ほっとしたっていうか」
 頬を掻きながら私がそう言えば、梨子ちゃんは少しだけ照れたような顔をする。
「……さりげなくって思ったのに、やっぱり曜ちゃん相手じゃ通用しないなあ」
 肩をすくめて小さく笑うと、梨子ちゃんは鍵盤に添えていた手を自分の膝の上に戻して、私を見た。
「ねえ、居づらいって、どうして?」
「だって水泳とスクールアイドル、ちゃんと両立できてないから」
「……みんなそんなこと思ってないよ?」
「ん、分かってるんだけどね」
 みんなが優しい子だってちゃんと知ってるから、そんな風に思ったりしないってのも分かってる。だからこれはきっと、私の気持ちの問題だ。二足のわらじでやるって決めた以上は、中途半端になるのは嫌だったのに。

「……って、せっかく時間もらったのに雑談してたらダメだよね。梨子ちゃん、できてる部分だけでも聴かせてよ」
 梨子ちゃんはまだ何か言いたげだったけれど、私がにこりと笑って見せれば、そうだねと優しく答えてまた両手を鍵盤に乗せた。そうして静かな音楽室に流れ始めたそれは、梨子ちゃんらしい包み込むような旋律だ。梨子ちゃんの作り出す音に集中したくて机に突っ伏したら、
「……曜ちゃん、居眠り?」
 なんて、失礼なことを訊かれてしまう。
「違いますー。衣装のイメージ膨らませてるの。ピアノ、続けて?」
 梨子ちゃんは吐息混じりに笑うと、再び綺麗なメロディを紡ぎ出していく。
 心地良い音。曲って作った人の性格に似るものなんだろうか。梨子ちゃんが生み出していく音の数々はまるで彼女のようにあったかくて、優しくて、ほらまた、私の心のぐずぐずとしたところにすっと入り込んでくる。
 まるで抱き締められて優しく頭を撫でられているような気持ちになって、そうしたらじわりと目元が熱くなってきた。まずいと思う間もなく視界が滲んで、けれどこの体勢じゃそれを拭うこともできない。重力に負けた滴が敷いていたスケッチブックにぽたりと落ちた。ぽとぽと。一度溢れ出した滴は止まらない。

 しばらくしてピアノの音が鳴り止む頃には、スケッチブックはすっかり水分を含んで波打ってしまっていた。そうなれば自分の顔がどんな状態になっているかはなんとなく分かるから、机に突っ伏した体勢から動くことができない。どうすることもできなくてそのまま固まっていると、近くでかたんと小さな物音がした。
「曜ちゃん、寝ちゃった?」
 突然耳元で囁くように名前を呼ばれて体が跳ねる。しまった、と思った時にはもう遅くて、梨子ちゃんの驚いたような視線が私に向けられていた。
「……曜ちゃん、泣いてたの」
「あ、えっと、なんか良い曲で……感動しちゃったのかも」
 泣き顔を見られてしまったことへの気恥ずかしさを作り笑いで誤魔化して、手の甲で涙を拭おうとしたその瞬間、私は梨子ちゃんの香りに包まれていた。自分が今どういう状況なのかを理解するのに、多分五秒くらいかかった。梨子ちゃんの腕の中に、私の体がすっぽりと収まっている。

「……り、梨子ちゃん?」
「曜ちゃん、あのね」
「う、うん」
「音楽室からね、プールの中って微妙に見えないの」
「は?」
「だから土曜日に、泳いでた曜ちゃんを偶然見つけたっていうのは、嘘」
 話が見えなくて私は黙ったまま梨子ちゃんの言葉の続きを待った。
「曜ちゃんに会いたくて、もしかしたらって思って学校のプールに行ったの」
「……なんで、わざわざ、そんな」
 私の問いかけに、梨子ちゃんがゆっくりと息を吸ってから答える。
「曜ちゃんが飛び込まなかったのを見た時にね、……舞台の上で、ピアノが弾けなかった時の私みたいって思ったから」
 梨子ちゃんの手が優しく私の後頭部を撫でた。
「大好きなことが怖くなっちゃうのって、私はすごく苦しくて、だから曜ちゃんのそばにいたいって思ったの」
 ――曜ちゃんの苦しい気持ち、分けて欲しい。
 梨子ちゃんの言葉は魔法だった。なんとか立て直そうとしたのに、あっという間に私の心がまたぐずつき始める。いつの間にかむき出しになっていた心が梨子ちゃんの体温で包み込まれてしまう。
「……なんか、ね」
「うん」
「昔のことなんだけど」
 自然と言葉がこぼれた。

