――ところ変わって, 港町の中心部に位置するギルド本部。
書類がうず高く積まれた執務机に向かって, ギルドの帳簿を羽ペンでさらさらと付けていた一人のエルフが, その手を止めた。エルフの証しである尖った耳と, 気高さと厳格さを同居させた美麗な顔立ち。『AZALEA』の副団長ダイヤだ。
ダイヤは自分の中の何かを確認するみたいに, しばし黙り込む。それから, 顔を険しくさせる。
本棚の前で, 古書の整理をしていた有翼族の少女が, その不穏な気配を感じ取って, 背中の純白の翼をぴくりと身じろぎさせる。「……ダイヤさん?」と振り返る。
ダイヤはことりと羽ペンを置き,
「……花丸さん, 果南さんを今すぐ呼び戻してください」
と, 東洋の弦楽器のような, ぴんと張った声音で, 有翼族の少女に指示を出した。
「果南ちゃんを?」
「ええ, 緊急事態です」
『AZALEA』の書記長である花丸は, ダイヤの細まった瞳に何やら剣呑な色を見て取る。少なくとも, サボり中の団長を説教するため, といった些事たる理由で呼び戻そうとしているわけではなさそうであった。
花丸はしばし考えた後, 「わかったずら」と頷く。執務机から手頃な藁半紙を取って, そこに「ギルド本部へ至急戻ってくるように」という旨を果南宛てに書く。しかしこれだけではサボり中の果南が素直に戻ってくるとは思えない。少し悩んだ後, ギルドシギルに朱肉を付けて, 文末に押印する。ギルドの印章を用いるのは, 特に重要な書類のみであるから, これで火急の用であることは伝わるだろう。
出来上がったメッセ-ジを片手に, 次に花丸は自分の翼に手を伸ばして, 羽根を一つ抜く。その羽根を口許に近づけて, 吐息を掛けるように,
「《伝書鳩, どうか伝えて》」
と古代語で詠唱すると, 小さな羽根は光に包まれ, 生きた白鳩に姿を変える。「クルッ, クルッ」と鳴き声を短く立てる白鳩の足にメモを結びつけ, 窓を開けて飛び立たせた。
「――まったく何さもう」
どうやら, 本部から程近いところを出歩いていたらしく, 果南が伝書鳩を受け取って戻ってきたのは, それからわずか三分ほどであった。
ギルドの印章が押印された紙を人差し指と中指で挟んで, ひらひらと示しながら, 「わざわざ私を呼び戻すようなことでも, 起こったわけ?」とダイヤに向けて問いかける。
果南が戻ってくるまでの間, 事務作業を中断させて, 執務室の窓から海辺の町並みをフクロウのように警戒心の強い眼差しで見下ろしていたダイヤは振り返った。その顔立ちは団長が帰宅してなお, 緩むことなく引き締められている。
「……果南さん, 町で何か妙なことはありませんでしたか」
出迎えの挨拶もなく, 自分の質問をさらりと素通りされた上で, 問い返された果南は口端を変にねじ曲げる。
「妙なこと?」
「はい。名目上とは言え, パトロ-ルしてらしてたんでしょう?」
果南が腕組みへとポ-ズを変えると, がちゃ, と重々しい鎧の音が響く。紫色の瞳を執務室の天井の角へとやって, いくらか思考を巡らせながら答える。
「う-ん, まあ強いて言うなら, なんか『ブラザ-ズ』の二人が楽しそうに鬼ごっこしてたけど」
ダイヤは呆れるように眼を細めた。あのお二方が楽しげなのはいつものことでしょう……, と呟いて, 「そうではなくて」と否定して続ける。
「騒動の類です。誰かの悲鳴や何かしらの破壊音といった」
「……なんだか物騒だけど, そういった騒動はなかったね」
「そうですか。では, まだ大事には至っていないようですわね……」
ダイヤは細い顎先に指先をやって, 独り言のように呟く。話が全く見えないことに, 果南は眉をぐいっと寄せて, わかりやすく顰めっ面を作った。部屋の隅で場を見守るように直立していた花丸に, 代理の説明を求めるように眼を向ける。しかし, 果南に視線を向けられた花丸は, 小さく首を振って, 自分も説明を受けていないことを示した。果南は肩をすくめ, 視線を花丸からダイヤへと戻して, 言う。
「ねえ, ダイヤ。いい加減, 何があったのか, 教えてほしいんだけど」
脳内でセッティングされたチェスの盤面の戦略を幾千もシミュレ-トするかのように, 翡翠の色を遠くしていたダイヤは, 団長の命令を受けて, ようやく顔を上げる。すっと窓際から一歩離れて, 果南の方へ近づく。腕と腕を胸元で添え合わせるような腕組みをして, やおら口を開いた。
「……港町内にて, 不特定の魔力放出を検知しました」
ダイヤの言葉に果南と花丸は, 「…………」と先程とは違う意味合いで再び顔を見合わせた。
この世界では魔力を有するもの, 言葉を変えれば魔法を扱えるものは特定の種族のみに限られている。魔力を持たない筆頭例で言えば, 人族と獣族。魔力を持つ筆頭例で言えば, エルフ族や魔族が挙げられる。『AZALEA』の中では, エルフ族のダイヤと有翼族の花丸は魔法を扱うことができるが, 果南は扱えない。
また魔力の有無が種族によって左右されるように, 特定種族が用いる魔法にはその種族の特色が魔力に出る。ダイヤが魔力感知, 結界構築といった防衛系魔法を得意として, 花丸が回復, ステ-タス強化といった支援系魔法を得意とするように, 種族によって使用できる魔法の種類に差異があるのだ。そのため, ダイヤのように魔力感知を得手とするものであれば, 放出された魔力を感知するだけで, それがいかなる種族の魔力のものかわかるのである。
それを理解している果南と花丸はダイヤが口にした「不特定の」という表現に, 意識を向けざるを得なかった。
貿易が盛んな港であるがゆえに, この町では様々な種族が行き交う。その中には当然魔力を有する種族も含まれている。この港町の治安を守る役目を持ち, 常時魔力感知の警戒網を張っているダイヤは, ほとんど全ての種族の魔力の特徴を把握していると言ってもよい。そのダイヤが「不特定」と述べたのだ。イレギュラ-なことには違いない。この時点で果南と花丸の二人は嫌な予感を発動させる。
種族内でも多様な魔力性質を持ち, 魔力の特色が特定できないものと言えば――
「まさか, 魔物ずら……?」
花丸がおそるおそるといったように問う。ダイヤは瞼を下ろし, その美しい髪が揺れないほどに静かな所作で首を横に振る。
「いいえ, 違います」
ダイヤの返事に, 花丸はあからさまにほっとしたような顔をする。しかし, ダイヤは厳しい表情で, その花丸の安堵も「おそらく魔物よりも厄介なものです」とさらに否定してしまう。
「魔物より厄介って……」
果南が空虚に訊き返す。ダイヤはこつこつと固い足音を立てて執務机の裏から出てくる。
「わたくしが検知した魔力は, 感知しづらいようにノイズめいたものが掛かっていました。巧妙な技ですわ。知恵のある魔物でもこのような芸当は出来ないでしょう」
ダイヤが立てる静かな足音が執務室に響く毎に, 果南たちの緊張感は自然と高まっていく。
「おかげで, 一度目の魔力放出では気のせいかとも思ってしまいました。……ですが, 二度目で確信しました」
部屋の中央に立った果南の横を通り過ぎたダイヤは, 扉の手前でくるりと身を翻す。その後ろ姿を眼で追っていた花丸, 次いで果南を翡翠の瞳で見返し, 強固な城門のように重々しさのある口を開く。
「ノイズで隠された魔力はわずかな片鱗ばかりしか感じることしか出来ませんでしたが, それでも今までわたくしが肌に感じてきた, いかなる種族の魔力とも異なっていました」
あれはおそらく, とダイヤは言う。
「――『湖の魔女』ですわ」
ダイヤの必要最低限の声量は, しかし執務室に殊の外大きく聞こえた。他の音がなかったからだろう。しん, とした静けさが場を支配する。
果南は自分の舌が乾いているのを自覚した。唾を飲み込んで, 喉を鳴らそうとするが, 詰まるような感覚しかない。舌根を駆使して, なんとか言葉を発する。
「『湖の魔女』? 冗談でしょう?」
冗談であることを願うような果南の問いかけに, ダイヤは返答の代わりに押し黙った。果南は右腕以上の存在として信頼を置く副団長に, そのようなポ-ズを取られて, 本当に『湖の魔女』がこの港町にやってきたという事実を受けとめざるを得ない。
眉を鋭く吊り上げた団長と, 押し黙る副団長とを交互に見やっていた花丸が, 「あの……」とおずおずと小さく手を上げる。
「『湖の魔女』……ってなんずら?」
遠慮がちに差し出された質問に答えたのはダイヤだった。ああ, と小さく呟いて,
「……花丸さんはまだこの町にやって来てから日が浅いから, ご存じありませんでしたか。〝그녀〟は港町に古くから伝わる伝承の一つですわ」
そう言って, 港町の子ども達に言い聞かせるための〝神秘の湖を守る恐ろしい魔女〟の伝承を掻い摘んで語る。神話や奇譚といった物語を描いた古書が大好物である花丸は, ダイヤが語った伝承に少なからぬ興味を引かれたようで, 微かに眼を輝かせたが, 今はそんな呑気な場合ではない。ダイヤが一つ咳払いをして, 花丸は慌てて背中の翼をぴんと正した。
「まあつまり, 『湖の魔女』とは, この港町において, そのように認知される存在です」
「でも, ここ百年ばかりはずっと何もなかったのに。一体どうして……」
果南が呟くように言う。それに対してダイヤは少し考えた後, 「あるいは」と返す。
「この静寂の百年が雌伏の時であったという可能性も」
果南と花丸はダイヤの言葉を受けて, それぞれにしばし沈黙した。その後に急にはっと思い出したように果南が「ねえ待って」と声を上げる。
「ダイヤ, 二回魔力放出を感知したって言ったよね。ということは, すでに二回『湖の魔女』がこの港町内で魔法を使用したってこと?」
「そうなりますわね。被害がなければいいのですけれど」
自分の預かり知らないところで, 『湖の魔女』の魔法被害を受けた港町の住民がいるかもしれない。それを認識した途端, 果南の中で『AZALEA』の団長としての気概がかっと燃え上がる。紫の瞳は魔法でできた炎のように揺らめく。そこにはすでに, 数刻前までのんびりと町を散策していたサボり魔団長の姿は消滅していた。
「――ダイヤ」
果南は海底に沈んだ石のように硬質な声を出す。ダイヤは変容した果南の瞳を見つめ返し, 「なんでしょう」と答える。
「『湖の魔女』の居場所を特定できる?」
ダイヤは一拍置いてから, 顎先をつんと逸らして, 漆を塗ったように艶やかな黒髪を右手で払う。
「わたくしを誰だと思っていますの? 手間は掛かりますが, やれないことはありませんわ」
一見高慢で, しかし実に頼もしい返事をしてくれたエルフの副団長に, 果南は頷きを一つ返す。それから視線を移して, 花丸の方を見る。
「マル。マルは念のために伝書鳩を近隣の駐在兵に送って, 応援要請。それからダイヤが『湖の魔女』の居場所を特定次第, 周囲の住民を避難させる役目も頼みたい。いいね?」
団長から与えられた指示に, 花丸はこくこくっと頷いて見せる。果南の指示が終わったところで, ダイヤが口を挟む。
「『湖の魔女』を見つけるのはよろしいですが, こちらはどのように対処しますか, 果南さん」
「そんなの決まってる」
果南は無意識に腰の剣に手をやった。女王陛下より賜った宝刀が, 久しく真価を発揮できる盤面に肩を揺さぶられて目を覚まされたように, 光沢のある鞘がきらりと反射する。
「――この港町を守るのが, 私たちの役目だよ」
리코から頼まれた品物を首尾よく購入できた요우たちは, 後はもう帰還することのみをミッションにして, 港の通りを歩いていた。요우がみかん四つと林檎二つ, 치카が牛乳瓶二つを, 両手でだっこするように抱えながら, ご機嫌に歌を口ずさむ。
「も-もたろさん, ももたろさん♪ お腰につけたキビダンゴ-, ひとつわたしにくださいなあ♪」
「や-りましょお, やりましょお♪ これからオニのせ-ばつに-, ついて行くならやりましょお♪」
「い-きましょお, いきましょお♪ あなたについてどこまでも-, けらいになっていきましょお」
一番の歌詞まで歌い終わって, 치카がちょんと頭のてっぺんに生えたアホ毛とともに首を傾げる。
「ね-, よ-ちゃん。キビダンゴって何かなあ」
「おだんごだから, おかしじゃないのかな?」
「みかんより美味しいのかなあ」
치카の問いに요우も「食べたことないから, わかんない」と首を斜めにする。
「でも, 리코쨩が作ってくれるおかしの方が美味しいと思う!」
「리코쨩のおかし!」
리코が作ってくれたさくさく生地のアップルクリ-ムパイや, ほろほろと口どけの優しいバタ-クッキ-の味を舌の上に思い出したのか, 치카が眼を輝かせる。
「お家にかえったら, おつかいのごほ-びにおかし作っててくれるかなあ」
「楽しみだねえ~」
ね-, と二人で笑い合っていると, 頭上からぱたぱたと羽音がする。耳の良い요우がその音につられて, 空を見上げると, 数羽の白い鳩が何処かへ飛んでいくところだった。