 私の身に起こった出来事を言葉にしてみれば、それは本当にただの自滅でしかなかった。それでも梨子ちゃんは決して笑ったりしないで、私の頭を撫で続けてくれる。優しい匂い。なんだかどうしようもなく甘えたい気持ちになって梨子ちゃんの首元に頭を擦り付けたら、小さい子みたいって梨子ちゃんが笑った。
「私、悲しかったのかな」
 曜ちゃんすごいねって悲しそうに笑う友達の姿を、私は何度も見たことがあって。あの日見た千歌ちゃんの表情はきっとそれによく似ていた。だから辛くて、向き合いたくなくて、記憶の底に押し込めて、それっきり。
 それで、全部終わったはずだったのに。
「曜ちゃん、あのね」
「……うん」
「私この前のコンクールでやっとちゃんとピアノと向き合えるようになって、でもね」
 私を抱き締める梨子ちゃんの腕に力がこもった。
「それでも、あの日弾けなかったって事実は消えないの。だってもう起こっちゃったことだから」
 少しずつ梨子ちゃんの伝えたいことが分かってきて、彼女の制服の裾をきゅって掴んだら、梨子ちゃんがわずかに身じろぐ。
「多分この先もやっぱりあの日のことを思い出して、苦しくなったりすると思うけど……でもそれで良いのかなって」
 そう思えるようになったのは、みんなのおかげだよ。梨子ちゃんはそう続けた。
「……うん、そうだね」
 あの日、千歌ちゃんが見せた表情。
 千歌ちゃんが私の怪我を見てわんわん泣いた理由。
 そういうのを全部見ないことにして、私たちはまた一緒に歩き始めた。喧嘩をしたわけでも、気まずい空気になったわけでもなくて、でもそれは「何も起こらなかった」ことにできたわけじゃないんだ。

「梨子ちゃんって、格好良いね」
「……そんなこと、生まれて初めて言われた」
「そうなんだ」
 まあ確かに「可愛い」の方がしっくりくるタイプの子ではあるけれど。
「ごめん、もうちょっとだけこのままで良いかな」
 ちくちく痛む心を癒してくれるような気がして、私を包み込むこの体温から離れることができない。力を抜いてもう少しだけ体をくっつけたら梨子ちゃんが小さく喉を鳴らした。
「梨子ちゃん?」
 どうしたの、と顔を上げたら、至近距離で目が合った。相変わらずの大きくて綺麗な瞳。私を映すその場所から目を逸らせないでいると、トン、と私の唇に何かがぶつかった。
「……っ」
 先に反応したのは梨子ちゃんだった。固まったままの私を前に、梨子ちゃんが口元を抑えて目を丸くする。驚きの表情はやがて今にも泣き出しそうなものに変わって、梨子ちゃんはぐっと唇を結んだ。
「ご、ごめんね、曜ちゃん。私なにして――」
「梨子ちゃん、あの」
「そ、そのまま、そこにいて!」
「え、梨子ちゃん、どこ行くの」
 そんな私の問いかけに応えることもなく、梨子ちゃんは音楽室を飛び出していってしまった。



   ***



 トイレに行ったのかな。いや、さすがにあの雰囲気でそれはないよね。
 追いかけた方が良かったんじゃ。でも梨子ちゃん「そのままそこにいて」って言ってたし。
 机に突っ伏したまま自問自答を続けていると、がちゃりと扉が開く音がして、私は勢いよく顔を上げた。
「梨子ちゃ――」
「あれー、曜ちゃん、起きてるね」
「……千歌ちゃん」
 開いた扉からひょっこりと顔を覗かせていたのは、梨子ちゃんではなかった。千歌ちゃんの額に汗が浮かんでいるのは、さっきまでみんなと練習していたせいだろう。
「なんで、千歌ちゃんがここに?」
「曜ちゃんが衣装のデザインしながら爆睡しちゃったって、梨子ちゃんが」
「……梨子ちゃんが?」
「用事があるから代わりに曜ちゃんの様子見に行ってーって私に頼みに来たんだよ」
 千歌ちゃんは跳ねるような足取りで私の隣にやってくると、何か面白いものでも見つけたって顔で悪戯っぽく笑う。
「ふふ、よーちゃん。それ、もしかしてヨダレ?」
「え?」
 千歌ちゃんが見ていたのは私のスケッチブック。……涙の跡が、しわになっていた。
「こ、これは違……いや、うん、その、ヨダレ……です」
 涙の跡だよ、なんて千歌ちゃんに言うよりはずっとマシだった。ヨダレくらい千歌ちゃんにはもう何度も見られている。それよりも頬に涙の跡が残っていないか急に心配になって顔をさりげなく拭うと、
「曜ちゃん」
「なに?」
「あ……なんでも、ない」
 千歌ちゃんが見ていたのは、私の手首に貼られた湿布だった。
「…………」
 あの日から何も変わっていないなんて大嘘だ。千歌ちゃんはあの日以来、私の怪我に触れることを明らかに避けるようになっていた。私がそれに気が付かないはずがないんだ。
 梨子ちゃんが千歌ちゃんをここに呼んだ理由なんて考えるまでもなかった。ちゃんと向き合った方が良いって。きっと私にも千歌ちゃんにも、そう言いたいんだよね。

「千歌ちゃん、隣の席、座って?」
「え? あ、うん」
 こちらを向くようにして千歌ちゃんが椅子に腰を下ろす。私たちの目線の高さは、ちょうど同じ。だから自然と真っ直ぐに見つめ合うことができた。
「千歌ちゃん」
「ん?」
「…………」
「……曜ちゃん、なあに?」
 何か感じるものがあったのか、千歌ちゃんは優しく話の続きを促した。緊張のせいなのか喉の渇きを感じながら、私は細く息を吸う。
「あのね、中学一年の時の、飛び込みの大会のことって覚えてる?」
「……曜ちゃん」
 たったそれだけで、千歌ちゃんは私が何を話そうとしているのか理解してくれたようだった。千歌ちゃんはわずかに目を伏せて、けれど大きく息を吸ってから、ぱって顔を上げた。覚えてるよって、千歌ちゃんの目が答える。
「千歌ちゃんとね、ちゃんと話したかったの」
「……うん、そうだよね。私もおなじだよ」

 曜ちゃんに謝りたいってずっと思ってたんだって、千歌ちゃんはそう言った。
「あの時、曜ちゃんのこと応援してたはずなのに、わたし曜ちゃんと自分を比べちゃった。それで曜ちゃんはすごいなって、私とは違うんだって、そんなこと思って……そしたら、曜ちゃん失敗しちゃって」
 千歌ちゃんは困ったように頬を掻くと、ほんとバカチカだね、と眉を下げて笑った。
「医務室で曜ちゃんを見たら、そんなこと考えた自分が恥ずかしくなったの。曜ちゃんはたくさん怪我しても諦めないでいっぱい頑張ってるのに、何の努力もしてない私が勝手に比べて、勝手に自分と違うって思って……それって曜ちゃんにすっごく失礼なことだよね」
 千歌ちゃんはそのまま俯くと、きゅっと両手を握り締めた。
「曜ちゃん、優しいから。それに甘えてずっと謝れなかった。……正直ね、このままでも良いんじゃないかって思っちゃうこともあったんだ。でも一緒にスクールアイドルをやるようになって、このままじゃ嫌だって思うことが増えてきて」
 千歌ちゃんの目が真っ直ぐ私に向けられた。それはスクールアイドルをやるようになってから千歌ちゃんが見せるようになった、強い色を持った瞳だった。
「あの時のこと謝らないと、本当の本当には曜ちゃんと一緒に頑張れないって、そう思ったから、だからね」
 ――曜ちゃん、本当にごめんなさい。
 自分の膝におでこが付いちゃうんじゃないかってくらいに、千歌ちゃんは深く頭を下げた。ぴょんって立ち上がった髪の毛が揺れて、ああ千歌ちゃんだなあ、って思う。
「うん、私もごめんね、千歌ちゃん」
 千歌ちゃんの肩に手を添えて顔を上げさせた。千歌ちゃんの目には涙が溜まっていたけれど、こぼれないようにぐっと力を込めて堪えていた。こういうところが千歌ちゃんの強いところだって思う。
「千歌ちゃんが何かを気にしてるって分かってたのに、ずっと気が付かないふりしてた。千歌ちゃんとこれ以上遠くなりたくないって思ったら怖くなって、逃げちゃったんだ」
 曜ちゃんすごいねって、千歌ちゃんもそんな風に傷ついた顔をして、離れて行ってしまったら。それってすごくすごく怖いことだって思ったんだよ。