「あ-, 花丸ちゃんのハトさんたちだ-っ」
요우の視線の先を追った치카が指を指しながら, 声を上げる。
「ハナマルちゃん?」
初めて聞く名前に, 요우が訊き返す。
「あ, よ-ちゃんは会ったことないんだっけ? ええとね, あぜりあっていうギルドの人でね, 背中にまっしろなお羽があるの」
「お羽?」
「うん, 花丸ちゃんみたいなしゅぞく?の人は, きしょ-?でこの町でもなかなか見ないんだって」
背中に羽があるという情報に, 요우は意識の連想部分を刺激され, 気まぐれな頻度で自分の家に訪れる리코の友人, 요하네を思い出す。
요우が物心つく前から傍にいて, もう一人の保護者とも言ってもいい그녀は, 夜の空気に浸したような漆黒の翼を持っていた。見た目は冷ややかそうな그녀の翼は, しかし触ればとっても柔らかくて温かい。요우の尻尾と同じく, 身体の中でも特に敏感な部位らしく, 요하네には「ちょっとくすぐったいっ, ぺたぺた触るんじゃないのっ」と怒られてしまったこともあるが, 요우が「くぅん……」とか細く声を鳴らすと, くっと顔を歪め, 「ああ, もう勝手にしなさい!」と言ってくれた。そんな経緯もある요하네の黒い翼は, 리코の腕の中に次いで, 요우のお気に入りだ。요하네の背中に張り付いて, 温かな翼に包まれながらすやすやと眠るのが요우は好きだった。
そこでふと, そういえば, と요우は思う。人が溢れるこの港町でも, 요하네や리코と同じにおいを持つものはいなかった。
「あぜりあにはね, あとね, ダイヤさんっていう, 怒るとちょっとこわい人もいて, その人はエルフでね-, あとあと-, さっき会った果南ちゃんはね-, 全然そんなふうに見えないけど, あぜりあで一番えらい人なんだけどね-, しゅぞくはね-」
치카の声を耳の浅い部分で聞きながら, 요우はそのことについて考えてみる。でもまだまだ容量が小さな頭でよくわからない。そもそも「しゅぞく」という概念も요우はよくわかっていないのだ。結局, 요우は「리코は리코で, 요하네は요하네だ」という簡潔でそれでいて揺るぎない結論に至る。
요우がそのような子どもだからこその純粋な考えに至ったところへ, がしゃがしゃがしゃっ, と重たくそれでいて素早い音が聞こえる。
「치카ッ!」
鋭さのある声で치카の名前を呼んだのは, 果南だった。「果南ちゃん?」と先刻別れたばかりの相手に再び遭遇したことに, 眼をまあるくした치카の前で, 果南がききっと足を止める。右手を長剣の柄に当てたまま, 険しい顔で啖呵を切った。
「치카, それから요우쨩! 二人とも今すぐ家に戻って! 家に戻ったら, 今日一日は絶対に外に出ないこと, 志満さんたちにもそう伝えて!」
必要最低限のことだけを伝え, 周囲を歩いていた港町の住民にも「あなたたちも!」と怒声のように投げかけてから, 再び鎧を装備しているとは思えないほどに驚異的なスピ-ドで通りを駆け抜けていった。
真紅のマントが水平にたなびきながら, みるみるうちに遠ざかるのを, 치카と요우が揃ってお目めをぱちぱちさせて見ていると, 今度は羽音が降ってきた。
真っ白な羽を数枚美しく散らし, ふわりと二人の頭上から現れたのは, 栗色の髪を持った少女だ。「……しょ, と」と軽い掛け声で着地すると, 요우たちの方を振り返る。背中に白い翼があることを見て, 요우は그녀が件の「ハナマルちゃん」らしいと見てとる。
「花丸ちゃん, 果南ちゃんど-したの?」
치카が後から現れた花丸に問いかける。年が離れているとは言え, 明快で奔放な果南は치카にとって, 友達のような存在だ。そんな果南がいつになく険しい顔をしていたことに, 치카はなんとなくいつもと違う気配を感じ取っていた。花丸はそんな치카の心境を晴らすように, にこっと笑みを作って答える。
「なんでもないよ, ちょっとしたお仕事だから。さ, 치카쨩たちは果南ちゃんの言う通りお家に帰るずら。マルが途中まで送っていってあげるからね」
「おしごとってなあに? ネコちゃん探し-?」
치카が無邪気な好奇心を発揮させる。「え, ええと」と花丸が言い淀んでいる間に, 요우は그녀の全身を眺めてみた。
服装は純白のキトン。靴は革製のボ-ンサンダル。町で見かけた中でも, この港町に定住しているらしい人はシャツにズボンという出で立ちが多かったため, 그녀の服装にはどこか異国の装いのような印象を受ける。首元にはアクセサリ-か, あるいは何かのまじないが掛かったお守りなのか, 灰色の羽根を紐に通して提げていた。
その首飾りを見た요우は, ふと思い出して, 自分の胸元に眼がいく。리코が魔法で仕立ててくれた麻布でできた淡い水色の衣服。右胸の部分に碇のアップリケがつけられているが, それ以外は何もない。ぺたぺたと首元を触ってみる。が, やはり何もない。
「…………ちかちゃん」
なあに, なあに, おしごとってなあに, と「なあに」を連発させて花丸を困り眉にさせていた치카が, 요우のか細い声に気づく。?と小首を傾げると, 요우はくしゃりと泣き出す一歩手前まで顔を歪めて言った。
「……りこちゃんのおまもりがない」
「え!」
「おとしちゃった, かも」
じわじわと요우の眼に涙が滲んでくる。「絶対に失くしちゃダメ」と리코から言われていたのに。리코との約束を破ってしまったという思いに駆られて, 요우の尻尾がきゅうっと丸まる。
「たいへんだよ! 取りにもどらないと!」
言うが早いが, 치카は果南たちの忠告も忘れ, 요우の手を引いて, 来た道を戻ろうとする。だが, ダッシュを決めようとした치카のおでこが, 途端べっち-ん!と派手な音とお星さまのエフェクトを出して, 何かと衝突する。
「ふなぬっ!?」
形容しづらい音を出して, 牛乳瓶を持ったまま, あわや倒れそうになったところを「わわっ」と花丸が抱き留める。
「な, なあにこえ……?」
おでこをうっすらと赤くさせた치카が通りを見る。そこには何の変哲もない通りが続いている……いや, よくよく眼を凝らせば, 日に当たって反射する半透明のエメラルドの膜のようなものがいつの間にやら存在していた。
「ダイヤさんの結界だよ」
「けっかい?」
アクセントの位置が少しずれたオウム返しに, 花丸は頷く。
「ここから先はもう入っちゃだめだよ-って通せんぼしてくれてるの。見てのとおり入ろうと思っても, 入れるものじゃないからね」
さ, わかったら, 行こう?と促す花丸に, 치카はきょとんとした顔で訊き返す。
「入れないの?」