 こんなにもたくさんの気持ちを、どうして私たちは隠しながら歩いて来たんだろう。自然と生まれた沈黙がなんだか照れくさくて、私たちは向かい合ったままくすくすと笑う。
「曜ちゃん。これからも、一緒にスクールアイドル頑張ってくれる?」
「そんなの当たり前だよ」
 千歌ちゃんと一緒だから、とか。千歌ちゃんのために、とか。そんな理由だけじゃない。いつの間にか大好きになっていたスクールアイドルだから、大切なみんなと頑張りたいんだよ。
「曜ちゃん、話してくれてありがと。私だけじゃ多分言い出せなかった」
「……私だってそうだよ」
 勇気なんてなかった。けれど私に勇気を分けてくれた人がいたから。私のことを心配して、たくさん力になってくれて、それでいて突然あんなことをして、今にも泣きそうな顔で私の元から離れて行ってしまった人。
 全速前進。その言葉を使うのはきっと今だ。
 梨子ちゃんに、会いに行かないと。



   ***



 その人は、籠城していた。
「おーい、梨子ちゃーん」
 ノックをしても名前を呼んでも何の返事もしてくれない。
 梨子ちゃんの部屋の前。廊下に正座したまま、強固な扉を前にため息をついた。勝手に扉を開けて乗り込んで行くことはできるけれど、梨子ちゃんが私を拒んでいるのだとしたら、ずかずかと踏み込んでいくのはどうしても躊躇われてしまう。
「出てきてよう、梨子ちゃーん」
 うちのパパとママは仲良しだから実物は見たことないんだけど、喧嘩した夫婦ってこんな感じなのかもしれない。いや、今はそんなことどうでも良いんだけれど。
 何か良い手はないものかって腕を組んで考えていたけれど、スマートな解決方法なんてひとつも浮かんでこない。

「梨子ちゃん、あのね。勝手に話すからそのまま聞いて」
 壁の向こう側に向かって話しかける。結局これしかなかった。今はとにかく梨子ちゃんに私の言葉を届けたかったから。
「千歌ちゃんとちゃんと話せたよ。……勇気出して良かった。梨子ちゃんのおかげだよ」
 だからね、と続けて私は立ち上がった。そのまま右手をそっと部屋のドアに当てる。
「高飛び込み――また見に来て欲しい。怪我が治ったらだけど、でも今度はちゃんと飛べる気がするから」
 確証なんて全然ない。けれどまた飛び込み台の上で怖くなったとしても、梨子ちゃんがいたらきっと私は勇気を出せる。はるか遠い水面がちゃんと私を受け入れてくれる。
 だって私はプールの音を聴いたんだ。
 私を呼ぶ優しい声だった。
「自分で言うのもなんだけどね、高飛び込みしてる時の私って、結構格好良いと思うよ。だから梨子ちゃんに見て欲しいな」
 相変わらず部屋の中からは物音ひとつしなくて、けれどもうここまで来たら続けるしかない。……引っ込みがつかなくなった、とも言うかもしれないけれど。

「それから、ね」
 こつんと扉におでこを乗せた。少しだけ心拍数が上がって、こっそり深呼吸をする。
「ふたりで、どこか遊びに行きたい」
 そこまで言って口ごもる。
 今回のことで力になってもらったから、そのお礼に。
 いろいろ迷惑かけちゃったから、お詫びに。
 それらしい理由がいくつも頭に浮かんで、たぶん私が口を開けば、いかにもそれっぽく言えるんだ。でも私の心の中にある本当の気持ちは別にあって、今それを隠してしまう意味なんて、きっとどこにもなかった。
 梨子ちゃんの顔が見えないことが、今は逆に良かったかもしれない。
 私はぎゅっと目を閉じて大きく息を吸った。
「……り、梨子ちゃんと、もっと仲良くなりてゃいから!」
 今どき小学生の男の子でも、もっと気の利いた言い方をするんじゃないかって思った。しかも緊張で自分でもよく分からない発音になってしまって、これはもう論外だ。
 でもこれが私だった。渡辺曜って人間だった。