「入れないの, ずら」
「どうして?」
「どうしても, ずら」
「でも, 요우쨩は通れたみたいだよ?」
「……えっ?」
치카がその小さな人差し指を向けた先を追えば, 結界を通り抜けて, すでに二十メ-トルほど先まで行ってしまった요우の姿が見えた。「ずらあっ!?」と花丸は素っ頓狂な声を上げる。慌てて後を追いかけようとしたが, 치카の二の舞となって, ごっち-ん!と結界に阻まれてしまう。強かに打ち付けた鼻柱を押さえながら, 「ま, マルもダイヤさんの上位結界には入れないんだった……」と涙目になってよろめく。
指定された面積を半球状で閉鎖するダイヤの結界は, 術者が任意で取り入れた人物か, あるいはこの結界に弾かれないほど魔法耐性が高い人物しか侵入できない。その意味で言えば, この結界では高い魔力を持ち合わせた『湖の魔女』を閉じ込めることはできないが, ダイヤがこの結界を作り出したのは, 『湖の魔女』を閉じ込めるためではなく, むしろ港町の住民を近づけさせないようにするためだ。住民を巻き込ませない意図で作り出された結界であるから, 無論ダイヤが요우を結界内に入ることを許可したなどということは, 万に一つもあり得ない。
では, どういうことか。瞬間, 思考を跳躍させようとした花丸だったが, いや, 今はそのような状況ではない, と思い直す。
「と, とりあえず, だ, ダイヤさんに連絡!」
花丸はテンパった様子で自分の羽根をむしり取って, 魔法で伝書鳩を生み出す。「お願いずら!」と連絡役を託そうとした花丸に, 光をまとって生まれた白鳩が目の前の結界を見て, 「……クルック-」と切なげな鳴き声を立てる。白鳩は主人たる花丸の方へ首だけを振り返らせる。その目は「わっしもこの中には入れませんねん」と伝えてくるようである。
ず, ずらあああああ, という花丸の声が人払いされた港町の通りに響いた。
しゃらん, と透きとおった鈴の音が鳴る。
「《ゆく川の流れは絶えずして, しかも, もとの水にはあらず》」
港町の時計台の上で, 黒い髪のエルフは舞う。
「《よどみに浮かぶうたかたは, かつ消えかつ結びて, 久しくとどまりたるためしもなし》」
手には七宝つなぎ, 紅色の扇。風を起こすのではなく, 光の粒子をそっとそっと押し出すように振る舞われる。扇がぴたりと静止する度, しゃらん, と鈴の音は鳴る。
「《世の中にある人のすみかと, またかくのごとし》」
毅然とした声音を受けて, エメラルドの結界は頂点から輝きが波打つ。上位結界を維持しながら, ダイヤはそっと片目を開けて, 時計台の真下を見下ろす。そこには今しがた到着したばかりの果南がいる。果南は時計台の方に背を向けて, 正面を見据えていた。그녀の視線の先には黒いマントに身を包んだ不可思議な雰囲気を漂わせる存在がいる。果南が相手の出方を見るようにじっと凝視するのに対して, 黒マントは自分を睨むものたちなど意識にもかけていないように, 腰を屈めて, 何かを拾い上げていた。精巧な木彫りの細工がされた小さな木片らしい(だが, 遠目には詳細はわからない)。黒マントがそれを裾の中にしまい, 厳かに立ちあがったところを見計らって, 果南は口を開く。
「――『湖の魔女』」
二つ名を呼ばれても, 『湖の魔女』は身じろぎ一つしない。その無反応を観察しながら, 果南はすぅ――っと腰の鞘から, 長剣を抜刀する。鏡のような刀身が現れ, その刃先を『湖の魔女』の方へ向ける。
「この港町はね, 私たちの町なんだ。私にはここを守る義務があり, 災いをなすものは撃退しなくちゃいけない。でも今ならまだ見逃せる。森へ帰って, 『湖の魔女』」
『湖の魔女』は当然のように返事をしない。頭部をすっぽりと覆うフ-ドの中は, 岩の隙間に隠れる山椒魚のように沈黙を維持する。
「そのだんまりは拒否ってこと?」
「…………」
「嫌でも返事をするつもりはないんだね。だったら」
果南は一度眼を閉じる。再び見開かれた時, そこにあるのは刃のごとき鋭い眼差しだった。
「力づくで――追い出すッ!」
ダッ, と地面を蹴る。空気もろとも切り裂く一振りで『湖の魔女』を捉える。シュパッ, と斬撃が鳴る。だがその刃は二ミリほどマントの裾を切り払っただけで, 瞬間飛びずさった黒マントの中身を逃してしまう。
「ハァッ!」
雄々しい気合とともに, 果南は空振りとなった長剣をぐっと構え直し, 真空破とも見間違えるような突きへ移行する。『湖の魔女』はそれもたった一歩のステップで横へ避ける。体重移動についていけず, 宙にふわりと漂ったマントに突きが命中する。空っぽの手ごたえ。果南はマントに剣を刺したまま, 横に払う。びっ, という音がして, 生地が引き裂かれる。黒マントの下のジョッキ-ブ-ツが覗く。しかし, それも一瞬で, 引き裂かれた黒マントは不可視の糸と針を持ったように, あっという間に修復される。詠唱なしでの魔法の発動に, 果南はやはり그녀は『湖の魔女』だと眼光を強めた。
「《朝に死に, 夕べに生まるるならひ, ただ水の泡にぞ似たりける》」
ダイヤの詠唱を背中に聞きながら, 果南は更なる猛攻を繰り出すべく踏み込む。ぶおん, と突風を起こすような音を立てて, 長剣を右に薙ぐ。『湖の魔女』が際どいところで躱す。くるりと手首を返して, 左斜めに薙ぐ。ちっ, とマントの裾を掠める。
「《知らず, 生まれ死ぬる人, いづ方より来たりて, いづ方へか去る》」
時計台の上で果南の猛攻を見守るダイヤは, 「肉迫はしているものの, あと一歩が足りない」と感じていた。女王直々に褒章が与えられるほど, 武勇を欲しいがままにした果南が攻めきれないのは, おそらく二つの理由からだと, ダイヤは予測を立てる。一つは, この戦いの場が果南に適した環境ではないこと。花丸の支援魔法があれば, 擬似的に果南が最大限能力を発揮できる場にして, 果南の全ステ-タスにバフを掛けることができるが, 生憎ダイヤの結界の中では花丸の魔法は発動できない。そして二つ目の理由。それはきっと果南が躊躇いを捨てきれていないからだ。
「何を企んで, この港町に来たの!? 『湖の魔女』!」
流星群のような手数の多さで押し込もうとするが, 『湖の魔女』はそれをステップのみで全て回避する。果南は剣を握る力を, 瞬間強める。軌道の残像すら持たない, 神速の一撃を振り下ろす。これは避けきれないと思ったのか, 『湖の魔女』は受け止めた。あろうことか素手だ。だがそこから鮮血が飛び散ることはなかった。代わりに鳴り響いたのは, ギイィンと金属と金属とがぶつかり合うような音。見れば『湖の魔女』の手には銀色の光が宿っていた。防御魔法だ。果南は歯を食いしばりながら, 全体重を剣に乗せるが, 光はミスリルの重厚な盾と並ぶほどの手ごたえを跳ね返してくる。果南は奥歯をぎしりと鳴らす。
「――っせやァッ!」
押し切るのは無理だと判断した果南は, 左拳でがら空きの脇腹めがけて正拳を叩き込もうとする。
『湖の魔女』はその攻撃を察知して, 後方へ五メ-トルも跳躍した。重力を軽減しているかのような軽やかさ。広場のボラ-ドの上に降り立ち, 見事なバランスで片脚立ちをする。
果南は荒く息を吐く。喉がからからに乾いていた。開いた距離をすぐには縮めず, 体勢を整える。じゃき, と身体の正面で剣を構える。
「……どうして反撃してこないの」
果南がどれほど攻撃を繰り返しても, 全く反撃してこない『湖の魔女』。それこそが果南が剣技のリミッタ-を外しきれない躊躇いの理由だった。魔力を有しているとはいえ, 視覚的にはほとんど丸腰。こちらの攻撃を避けるばかりで, 一向に攻め手に転じないものを相手に, 問答無用で致命傷を負わせに行くのは, 果南の騎士道精神が阻んでいた。
「私相手なんて攻撃することもなくあしらえるっていう驕り? それとも何か企みでもあるの?」
『湖の魔女』は当然ながら答えない。フ-ドの中の素顔は依然隠されたままで, そこにどのような表情を浮かべているのかも窺いきれない。
「《また知らず, 仮の宿り, たがためにか心を悩まし, 何によりてか目を喜ばしむる》」
ダイヤはしゃらんと扇を鳴らしながら, 『湖の魔女』に問いかける果南を左目に映す。騎士道に忠実な果南の在り方は, 『AZALEA』団長の誉れと言える。だが, 今この時は, その騎士道が「軽んじた甘さ」に直結していると辛く評価しなくてはいけない。
相手は『湖の魔女』なのだ。混じりけのない赤々とした闘気で挑まなければ, いつ手のひらを反して反撃してきた『湖の魔女』に足許をすくわれないとも限らない。
果南もそれはわかっているはずだ。ダイヤの視線の先で, 果南が沈黙する『湖の魔女』に向けて, 溜息をつき, 軽く首を振る。苦虫を噛みしめるような顔をして, 果南は長剣を鞘に収めた。だが, それは戦いを収めるということを体現する動作ではない。
果南は深く息を吸って, 吐き出す。やや脱力した肩から, 胸を張るように背筋を整える。適度に力は抜きつつ, それでいて身体の芯は一本の金属のように固くする。右足を前へ, 左足を後ろへ。左手は腰の鞘へ, 右手は柄へ。視線は僅かな揺れもなく, 凍った水面のように, 『湖の魔女』を見据える。『湖の魔女』は完全な受け身を維持して, 何の動きも見せない。侮っているのか, あるいは。そう思いながらも, 果南はいや侮られていたとしてもいい, と思う。変な矜持など犬に食わせてしまえばいい。果南の役目はこの港町を守ること, それ以下でもそれ以上でもなく, それだけなのだ。
一瞬の静寂が潮の匂いの中で漂う。その後, どんっ, と爆発音のような振動を立て, 果南は猛然と突っ込む。五メ-トルも離れていた距離を, 地面を水平に滑走するような足運びの僅か二歩で詰める。姿勢を低くして, 『湖の魔女』の正面よりは少し斜めの懐の位置に潜り込む。果南の視界に間近になった黒マントが揺れる。『湖の魔女』のフ-ドが不意を突かれたように, 微かに動く。時間にしてコンマ2秒の身体の強張りによってできた隙を, 果南は見逃さない。最大限に時間が引き延ばされたような景色の中で, 無音で抜刀する。ダイヤが生まれ育った極東の国で会得した居合術。上空を旋回していた鷹が獲物を見つけて, 急降下するように, 沈黙に落ちていた長剣が突如としてぎらりと獰猛な銀色を持つ。
致命傷まで負わせるつもりはない。しかし, 治癒のために, 森の中へ引っ込めさせるくらいの傷は負わせるつもりの気迫で, 剣を揮う。剣先が黒マントをくっきりと捕まえる。抵抗もなくマントの布に切り込みが入る。貰った, と果南は思う。
だが, 途中まであったはずの手ごたえが, あたかも蜃気楼であったかのように, ふっと消える。「っ!」と果南が顔を険しくする。対象を失った長剣が, 空気だけを割く。剣がぴたりと静止して, その0.5秒後に遅れて, ザンッ!と音が鳴る。
果南が顔を歪めて背後を振り返るのと, 輝く粒子をまとって, 『湖の魔女』が具現化するのはほぼ同時だった。時計台の上から俯瞰していたダイヤは, 一連の不可解な現象が移動魔法による回避だとすぐに目星をつけた。
果南の疾風迅雷と言っても過言ではない早業すらも, 『湖の魔女』が無詠唱で扱う防御魔法, 移動魔法によって防がれ, 躱される。ああ, やはり, 〝魔女〟は化け物だと, ダイヤは鳥肌を立てる。
その畏怖を果南も同様に感じたのだろう。不規則な呼吸を立てて, 長剣をだらりと下げ, しばし棒立ちになる。だが, 燻る炭をありったけかき集めて, 再燃させるように眼差しをキッ, と強める。
「はあああッ!」
虚勢じみた雄叫びを上げて, 果南はさらに『湖の魔女』に挑む。果南の赤いマントがはためく。それはまるで戦火にも見える。
「せいッ」
斜めに切り払う。『湖の魔女』は右足のブ-ツをかっと鳴らして, 後退する。
「はッ」
真横に一閃。『湖の魔女』は今度は左足を引く。再びかつっ, と残酷なほどに冷静な足音が果南の耳に届く。
「っ, やァ――ッ!!」
果南は気合を振り絞って, 三連続の突きを繰り出す。だが, 『湖の魔女』は最早魔法を使うまでもなく, さらり, さらりと風に揺れる簾のように避けていく。果南の顔には苦悶の色合いが滲むように広がる。さらに攻撃を続けていくが, 果南の剣筋は続けば続くほど, 無駄に大振りとなり, 乱れ, 速度は落ちていった。
「《その, あるじとすみかと, 無常を争ふさま, いはば朝顔の露に異ならず》」
ダイヤは危惧を覚える。あまりにも果南の攻撃が乱れすぎている。あれでは武術の心得がないものが相手でも簡単にあしらえてしまえるくらいだ。いくら『湖の魔女』を相手取っているとは言え, 平生の団長とはかけ離れたキレを欠いた剣術に, ダイヤはおかしいと思った。
目を凝らせば, 果南の唇が乾き, うっすらと紫色になっているのが見えた。遠目にもひどく息切れしているのがわかる。
――もしや, 魔女の実力を目の当たりにして, 気概を削がれてしまったことだけが原因ではない……?