「梨子ちゃん、ドア開けるよ。……嫌ならそう言ってね」
 ドアノブに手をかけたら、どきどきと心臓が高鳴った。まるで優勝をかけた飛び込みの前みたいで、けれど不思議と心の中は落ち着いている。
「梨子ちゃん、どこに――ひゃっ」
 ドアを開けて綺麗に整頓された部屋の中から梨子ちゃんの姿を探そうとしたその瞬間、何かに背中を押されて私は部屋の中に押し込まれてしまった。ばたん。背後で扉が閉まる音がした。
「り、梨子ちゃん、なんで、後ろから」
 梨子ちゃんは言いにくそうに口ごもると、
「トイレに行ってたら、急に曜ちゃんが来て……」
 私が部屋の前で演説を始めてしまったから、出るに出られなくなってしまった。そんな梨子ちゃんの言葉を聞いて、一気に顔に熱が集まっていく。部屋の前で百面相しながらうんうん唸っていた姿を見られていたなんて、それはさすがに、どうなんでしょう。思わずしゃがみこんでしまいそうになったけれど、背中に梨子ちゃんの体温を感じて、なんとかその場で踏み留まる。

「全部、聞いてた?」
「……うん」
 何にせよこれでようやくふたりきりだ。さすがに梨子ちゃんのお母さんに聞こえる可能性がある場所じゃ言えなかったことを、ようやく伝えられる。
「あのね、梨子ちゃん。音楽室での、その、あれなんだけど――」
「ごめんなさい」
 遮るようにして言われた。振り返ろうとしたら、こっち見ないでって梨子ちゃんに止められてしまう。
「せっかく曜ちゃんが頼ってくれたのに、裏切っちゃった。最低だね、わたし」
「……梨子ちゃん」
「でもね、曜ちゃんが苦しんでるのが嫌で、力になりたいって思ったのは本当だったの」
 それだけは信じて欲しいって、梨子ちゃんが絞り出すような声でそんなことを言うから、ぎゅって心臓が何かに掴まれたみたいに痛くなる。
 私を助けるためにプールに飛び込んだ時みたいに、梨子ちゃんはずっと私のために動いてくれたんだよ。最低なんて思うはずがないのに。梨子ちゃんがどれだけ私の力になってくれたのか、そんなの私が一番分かってるのに。

「私、嫌じゃなかったよ。……もちろん驚きはしたけど」
 ぴくりと背中の気配が震えたのが分かった。梨子ちゃんがどんな表情をしているのか分からないことが不安だったけれど、今はとにかく伝えるべきことを伝えるしかない。
「正直自分の気持ちがよく分かんなくて、でもね廊下で言ったことは全部本当だよ。だから」
 そっと右手を後ろに回したら、梨子ちゃんが控えめに手を繋いでくれる。梨子ちゃんがそうしてくれたように、今度は私の体温が梨子ちゃんを安心させてあげられたら良い。そう思って指先に力を込めた。
「……私と、デートしませんか?」
 梨子ちゃんと一緒にいたいから。それだけが理由じゃダメかな。
 そのまま梨子ちゃんの返事を待っていると、背中から涙混じりの声が聞こえた。
「デート、どこに行くの?」
「梨子ちゃんと一緒ならどこでも良いよ。あ、でも、ふたりで泳ぐのも良いな。また私が溺れちゃったら、梨子ちゃん助けてね」
 私がそう言えば、梨子ちゃんが抗議するように私の背中を叩く。思わず噴き出してしまったら、つられたように梨子ちゃんも笑ってくれた。
「曜ちゃん、どうしよう」
「なにが?」
「……なんだかもう、今日だけで曲が完成しちゃいそう」
 私って単純だね。梨子ちゃんはそう言って笑うと、私の肩におでこを乗せた。
「それって、もしかして私のおかげ?」
「……秘密」
 そう来たか。梨子ちゃんのケチって抗議しようとしたけれど、まあ良いかって諦めた。
 その代わり。
 私の背中にくっついてぐずぐず鼻を鳴らしている梨子ちゃんを思いっきり抱き締めたい、なんて私が思ってしまったってことも、梨子ちゃんには秘密だ。

 

 

 

 

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