果南がそのような症状を引き起こす原因に, 一つだけダイヤは心当たりがあった。たらりと冷や汗がダイヤの頬を伝う。しかし, まさか, いや, まさか。
「……は, ぁっ……く……!」
ついに無様ながらも続けられていた, 果南の攻撃の手が止まる。がくっとアキレス腱を切られてしまったように, 果南が膝をつく。握力を失った手から, からん, と乾いた音を立てて, 長剣が滑り落ちる。
か, 果南さん, まさか, こんな時に……と, ダイヤが抱いた最もありえてほしくない예상は, しかし, 地面に籠手をついて, 肩を苦しげに上下させる果南が, か細く言った言葉で, 正しかったと裏付けされてしまう。
「身体が, 乾いて……力が出ない……っ!!」
――『AZALEA』団長, 果南。種族, 魚人族。剣の腕前は王国一とも言われるが, 一定時間水を浴びずにいると, 身動きがまったく取れなくなるという最大の弱点を持っていた。
ダイヤはつい詠唱を中断させて, 「果南さん, 嘘でしょうっ!?」と叫んでしまう。はっとした時にはもう遅く, 維持に連続的詠唱を必要とする上位結界は, 頂点からすうっと溶けて消えていってしまう。ダイヤは一瞬頭の中で判断を迷らせたが, それよりも今は目の前の団長である。短い詠唱を素早く述べて, 時計台の下で蹲る果南の元へ魔法で駆けつける。
「なんっで, よりにもよって, こんな時に! 午後の水浴びはどうしたんですかっ!?」
「至急, 戻ってこいって言ったのは……ダイヤじゃんかぁ……私のせいじゃないぃ……」
「おバカなんですのっ? おバカなんですのっ!?」
こうなった果南はもう五歳児の子どもよりも役立たずだ。このままでは『湖の魔女』に手も足も出ないまま, やられかねない。とりあえず, この干からびた団長を海に突き落としてしまわなくてはと, 果南の腕を自分の肩にかけて, 持ち上げようとするが, 総じて腕力が低いエルフ族の細腕では重たい鎧を着込んだ果南を持ち上げることは叶わず, 「ぴぎゃっ」と潰れる。
「お, おもっ, 重いです, わ!」
「……みずぅ……」
「…………」
乾いたカエルのようにへばった果南と, それに下敷きにされてばたばたともがくダイヤを, 気のせいか, フ-ドの奥で憐れむような雰囲気を持って傍観する『湖の魔女』である。
そこには, つい一瞬前までのバトル的空気は跡形もなく霧散し, 最早ギャグの絵面以外の何ものでもなくなっていた。
と, そこへぱたぱたと軽い足音が介入する。
「――っ」
ダイヤがはっとしてそちらを見ると, 林檎とみかんを抱えた小さな獣人の子どもが駆けてくる。急いで, 『湖の魔女』の方を見ると, 〝그녀〟もそちらに気づいたようだった。フ-ドの向きをダイヤたちから逸らして, 獣人の子どもの方を見る。
いけない, こっちに来ては――。そう制止しようとしたダイヤだったが, それよりも早く,
「――わぅっ」
と, 獣人の子どもが小石に躓いて, ぺちゃっと転んでしまう。抱えていた林檎とみかんがころころっと転がっていくのをつい目で追った, 次の瞬間。
「――요우쨩ッ!!」
聞いたことのない, 澄んだ声をダイヤは聴いた。一体, 誰の声かと虚を突かれたダイヤを余所に, 『湖の魔女』がタン, とブ-ツで地面を蹴り, 大きく飛ぶ。果南と対峙していた間も, 魔法で固定されていたかのように揺るがなかったフ-ドが, それによってばさりと後ろへ外れる。ダイヤはその黒いフ-ドの中から, 麗しく艶やかなワインレッドの長髪が踊り出たのを見て, その翡翠の瞳をいっそう大きく見開いた。
軽やかに獣人の子どもの傍に着地した『湖の魔女』は, 両膝をついて……,
「ああああああああ, 膝! 擦り剝けちゃってる! 血出ちゃってる! どどどど, どうしよう! どうしよう! ええっと, ええっと, ああ, そうだ!」
傍目から見るこっちが茫然とするくらいの, 動揺っぷりを披露した。
ダイヤがぽか-んとしている間に, 港町で恐れられているはずの『湖の魔女』は, ふいっと指を振り, ぽぽぽんと何かを出現させる。すり鉢と, すりこぎ棒, その他小瓶やら, なんやらかんやら。
道端で唐突にお店を開いた『湖の魔女』はすりこぎ棒を片手に, 語気強く言い放つ。
「今! 万能薬(エリクサ-)作るからね!」
……エリクサ-, とは。
一滴で致命傷さえ塞ぎ, 二滴で欠損した部位すら修復し, 三滴で死者をも蘇らせると言われるほどの, 超絶ウルトラハイパ-希少価値のある薬である。その効能も恐ろしいが, さらに恐ろしいのは, その取引価格。市場ではまず出回わっていないため, 逸話的代物になってしまっているが, その価格は庶民が十回人生を繰り返して得た生涯賃金をも上回るという。
その昔, 不治の病に罹った一国の暴君が, 国財を投じてエリクサ-を得ようとし, 結果病は治ったが, あまりの利己的暴利に怒った民たちに反乱を起こされ, 結局国が滅んでしまった……などという寓話すらあるくらいだ。
要するに, たかだか子どもの擦り傷に使うものではない, ということである。大事なことなので, もう一度繰り返そう。子どもの擦り傷に使うようなものでは, 断じて, ない。
「……よ-ちゃん, そんなにいたくないよ?」
「だめっ, バイ菌さん入っちゃってたら, 大変でしょうっ」
マンドラゴラの根やら, 人魚の虹鱗やら, 黒竜の捻じれ角やら。ギルドに採取依頼が来たら, 報酬が何百万となるような逸品たちを並べ, エリクサ-の道端お手軽クッキングを開始する『湖の魔女』。
ごりごりごりっ!ととてつもない勢いで, すり鉢にかけられていくマンドラゴラの根が, 「きぃやあああぁぁ~~~……」と細く引き延ばした悲鳴のようなものを上げるのを聞きながら, ダイヤは額にぺたりと手を当てる。
生真面目な『AZALEA』副団長には, 目の前の奇怪すぎる光景を, どう受け止めればいいのかわからなかった。
そんな状態に陥っていると, 「――ダイヤさ-ん!」とばたばたっという忙しない羽音とともに, 馴染のある声が降ってくる。見れば, 花丸だ。腕の中には치카もいる。
とん, とダイヤの近くに着地した花丸は, ダイヤの身体の上で乾ききったクラゲのように弱った果南と, それから, 何か変なことをしているらしい黒マントの人物を見やって,
「えっと……どういう状況ずら?」
と, 疑問符を付けた。
そんなのわたくしが訊きたいですわ, などと思いながら, ダイヤは「とりあえず, この河童をわたくしの上からどかして, 水でも与えておいてくれます?」と頼む。
「う, うん」
『湖の魔女』と思しき人物の方を気にしつつも, 치카を下ろして, 言われたとおりに果南をどかす。それから「《雨よ, 降れ降れ》」と詠唱し, 果南の頭上に小さな雨雲を作る。さ-っと降りだした雨粒によって, 「う, あ-, みずだぁ……」とスポンジが水を吸うように, 果南の肌に潤いが戻っていく。
「あれ, 리코쨩がいる。なんでぇ?」
花丸の腕から離れた치카が, 『湖の魔女』の方を見ながら, こてんと首を傾げた。その声を聞き取って, 花丸に「どうしてこの場に子どもを連れてきたのか」と叱責しようとしたダイヤはそれを中断させる(それを察知して翼を強張らせていた花丸は, ほっと吐息をついた)。
「……치카さん」
「なあに?」
「あちらの方々とお知り合いですか」
ダイヤが問えば, 치카はこれ以上はないくらいの満点笑顔で, 「うんっ」と頷く。
「よ-ちゃんと, 리코쨩だよ!」
先程, 『湖の魔女』が「요우쨩!」と叫んでいたから, 「리코」という方が, 『湖の魔女』だろうと, ダイヤは推察し, さらに質問する。
「そうですか。では, その, 리코さんと요우さんのご関係とはどのようなものでしょう」
「리코쨩はよ-ちゃんの……え-と, なんだろ。お母さんのようで, お母さんじゃなくて, お友達とも, ちがくて」
え-っと, と悩む치카を, ダイヤは待つ。やがて, 치카はちょうど適切な言葉を見つけたとばかりに, アホ毛をぴんと立たせる。
「たいせつな人! 리코쨩は, よ-ちゃんのたいせつな人だよ!」
치카の回答を受け取って, ダイヤは「そう, ですか」と静かに呟く。
치카と顔を合わせるため, 中腰にしていた姿勢を元に戻し, 『湖に魔女』の方を一瞥する。「千年聖樹の葉を千切りにして, 飴色になるまで炒めたら, 苦みを消すための真珠貝のナミダを小さじ一杯加えて……」などと未だクッキング中の그녀は, 無防備にこちらに背を向けている。今なら, あるいは背後からの奇襲が成功するかもしれなかった。だが, 結局ダイヤは, その背中に呆れを多分に含んだ顔つきを一つくれてやってから, 花丸の方を振り返る。
「……花丸さん, 本部に帰りましょうか」
「えっ……あの, い, いいずら?」
『湖の魔女』の方を指差し, ちらちら見ながら言う花丸に, ダイヤは軽く息を吐いて, 「ええ」と答える。
「あれは, この町に災いをもたらす魔女ではなく――」
「ああっ, 材料が足りない! どうしよう! ごめんっ, 요우쨩, 今から邪神の鋭爪取りに魔界に行ってくるね! 大丈夫, 十五分で戻ってくるから!」
「――ただの子煩悩な阿呆ですわ」
……春うららの青空の下, 今日も今日とて港町は平和だった。
じぃ――っと, 腕組みをして, 요우を真っ赤な瞳で見下ろす악마요하네。じぃ~~と, 床に座り込んで, 요하네を透き通った水色の瞳で見上げる요우。
요하네は無言のまま, 요우の眼前に爪の長い指先をつと突き出す。その指先でくるりくるりと小さな円を描く。その指の動きを追って, 요우の視線もくるりくるりと回る。やがて, 요우の澄んだ瞳が膜に包まれたように, ぼうっとした色合いになる。しかし, それも一瞬で, 요우がぷるぷるっ!と顔を振ると, 瞳の色は元の綺麗なアクアブル-に戻る。
「……やっぱり」
요하네は小さく呟いた。と, そこへぬうっと白い腕が요하네の顔の横に伸びる。がしっとその長い指で額を丸々掴まれた요하네は, ぎゃっと心臓を跳ねさせる。
「――욧쨩? 何がやっぱり? 요우쨩に変なことしてない?」
口調は普通なのに, 内包する雰囲気はただならぬ声音で言われてしまえば, 요하네は慌てて弁解するしかない。
「じっ実験! 単なる実験だから!」
「……実験?」
訝しげに訊き返しつつも, するりと外された手に, 요하네はどことなく九死に一生を得た気分になりながら, しかしそれを悟られないように「そ, そうよ」と居丈高を装って言う。
요우たちのどきどきわくわく(舞台裏ではえらい波乱万丈であった)初めてのおつかいから数日後。리코たちの家に訪れた요하네はそのおつかい冒険譚の全容を, すでに요우の口から聞いていた。「あのねっあのねっ, よ-ちゃんおつかい行ってきたんだよっ。すごいでしょ, ほめてほめてっ」と尻尾をふりふり, 心底嬉しげに報告してきた요우には, 普段からひねくれ者ぶっている요하네ですら, (……可愛いわね, こいつ)と思わずにはいられなかったが, まあそれはさておき。
話を聞く中で, 気になったことがいくつかあった。特に요하네が気になったのが, 요우がエルフの上位結界をすり抜けられたというくだりだ。
基本的に魔力的素質のない獣人の요우が, エルフの上位結界に侵入できるなんて, 深く考えるまでもなく, おかしい。そのために요하네はちょっとした実験として, 요우に洗脳魔法を使ってみたのである(洗脳内容は「みかんは実は木になるのではなく, じゃがいものように地面に埋まっている」などと適当極まりないものだ)。勿論, 全力で洗脳魔法を使おうものなら, 요우を溺愛しまくっている『湖の魔女』様にどのような折檻をされてしまうかわかったものではないので, あくまでかる-くではあるが, しかしそれを差し引いたとしても, 요우が요하네の魔法を振り払うまでの時間は短すぎた。つまり, 実験結果としては,
「……요우, 獣人族としてはありえないくらいに魔法耐性が高いんだけど」
「ふうん?」
「ふ-ん?」
요우を自分の膝の上に乗せた리코が, 요하네の実験報告を聞いて相槌を返し, 리코の膝の上に抱きかかえられた요우が, 리코の真似っこをするように後に続く。
「いや, これほんと異常なくらいよ。魔力的素質だと, 有翼族もかなり上位に入るけど, 魔法耐性だけで言えば, もしかしたら, それ以上……? 一体に何が原因でこんなことになってるのか――」
「あ, 요우쨩。林檎さん剥いたよ。食べる?」
「たべる-っ」
「はい, じゃあ, あ-ん」
「あ――ん!」
「話を! 聞・き・な・さ・い・よ!」
요하네の声を華麗に馬耳東風として, 林檎を一切れ摘まんで, あ-んしてあげる리코と, 顔を真上に向け, おっきく口を開けて, あ-んしてもらう요우に, 요하네は最大声量で叫んだ。
리코が요우の頭をよしよししながら, 「ん-でも」と요하네の方を見る。
「低いよりは高い方がいいんじゃない? 魔法耐性が高すぎて困るってこともないし, 問題ないでしょう?」
「もんだいな-し!」
「いや, そりゃ問題はないと言えばないけど, スフィンクスの謎は与えられたら, 解かないと理に反す――」
「요우쨩は요우쨩だもんね-? 魔法耐性が高くても低くても요우쨩だもんね-?」
「ね-!」
あ, だめだこの부모バカ。요우に他の人と違うような性質があったとしても, 全肯定してありのまま受け入れるつもりだ。요하네はそう悟る。
人を巧みな言葉で懐柔してしまうのを得意とするのが악마という種族であるが, しかしそのような種族たる요하네でも「はい, 리코쨩もあ-ん!」「わ-ありがと, あ-ん」などと今度は立場を交代してあ-んごっこをする二人には, 入り込める隙も見つけられない。
요우が異常に魔法耐性が高くなってしまった真相はこのまま闇の中に葬られるのだろうか……と, 요하네が内心唸りながら考えていると, 리코が「……あ」と軽い一音を出した。視線を上げると, 리코が何かを発見したように요우の首元を眺めている。
「ここちょっと, かぶれちゃってるね。草木かぶれを起こす植物にでも触れちゃったかな」
ちょっとごめんね, と断り, 요우の両脇に手を入れて, 自分の膝から下ろすと, 리코は戸棚の方へ行く。
「確かこの前使い残したエリクサ-があったはず……」
ありえない単語を聞き取って, 요하네は「ぶっ」と噴き出した。
「エリクサ-!? あんたそんなもの使ってるの!? 単なるかぶれに!? 百歩譲っても, 治癒魔法で事足りるでしょう!」
かちゃかちゃと戸棚の小瓶をいじりながら, う-んと리코は曖昧な声を漏らす。
「なんかね, 半年ぐらい前までは治癒魔法もちゃんと使えたんだけど, ここ一カ月になってからかなあ, なんか効き目が悪くなっちゃって」
「……効き目が?」
리코が離れて手持無沙汰になったらしい요우が, 요하네の背中に回ってくる。羽をむんずと掴んで, よじよじ登ってくるのを看過しながら, 요하네は訊き返した。それこそ魔法耐性が高いことの数少ない弊害ではないかと思いつつ――요하네はふとあることを思い当る。
「……ねえ, ちょっと訊くけど, 리리って요우に魔法を使うことって結構ある?」
「え? うんまあ。治癒魔法はしょっちゅう使ってたし, 요우쨩が眠れなくてぐずっちゃった時は, 魔力入りの子守唄を歌ってあげるし, あとよく요우쨩が『あそんであそんでっ』ってせがむから, 浮遊魔法で高い高いもよくしてあげ――」
「原因, 리리じゃないっ!」
요하네はくわっと括目し, 리코の言葉を遮って, 思わず叫んだ。大声にびっくりしたのか, 「――ぅわん」と요하네の背中で山頂アタックしていた요우がずり落ちそうになる。それを咄嗟に後ろ手で支えて, 리코に向かってまくし立てる。
「毎日毎日そんなことされたら, そりゃ魔法耐性もぐんぐん伸びるわよ! あったり前じゃない! そんなことも気づかなかったわけ!?」
「……えと, なんとな-く効きづらくなってるなあとは思ってたけど, てっきり子ども特有の成長期かと」
요하네の肩に登頂した요우が, 肩車の要領で요하네の首に足を跨らせる。楽しげにぽんぽんぽんぽんっとシニヨンをお手玉のごとく連打するのを見過ごして, 요하네は自分の瞼を手のひらで覆った。恋は盲目ならぬ, 子煩悩は盲目。最早呆れを通り越して感心してしまうくらいだ。
つまり, 요우の獣人族にしては異常な魔法耐性の高さの真相はこういうことだった。
世界でもトップクラスの魔力を有する『湖の魔女』たる리코に, 日常的に魔法を使ってもらって, それにより요우の魔法耐性が少しずつ伸びていく。魔法が効きづらくなったなあと感じた리코は使用する魔力を強める。その結果, 耐性経験値が加速的に増え, いつのまにやら, 요우はエルフの上位結界すらもすり抜けられるほどに驚異的な魔法耐性になりましたとさ, ちゃんちゃん……ということである。
「……리리ねえ」
「まあまあ, 理由もわかったし, もういいじゃない。ほら요우쨩, おいで-」
리코に手を広げられて名前を呼ばれた요우は, 「わんっ」と返事をする。요하네の肩からずりり~と降りて, ダッシュで리코の胸の中に飛び込む。리코は요우を抱きかかえ, 戸棚から出したエリクサ-を薬指にてんてんっと出して, それを요우の首に塗ってやる。요우は首回りをわしょわしょされる犬のように眼を細めて, 気持ち良さげに尻尾を揺らした。
そんな和やかな二人の様子を見れば, さらに苦言を重ねてやろうとしていた요하네も, 静かに口を閉めてしまう。
……ま, いいか, と思う。
治癒魔法が効きにくくなってしまうというデメリットはあれど, それでも리코が言うとおり, 魔法耐性は低いよりは高いほうがいい。魔法耐性が異様に高い獣人族なんて聞いたことはないが, 人々はきっと驚嘆や憧憬の感情を向けても, 畏怖を持つことはないはずである。いやむしろ, 英雄的カリスマを持った存在として迎えられるかもしれない――。
と, そこまで考えた時, 요하네は唐突に요우が〝迷い子〟であったことを思い出す。
忽然と生まれた場所から姿を消し, 別の場所に忽然と落とされる, 〝迷い子〟という不可思議な現象。요우はその稀な現象の当事者だった。
そのことを改めて思い出した요하네は次いで, 〝迷い子〟現象にいつもセットとして語られるお話があることも想起する。それは〝迷い子〟が成長し, 英雄となって数々の伝説を残すという類の英雄譚である。
요우が리코の首元に, ぐりぐり~と自分の柔らかな髪の毛を擦り付けて愛情表現をしているのを眺めながら, 요하네はあるいはもしかしたら……, と考える。
요하네はタイミングを見計らい, 리코に向けて「ねえ」と口を開いた。
「요우って, 元は〝迷い子〟でしょう?」
「そうだね」
요우をもぎゅ-っとしながら, 리코が答える。요우がこの家から程近い湖畔に〝迷い子〟として落とされてから早五年。当時の리코は犬嫌いのせいで, だっこもままならなかったのに, と少しだけ昔を懐かしむ思いを脳裏に掠めながらも, 요하네は言葉を続けた。
「もしも, もしもだけどさ, いつか요우がおっきくなって, 〝迷い子〟だからだとか, 獣人としてはありえないくらい魔法耐性の高いからだとか, そんな理由で, 周囲から英雄として担ぎ上げられて, 魔王退治的なものに駆り出されるようなことがあっ――」
「させないよ?」
「…………」
「…………」
一刀両断とばかりに, 요하네の言葉をぶった切って言い放った리코に, 요하네は怯んで沈黙してしまう。리코は柔和に微笑んでいる。
「……いや, させないというか, あくまで可能性の話で――」
「そんな危ないこと, 요우쨩には, させないよ?」
にっこりと리코は顔をわずかに傾けて再度言った。笑っていない琥珀の瞳に見つめられて, 요하네は翼をそわりと浮かせてしまう。端的に言って, 怖かった。
「万が一, そんなことになったら, 私が代わりに魔王を倒しに行くから」
言っていることは冗談っぽいのに, 目だけはどこまでもマジだった。いつもながら友人の度を越えた過保護っぷりに, 何か言うことも疲れて, 「あっそ……」と요하네は小声で返す。
英雄の保護者が過保護を発揮させて出張ってくるお話なんて, 見たことも聞いたこともない。仮にあったとしても, それは最早コメディの域だ。
どうやら, この魔女と子犬の二人が送る日々が, もしも後の世に誰かの手によって物語としてまとめられたとしても, その物語は絶対に英雄譚的な代物にはならないらしいと, 요하네は心の中で確信する。
리코の腕の中では, 林檎を食べてお腹いっぱいになったせいか, 요우がほあ~っと呑気に大きな欠伸をしていた。
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